まえがき |
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目次 |
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「熟田津今昔」の第一章から第五九章(平成二七年(2015)六月現在迄)のテーマをリストアップしました。
検索希望のテーマを確認の上、次のステップにお進みください。 |
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第一章 |
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古代の天皇の道後入湯記 @〜E |
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道後温泉が「坊っちゃん」として人口に膾炙してはいるが、「熟田津の湯」としては・・・ |
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第二章 |
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伊予の湯桁 @〜E |
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熟田津の時代の文化を描く段になって思わぬ障害が出てきた。古代の熟田津には・・・ |
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第三章 |
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道後・南北朝時代之記憶 @〜E |
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南北朝時代の伊予と云えば当然河野一族の栄枯盛衰から・・・ |
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第四章 |
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熟田津古道 @〜E |
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熟田津古道という名称は郷土史には無い。当然のことながら史学会で認知されて・・・ |
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第五章 |
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平安時代の伊予・道後@〜E |
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伊予は居よいか住みよいか。平安時代は七九四年(鳴くよ鶯平安京)から・・・ |
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第六章 |
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一遍と遊行の起点・道後 @〜K |
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平成十三年度NHK大河ドラマ「北条時宗」で蒙古に雄々しく立ち向かった時宗は・・・ |
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第七章 |
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愛媛県温泉郡大字道後@〜C |
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明治初期の道後村の本籍地の表示は「愛媛県温泉郡大字道後」である・・・ |
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第八章 |
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掛軸が語る近世の道後@〜E |
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遊行上人宝厳寺来訪〜肥前国松浦川にて 同行共をは先へ渡し舟のりかへさを〔竿〕待居けるほとに |
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第九章 |
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松山中学校と慶応義塾〜初代校長・草間時福〜 |
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子規が松山から最初に上京するのは明治十六(一八八三)年六月のことであるが・・・ |
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第十章 |
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子規と「演説」 〜 演説の来歴〜 |
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松山子規会の創成期を記述した『子規遺芳〜松山子規会史〜』を繙くと、昭和十八年一月第一回例会から・・・ |
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第十一章 |
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子規と小林小太郎〜 伊予松山藩の英学徒たち〜 |
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類稀な文学者である子規・正岡常規(以下子規とする)は慶応三年(一八六七)九月に生まれ・・・ |
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第十二章 |
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一遍と神々の出会い @夢託ということ |
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一遍聖ほど神仏に寛容であった仏教者はない。神仏混淆であったが・・・ |
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第十三章 |
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中・近世道後のキリスト教 |
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日本における中近世キリスト教はフランシスコ・ザビエル
の来日(天文十八年1549)をもって始まり・・・・ |
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第十四章 |
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一遍と神々の出会い A医聖、湯聖ということ |
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「市聖空也」「勧進聖重源」と並んで「捨聖一遍」は宗教に関心のある者にとっては・・・ |
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第十五章 |
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道後八景十六谷 @義安寺蛍A奥谷黄鳥B円満寺蛙C冠山杜鵑・・・ |
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近世以降各地で「名所八勝」とか「十二名勝」とか観光の見所が特定されてくる。 |
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第十六章 |
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一遍の在る道後の風景 |
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世の道後郷は山と谷と川に育まれた「町と村」であった。 |
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第十七章 |
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漱石と三好家伝来「湧ケ淵大蛇(オロチ)伝説」 |
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明治二十八年八月から十月にかけて五十数日間漱石と子規は愚陀仏庵で生活と共にしたが |
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第十八章 |
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「坂の上の雲」異聞・・・和久正辰小伝 |
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松山では中村時広市長自らが「坂の上の雲」まちづくりの積極的な提言をし、具体的に行政に反映されて・・・ |
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第十九章 |
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一遍と神々の出会い(3) 尼僧ということ(上) |
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時宗の開祖一遍の生誕地とされる伊予国道後奥谷(現愛媛県松山市道後湯月町)の寶厳寺は、・・・ |
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第二十章 |
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道後村庄屋催事記 附 「伊予国温泉郡道後村庄屋の系譜(「源姓三好家系図」) 」 |
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資料は明治十三年九月改之『年中行事録』であり、江戸期の催事を御維新になり曽祖父が簡略化した・・・ |
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第二十一章 |
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一遍と神々の出会い(3)尼僧ということ(下) |
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教科書的表現をすれば、中世の女性は「五障」にして「三従」(父・夫・子)を強いられ、「女性垢穢」の為・・・ |
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第二十二章 |
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一遍会講演記録 例会35年の歩み(資料集) |
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平成17年6月11日、一遍会は第400回例会を迎えることになる。
第1回から第400回までの例会の記録を・・・ |
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平成25年10月12日、一遍会は第500回例会をつつがなく迎えることになりました。心から感謝申し上げます。 |
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第二十三章 |
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愛媛と慶応義塾〜明治の慶応ボーイたち〜 小林小太郎・中上川彦次郎・草間時福 |
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愛媛(伊予)は江戸時代八藩(松山・今治・小松・西条・宇和島・吉田・大洲・新谷)から成り、各藩は藩校・・・ |
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第二十四章 |
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「慶応義塾入社帳」筆頭記載者 小林小太郎の出自 |
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小太郎の父小林小四郎(諱儀行)は旧東益津村野秋(現焼津市内)で農耕や樵で生計を立てたが、のち・・・ |
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第二十五章 |
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松山中学校と慶応義塾(続)〜二代校長の「怪」〜 |
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二代校長として『同窓会名簿』で西川通徹、『七十五年史』で村松賢一、『百年史』で中井恒介三氏の名前が・・・ |
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第二十六章 |
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隈本有尚と漱石・子規〜子規の東京大学予備門「落第」の周辺〜 |
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明治の近代的な教育制度では「読み書き算盤」に代わって「英語・数学・国語」が重点教科となった。 |
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第二十七章 |
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子規記念博物館「今月の俳句」(懸垂幕)鑑賞(令和5年2月度俳句を掲載しました)「子規記念博物館今月の俳句」 |
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高校卒業50周年記念同期会で講演頂いた天野祐吉さんが選んだ正月句『一年は正月にあり一生は今にあり』です。平成25年10月に喜寿祈念同期会を迎えました。 |
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第二十八章 |
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一遍上人記 ・ 京道場遊行念仏(みやこのどうじょうゆぎょうねんぶつ)
<一遍と神々の出会い(4)> |
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昔武蔵の国の住人に越前の庄道広とて有しが、家の家老大官兵庫は、御御台命婦院をはじめ、豊姫・小夜姫御姉妹、御台の御弟大井太郎左衛門其の外御前近き家中残らず、我が屋敷へ御申し致し、様々御馳走申しける。 |
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第二十九章 |
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一向聖・一遍聖 略年表 |
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本「略年表」は、平成19年2月度一遍会例会で発表した「浄土時宗開祖 一向俊聖〜一遍の一歩先を歩いた遊行聖〜」の添付資料である。 |
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第三十章 |
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浄土時宗開祖・一向俊聖 小伝 <一遍と神々の出会い(5)> |
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一向俊聖(1239〜1287)という鎌倉時代に時宗開祖・一遍智真(1239〜1239)と同時期に南無阿弥陀仏を布教した遊行僧については殆どの人は知らない。手元の「広辞苑」(岩波書店)や「日本名僧辞典」(東京堂)にも記載されていない。 |
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