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まえがき |
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| 第一章 |
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古代の天皇の道後入湯記 @〜E |
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道後温泉が「坊っちゃん」として人口に膾炙してはいるが、「熟田津の湯」としては・・・ |
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| 第二章 |
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伊予の湯桁 @〜E |
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熟田津の時代の文化を描く段になって思わぬ障害が出てきた。古代の熟田津には・・・ |
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| 第三章 |
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道後・南北朝時代之記憶 @〜E |
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南北朝時代の伊予と云えば当然河野一族の栄枯盛衰から・・・ |
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| 第四章 |
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熟田津古道 @〜E |
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熟田津古道という名称は郷土史には無い。当然のことながら史学会で認知されて・・・ |
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| 第五章 |
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平安時代の伊予・道後@〜E |
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伊予は居よいか住みよいか。平安時代は七九四年(鳴くよ鶯平安京)から・・・ |
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| 第六章 |
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一遍と遊行の起点・道後 @〜K |
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平成十三年度NHK大河ドラマ「北条時宗」で蒙古に雄々しく立ち向かった時宗は・・・ |
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| 第七章 |
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愛媛県温泉郡大字道後@〜C |
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明治初期の道後村の本籍地の表示は「愛媛県温泉郡大字道後」である・・・ |
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| 第八章 |
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掛軸が語る近世の道後@〜E |
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遊行上人宝厳寺来訪〜肥前国松浦川にて 同行共をは先へ渡し舟のりかへさを〔竿〕待居けるほとに |
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| 第九章 |
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松山中学校と慶応義塾〜初代校長・草間時福〜 |
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子規が松山から最初に上京するのは明治十六(一八八三)年六月のことであるが・・・ |
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| 第十章 |
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子規と「演説」 〜 演説の来歴〜 |
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松山子規会の創成期を記述した『子規遺芳〜松山子規会史〜』を繙くと、昭和十八年一月第一回例会から・・・ |
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| 第十一章 |
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子規と小林小太郎〜 伊予松山藩の英学徒たち〜 |
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類稀な文学者である子規・正岡常規(以下子規とする)は慶応三年(一八六七)九月に生まれ・・・ |
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| 第十二章 |
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一遍と神々の出会い @夢託ということ |
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一遍聖ほど神仏に寛容であった仏教者はない。神仏混淆であったが・・・ |
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| 第十三章 |
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中・近世道後のキリスト教 |
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日本における中近世キリスト教はフランシスコ・ザビエル
の来日(天文十八年1549)をもって始まり・・・・ |
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| 第十四章 |
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一遍と神々の出会い A医聖、湯聖ということ |
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「市聖空也」「勧進聖重源」と並んで「捨聖一遍」は宗教に関心のある者にとっては・・・ |
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| 第十五章 |
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道後八景十六谷 @義安寺蛍A奥谷黄鳥B円満寺蛙C冠山杜鵑・・・ |
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近世以降各地で「名所八勝」とか「十二名勝」とか観光の見所が特定されてくる。 |
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| 第十六章 |
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一遍の在る道後の風景 |
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中世の道後郷は山と谷と川に育まれた「町と村」であった。 |
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| 第十七章 |
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漱石と三好家伝来「湧ケ淵大蛇(オロチ)伝説」 |
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明治二十八年八月から十月にかけて五十数日間漱石と子規は愚陀仏庵で生活と共にしたが |
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| 第十八章 |
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「坂の上の雲」異聞・・・和久正辰小伝 |
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松山では中村時広市長自らが「坂の上の雲」まちづくりの積極的な提言をし、具体的に行政に反映されて・・・ |
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| 第十九章 |
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一遍と神々の出会い(3) 尼僧ということ(上) |
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時宗の開祖一遍の生誕地とされる伊予国道後奥谷(現愛媛県松山市道後湯月町)の寶厳寺は、・・・ |
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| 第二十章 |
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道後村庄屋催事記 |
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資料は明治十三年九月改之『年中行事録』であり、江戸期の催事を御維新になり曽祖父が簡略化した・・・ |
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| 第二十一章 |
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一遍と神々の出会い(3)尼僧ということ(下) |
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教科書的表現をすれば、中世の女性は「五障」にして「三従」(父・夫・子)を強いられ、「女性垢穢」の為・・・ |
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| 第二十二章 |
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一遍会講演記録 例会35年の歩み(資料集) |
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平成17年6月11日、一遍会は第400回例会を迎えることになる。
第1回から第400回までの例会の記録を・・・ |
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| 第二十三章 |
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愛媛と慶応義塾〜明治の慶応ボーイたち〜 小林小太郎・中上川彦次郎・草間時福 |
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愛媛(伊予)は江戸時代八藩(松山・今治・小松・西条・宇和島・吉田・大洲・新谷)から成り、各藩は藩校・・・ |
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| 第二十四章 |
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「慶応義塾入社帳」筆頭記載者 小林小太郎の出自 |
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小太郎の父小林小四郎(諱儀行)は旧東益津村野秋(現焼津市内)で農耕や樵で生計を立てたが、のち・・・ |
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| 第二十五章 |
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松山中学校と慶応義塾(続)〜二代校長の「怪」〜 |
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二代校長として『同窓会名簿』で西川通徹、『七十五年史』で村松賢一、『百年史』で中井恒介三氏の名前が・・・ |
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| 第二十六章 |
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隈本有尚と漱石・子規〜子規の東京大学予備門「落第」の周辺〜 |
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明治の近代的な教育制度では「読み書き算盤」に代わって「英語・数学・国語」が重点教科となった。 |
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| 第二十七章 |
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子規記念博物館「今月の俳句」(懸垂幕)鑑賞(平成22年3月度俳句を掲載しました) |
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高校卒業50周年記念同期会で講演頂いた天野祐吉さんが選んだ正月句『一年は正月にあり一生は今にあり』です。 |
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| 第二十八章 |
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一遍上人記 ・ 京道場遊行念仏(みやこのどうじょうゆぎょうねんぶつ)
<一遍と神々の出会い(4)> |
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昔武蔵の国の住人に越前の庄道広とて有しが、家の家老大官兵庫は、御御台命婦院をはじめ、豊姫・小夜姫御姉妹、御台の御弟大井太郎左衛門其の外御前近き家中残らず、我が屋敷へ御申し致し、様々御馳走申しける。 |
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| 第二十九章 |
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一向聖・一遍聖 略年表 |
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本「略年表」は、平成19年2月度一遍会例会で発表した「浄土時宗開祖 一向俊聖〜一遍の一歩先を歩いた遊行聖〜」の添付資料である。 |
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| 第三十章 |
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浄土時宗開祖・一向俊聖 小伝 <一遍と神々の出会い(5)> (作業中) |
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一向俊聖(1239〜1287)という鎌倉時代に時宗開祖・一遍智真(1239〜1239)と同時期に南無阿弥陀仏を布教した遊行僧については殆どの人は知らない。手元の「広辞苑」(岩波書店)や「日本名僧辞典」(東京堂)にも記載されていない。 |
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| 第三十一章 |
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トポスとしての道後・熟田津古道 |
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本論は平成19年2月17日開催された「伊予山の辺のみち歩こう会」(代表 森亮一氏)が主催したギャラリートークの要旨である。 |
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| 第三十二章 |
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子規サロン「子規にとっての一遍さん」 |
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平成十九年九月二十日子規記念博物館で「第1回子規サロン」が開催され、スピーカーとして招待された。以下は演題「子規にとっての一遍さん」の要旨である。 |
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| 第三十三章 |
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一遍成道の地・伊予国窪寺再考 〜「一遍聖絵」に描かれた二人の僧は一遍と聖戒か〜 |
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今回「窪寺再考」として通説を検証したが、通説を以って正鵠であるという結論にはならなかった。むしろ多くの疑問が生じた。事実と真実の狭間で一遍成道の地・窪寺並びに窪寺閑室を考えたが、現地検証が改めて必要であることを痛感した。 |
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| 第三十四章 |
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一遍さんと道後・松山・伊予国 |
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2008年7月7日路後公民館主催の婦人学級と老人学級合同の教養講座が開催され、道後にお住まいの方々約120名の出席者に地元道後からの一遍さんの発信をした。ローカル色が芬芬としているが、他地域の方にも案外ご参考になるのではなることを願っている。 |
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| 第三十五章 |
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「捨ててこそ」の経営〜共同体ということ |
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平安仏教の天台宗・真言宗・浄土宗であれ、既存の仏教集団や朝廷や幕府から迫害を受けたことは明白な歴史的事実である。鎌倉期に入ると迫害を受けた天台宗・真言宗が浄土宗・真宗・日蓮宗・時衆(時宗)の弾圧に加担することになる。世界史的に観れば、原始キリスト教や拝火教も同様である。 |
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| 第三十六章 |
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一遍時衆を陸奥国江刺(祖父通信墳墓)に道案内した男 〜河野通次〜 |
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一遍・時衆の30〜40名の教団の丸3年に及ぶ猛暑・厳寒の遊行を可能にした経済的、政治的背景を如何にとらえるか。また、時衆の生命と通行(安全・安心)を保証した人的背景を如何にとらえるか。担保は「賦算」(南無阿弥陀仏による救済)だけか。 |
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| 第三十七章 |
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松山英学所初代校長 草間時福 〜小林小太郎周辺の伊予人@ |
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草間時福の松山時代は、松山英学所初代校長に引き続き、明治九年九月愛媛県変則北予中学校長、明治十一年六月愛媛県立松山中学校長を歴任、明治十二(一八七九)年七月まで校長の任にあった。松山英学所・松山中学校の教育内容と「演説」については直弟子永江為政(当時、雑誌『乃木宗』主筆)が『四十年前之恩師草間先生』に書き残している。 |
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| 第三十八章 |
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大野銀行頭取 大野トウ吉 〜小林小太郎周辺の伊予人A (注)「トウ」は<人偏+同> |
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実業家としてのイ同吉の優れた決断は、明治一五年家計帳簿を整理し以後「複式簿記」を用いたことである。日本における複式簿記の普及は、明治六年(一八七三)福沢諭吉訳『帳合の法』から始まるとされるが、文部省が教科書として採用するのは小林儀秀(小太郎)訳『馬耳蘇氏記簿法』(明治八年 文部省刊)と『馬耳蘇氏記簿法』(明治九年 文部省刊)以降である。 |
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| 第三十九章 |
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松山藩洋学所(英学司教・小林小太郎)出身の教育者 和久正辰 〜小林小太郎周辺の伊予人B |
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秋山好古は終生正辰を「先生」と呼び師弟の礼を重んじた。好古に「教育の何たるか」を教え、「軍人の道」を教えた教育者和久正辰こそ、秋山好古を大成させた恩人であり、好古が子息二人を慶応義塾に進学させたのは、そこに和久正辰「先生」の生き方を見たからではないだろうか。 |
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| 第四十章 |
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ジャーナリストに徹した松山中学3代目校長 西河通徹 〜小林小太郎周辺の伊予人C |
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明治七年(一八七五)三月大阪慶応義塾に入社、翌八年二月には上京して三田の慶応義塾で英学を学び、福沢諭吉の啓蒙思想に啓発され、在学中から「朝野新聞」(編集長は宇和島出身の末広鉄腸)などに反政府的な投書を繰り返した。結果、明治九年三月「新聞条例第十二条」に抵触し禁獄三ヶ月、罰金五十円の処刑を受ける。反政府的な愛媛県に県令として岩村高俊が赴任し、福沢諭吉や末広鉄腸の人脈で松山英学所の所長に草間時福を招聘、「海南新聞」の初代編集長にも起用し民衆の啓蒙に勤めた。明治十年刑期を終えた通徹は、帰郷し「海南新聞」の主筆となり「公共社」に参加した。 |
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| 第四十一章 |
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愛媛県の初代権令(県令) 岩村高俊 〜小林小太郎周辺の伊予人D |
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明治元年、二四歳で陸援隊軍監となり、東山道討征群に参加し、信州平定の軍監として松代、長岡藩(家老河合継之助)を下し、新発田・米沢に転戦し、年末に京都に凱旋する。明治二年、新潟府権判事、明治四年宇都宮県権参事、明治六年神奈川県権参事、明治七年一月佐賀県権令(佐賀の乱、江藤新平処断)、同年十二月愛媛県権令(県令)となり五年余は県政では「民権知事」として保守的な風土を革新し、明治十三年三月内務省大書記官(戸籍局長)に栄進する。 |
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| 第四十二章 |
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| 第四十三章 |
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| 第四十四章 |
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| 第四十五章 |
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| 第四十六章 |
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| 第四十七章 |
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| 第四十八章 |
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| 第四十九章 |
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| 第五十章 |
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