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一 遍 上 人 と 宝 厳 寺
「子規忌過ぎ一遍忌過ぎ月は秋」
酒井黙禅
句碑
額(玉泉堂)
「色里や十歩はなれて秋の風」
正岡子規
墓所
句集
一遍上人誕生の地 愛媛県松山市道後湯月町 時宗 豊国山遍照院 「宝厳寺」
当寺は斉明天皇勅願により建立、空海入住、のち天台宗の遍照院、延応元年宗祖一遍上人(幼名 松壽丸)の生誕地である。
奥谷道場とも云う。江戸時代まで門前に末寺十二院があり、道後温泉本湯とともに繁盛した。
本堂右壇には国重要文化財「一遍上人木像」左壇には河野通信、通広、通俊公各位の位牌を安置。
俳都に相応しく一遍上人に因んだ歌碑、句碑も多い。
一遍会事務局理事 三好恭治氏の「お寺ネット」寶厳寺紹介文より
熟田津は何処だ 道後説を唱える一遍上人に生涯をかけて帰依した 一遍堂 亭主 故 新田 兼市 翁
一遍研究家として著名な 足助成男 (あすけ・たけお) 主な著書 聖一遍さん(一遍入門) 若き日の一遍 絵本一遍さん
宝厳寺の宗旨 斉藤茂吉歌碑 薄墨桜西法寺の縁起にも・・・ 三好恭治の一遍徒然草紙
宗祖「一遍」 国宝開扉の弁 宝厳寺の「金剛滝」記念碑 三好恭治の「熟田津今昔」
年中行事 時宗開祖「一遍」 山門から見える色里(子規の句) 三好恭治の一遍会「宝厳寺」
親孝行 河野静雲句碑 伊予河野家の一遍上人 一遍上人の「一遍会」
縁起 門柱石灯篭 決定往生六十万人 「念ずれば花ひらく」坂村真民の寿墓
時宗について 正岡子規の句碑 観音堂 一遍会双書リンク
別願和讃 国宝・一遍聖絵 南無阿弥陀仏 河野静雲師の句碑
上人のお歌32首 一遍上人御詠歌 上田雅一の捨て聖一遍を想う 一遍上人関連著書
宝厳寺にある上人立像 上田 雅一氏 撮影
木造 一遍上人 立像     重要文化財(彫刻)  明治三四年三月ニ七日指定     松山市・松山市教育委員会
一遍は、鎌倉時代の僧で遊行上人といわれ、時宗を開祖した高僧である。
「南無阿弥陀仏」を専らとして、宗教的感興にまかせて念仏踊りを勧め、農漁民など各層に広く支持を受けて、革新仏教を確立した。
正応二(一二八九)年に兵庫和田岬の観音堂で五一歳の生涯を閉じるまで衆生済度の旅を続けたのである。
上人立像は、寄木造で像高一一三.九センチメートル。
太く秀でた眉、意思の強さを示す口元、慎ましい合掌、裾短い法衣からあらわれた素足、
これらは遊行する上人の崇高な姿を表現し、室町時代中期の優れた肖像彫刻である。
銘文に文明七(一四七五)年作とある。 
宝厳寺にある上人立像 宝厳寺にある上人立像
幼名 松壽丸
上田 雅一氏 撮影 掲載許可OK 足助威男 作
縁起縁起
 湯月町にある古刹で、寺伝には天智天皇の四年(六六五)国司 乎智宿弥守興(おちのすくねもりおき)が
天皇の詔によりて建立、のち伏見天皇正応五年(一二九二)再建され天台宗を時宗に改めた。
時宗の開祖一遍上人(昭和十五年澄誠大師(しようじようだいし)号宣下)誕生の地として名高い。
河野四郎通信の孫に当り別府七郎左衛門通広の三男。
十才で母を失いすぐ仏門に入り随縁と称し、太宰府の聖達上人の下で修業し智真と改名、のち紀州熊野権現に参籠して成道、
これより一遍と名のり、南無阿弥陀仏を唱名しながら全国を遊行し世に遊行上人と専称された。
寺は昔十二坊あり広大荘厳であつた。
一遍上人木像は重要文化財で室町期の傑作。
懸仏及び残欠一体は市指定文化財。 
寺境は一遍上人誕生地として県指定の史跡。
明治二十八年子規は漱石と共に道後に遊び散策集に、『松が枝町を過ぎて宝厳寺に謁づ。
ここは一遍上人御誕生の霊地とかや。
古往今来当地出身の第一の豪傑なり。
妓廓門前の楊柳往来の人をも招かでむなしく「一遍上人御誕生地」の古碑は
しだれかかりたるもあはれに覚えてーーー』 と次の句を残した。 
古塚や恋のさめたる柳散る 色里や十歩はなれて秋の風
出典 昭和40年 編著者 松山市教育委員会 「伊予路の文化」
河野家家紋の由来
治承4年(1180)4月9日、源頼政(清和源氏だが頼朝らとは遠く離れた血筋)が以仁王(後白河上皇の皇子)の平家追討の宣旨を得て挙兵。
この兵は制圧されてしまうものの、8月17日頼朝もそれに呼応して立ちあがった。
「いざ鎌倉」を合言葉に、全国の源氏方の武将も立ち上がった。
その時、伊予河野家は三番目に駆けつけたので、三の字を家紋に許された。と言う話もある。
色里と十歩はなれた山門 遠景 河野家家紋 折敷に三文字
道後温泉本館横のだらだら坂をのぼりきったところで、急にネオン坂が視界に飛びこむ。
ここは一八七七(明治一○)年以来昭和三三年の売春防止法施行にいたるまで道後松ヶ枝町遊廓があったところだ。
 漱石が『左に大きな門があって、門の突き当りが御寺で、左右が妓楼である。
山門のなかに遊廓があるなんて、前代未聞の現象だ。』と「坊っちゃん」で描写している花街は、
いまは旅館と飲み屋に変貌している。そのつきあたりの寺が宝厳寺だ。
 この寺は時宗の開祖一遍の誕生地といわれる。
一遍は、一二三九(延応元)年に伊予の豪族河野氏一門の子として生まれ、一五歳のとき出家して、大宰府の念仏上人聖造のもとで行をおさめた。
その後、伊予にかえり、久万菅生(すごう)山岩屋などにこもって苦行をつづけ、
一二七四(文永十一)年熊野権現に参籠してさとりをひらき、時宗をおこした。
そして一二八九(正応二)年兵庫の観音堂で五一歳の生涯を終えるまで、賦算(札くばり)と踊り念仏による念仏勧進の遊行をつづけた。
 宝厳寺は六六五年(天智天皇)に創建され、一二九二(正応五年)の再建時に天台宗を時宗に改めたという。
この寺に安置されている寄木造の一遍上人立像(重文)は、銘文に一四七五(文明七)年の作とあり、
上人の崇高な、いのりの姿を表現した室町時代の肖像彫刻である。
出典 1974年 愛媛県高等学校教育研究会社会部 「愛媛県の歴史散歩」
一遍上人 鎌倉中期の僧。時宗の開祖。円照大師。伊予の人(一二三九~八九)。
浄土教を学び、のち他力念仏を唱道。全国を巡り、衆生済度のため民衆踊り念仏をすすめ、遊行上人、捨聖といわれた。
一遍上人は伊予河野家の出で、父は河野通広で名は智真坊。兄弟に伊豆坊こと仙阿上人、通定こと聖戒上人がいる。
有名な河野通有の祖父と一遍上人の父が兄弟。戦乱の時代、わが子の命を長らえるため出家させたと云う。
こんなことから上人は、幼い頃から人の世の儚さ、虚しさを感じたといわれている。
南無阿弥陀仏 なむ‐あみだぶつ
南無阿弥陀仏
阿弥陀仏に帰命するの意。これを唱えるのを念仏といい、それによって極楽に往生できるという。六字の名号。
帰命 阿弥陀如来に帰依する
南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ
〔浄土宗・真宗で〕阿弥陀仏に帰依(キエ)する気持を表わして唱える言葉。六字の名号(ミヨウゴウ)。
南無 なむ
〔仏〕(梵語namas  帰命・敬礼などと訳す) 三宝に帰依・敬礼キヨウライの意を表す語。南無や。那謨ナモ。納莫ノウマク。「―三宝」
阿弥陀 あみだ
1 〔無量寿・無量光の意の梵(ボン)語の音訳〕西方(サイホウ)浄土に住み、すべての人間を救おうという誓いを立てている仏。
用例・作例
―仏・―如来(ニヨライ)
宝厳寺本堂
宝厳寺正面
一遍上人 御真筆 南無阿弥陀仏 房子



世話人

一遍堂

新田

兼市



如来 にょ‐らい
(梵語tath gata  多陀阿伽陀) 仏十号ブツジユウゴウの一。
仏の尊称。「かくの如く行ける人」、すなわち、修行を完成し、悟りを開いた人の意。
のちに、「かくの如く来れる人」、すなわち、真理の世界から衆生救済のために迷界に来た人と解し、如来と訳す。
如去ニヨコ。
阿弥陀被り あみだ‐かぶり
阿弥陀仏が光背を負うたように、帽子などを後頭部に傾けてかぶること。あみだ。
阿弥陀籤 あみだ‐くじ
(籤の線の引き方が、もと阿弥陀の光背に似て放射状であったのによる) 白紙に線を人数分引き、金額を各線の一端に記して隠し、
各自が引き当てた額の銭を出し、菓子などを買って平等に分配するもの。あみだ。あみだのひかり。くものすごこう。
南無三 なむ‐さん 感
 南無三宝の略。
南無三宝 なむ‐さんぼう
 名 〔仏〕仏・法・僧の三宝に帰依すること。謡、邯鄲カンタン「げに何事も一睡の夢、――」
南無三感 なむ‐さんかん
驚いた時や失敗した時、また事の成功を祈る時に発する語。しまった。さあ大変だ。なむさん。狂、入間川「―まんまとたらされた」
Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997
一遍上人御誕生旧跡 あとやさき百寿も露のいのち哉 静雲 「あかあかと・・・ 文字は茂吉自筆
願主 小原菁々子 柴田慎子 施主 阿部節子 斉藤 茂吉 歌碑
あかあかと一本の道通りたり  霊剋(たまきわ)るわが命なりけり
斉藤 茂吉 (1882-1953)明治15年-昭和28年
茂吉の第二歌集「あらたま」(大正10年刊)巻頭6の「一本道」の第一首。「霊剋る」(たまきわる)は「命」「吾」(わ)などにかかる枕詞。
当寺とのかかわりは昭和一二年五月一二日茂吉が参拝したことによるが、
この歌は、東京代々木ヶ原の秋の斜陽のイメージに孤独な者の一筋の人生行路を重ねたものといわれる。
歌人山上次郎氏は茂吉の遺髪を受けてこヽにおさめた。
松山市教育委員会   俳句の里道後コース⑪番
本堂の左にある「観音堂」 一遍上人御詠歌
大乗妙典観世音菩薩普門品偈の一節
だいじょうみょうてんかんぜおんぼさつふもんぼんげ
具 一 切 功 徳  慈 眼 視 衆 生
ぐいっさいくどく じげんじしゅうじょう
福 聚 海 無 量  是 故 応 頂 禮
ふくじゅかいむりょう ぜこおうちょうらい
旅衣      一遍
木のねかやのね いつくにか
身のすてられぬ
 ところあるへき
観音 かんのん 
「観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)」、「観自在(かんじざい)菩薩」の略称で、大乗仏教の中で地蔵とならんで、
もっとも多くの信仰をあつめている菩薩。
サンスクリットのアバローキテーシュバラの漢訳で、旧訳では観世音、新訳では観自在などとする。
施無畏者(せむいしゃ)、大悲聖者(だいひしょうじゃ)、救世大士(ぐぜだいし)などの別名をもち、
人々を救済する、仏教の慈悲の精神を体現した菩薩とされる。
観世音、観自在とは、救いをもとめる者があれば、数かぎりない手段をつかって救済するという意味で、
救済をもとめる者に応じてさまざまな変化相をもつことで知られる。
「観音経」には、観音が33の姿をとって人々を救済するという、いわゆる三十三観音の記述がある。
また六観音および七観音の信仰はひろく知られている。
六観音とは、基本形である聖(しょう)観音をはじめ、
十一面観音・如意輪(にょいりん)観音・馬頭(ばとう)観音・准胝(じゅんてい)観音・千手観音の6つで、
これに不空羂索(ふくうけんじゃく)観音をくわえて七観音とする。
観音は、もともと阿弥陀仏の脇侍(きょうじ:仏の両わきにひかえる)として左におかれ、
右にひかえる知恵の象徴である勢至(せいし)菩薩とともに阿弥陀三尊を形成する。
観音が阿弥陀三尊から独立して信仰されるようになったのは、インドでは1世紀ごろのことからと考えられている。
「華厳経」によれば、観音の浄土は南インドの補陀落(ふだらく:サンスクリットでポータラカ)であるとされる。
チベットではラサのダライ・ラマの王宮をポタラ宮といって観音の浄土と考えているし、
中国では浙江省の舟山群島の普陀山を、
日本では和歌山県の那智をそれぞれ観音の浄土と考え、信仰してきた。
観音信仰は仏教文化圏の全体にひろがっているが、日本では推古天皇の時代にすでにみられ、奈良時代には、
観音を本尊とする長谷寺が建立されるなど、とくに顕著な信仰があった。
平安時代にはいると、花山天皇が西国三十三カ所の霊場を参拝するなど、民俗的信仰にまで定着した。
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【大乗仏教】だいじょう‐ぶっきょう( ケウ)
紀元前後頃からインドに起った改革派の仏教。
従来の部派仏教が出家者中心・自利中心であったのを小乗仏教として批判し、
それに対し、自分たちを菩薩と呼び利他中心の立場をとった。
東アジアやチベットなどの北伝仏教はいずれも大乗仏教の流れを受けている。
一遍上人御詠歌
 一遍上人 平成元年が生誕七五○年、没後七〇〇年に当るのを記念して、平成二年三月一五日一遍会と地元有志の建立。
正応ニ年淡路て病悩をおかし巡行した時の作て、念仏をすすめてまわるくるしみなどものの数ではないとの意。
【一遍上人絵伝】いっぺん‐しょうにん‐えでん (シヤウ エ)
一遍の遍歴の生涯を描いた絵巻。
門弟聖戒の詞、法眼円伊の絵で1299年(正安1)完成した京都歓喜光寺ほか所蔵の
「一遍聖絵ヒジリエ」12巻が芸術作品としても極めて価値が高い。
別に宗俊が編述した系統のもの(「一遍上人縁起絵」などと称)も伝存。
一遍上人語録    別願和讃
一遍上人語録      別 願 和 讃
身を観ずれば水の泡  消ぬる後は人もなし  命をおもへば月の影  出入(イデイル)息にぞとゞまらぬ
人天(ニンデン)善所(ゼンシヨ)の質(カタチ)をば  おしめどもみなたもたれず  地獄鬼畜のくるしみは
いとへども又受(ウケ)やすし  眼(マナコ)のまへのかたちは    盲(メシイ)て見ゆる色もなし
耳のほとりの言の葉は  聾(ミミシイ)てきく声ぞなき  香(カ)をかぎ味(アジワイ)なむること  只しばらくのほどぞかし
息のあやつり絶(タエ)ぬれば   この身に残る功能(クノウ)なし  過去遠々(オンオン)のむかしより
今日今時(イマドキ)にいたるまで  おもひと思ふ事はみな    叶はねばこそかなしけれ
聖道(シヨウドウ)浄土の法門を  悟(サトリ)とさとる人はみな  生死(シヨウジ)の妄念つきずして
輪回(リンエ)の業(ゴウ)とぞなりにける   善悪不二(フニ)の道理には  そむきはてたる心にて
邪正(ジヤシヨウ)一如(イチニヨ)とおもひなす  冥(ヤミ)の知見ぞはづかしき  煩悩すなはち菩提ぞと
聞(キキ)て罪をばつくれども  生死すなはち涅槃とは  いへども命をおしむかな 
このお寺の宗旨
このお寺の宗旨
名称 「時宗」
宗祖 証誠大師 一遍上人(智真)
開宗 鎌倉時代(1274年)
本山 遊行寺(清浄光寺)(神奈川県藤沢市〉
本尊 「阿弥陀仏」を本尊に仰ぎます。
称名 南無阿弥陀仏
教義
「南無阿弥陀仏」とお唱えする只今のお念仏が一番大事なことです。
家業につとめ、はげみ、むつみあって只今の一瞬が充たされるなら、
人の世は正しく生かされて明るさを増し、
皆倶に健やかに長寿を保つことになります。
浄土への道はそこに開かれるとする教えです。
経典 無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経、六時礼讃 などの経典を読誦致します。
年中行事
年中行事
初詣 1月元日~7日
二 祖 忌 2月27日
春季開山忌
(呑海上人忌)
4月21日~4月24日
大施餓鬼会 8月11日
薄(すすき)念仏会 9月15日
秋季開山忌
(一遍上人忌)
9月21日~9月24日
別時念仏会 11月18日~11月28日
開宗記念日 12月15日
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