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出典 昭和40年 編著者 松山市教育委員会 「伊予路の文化」 | |
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治承4年(1180)4月9日、源頼政(清和源氏だが頼朝らとは遠く離れた血筋)が以仁王(後白河上皇の皇子)の平家追討の宣旨を得て挙兵。 | |
この兵は制圧されてしまうものの、8月17日頼朝もそれに呼応して立ちあがった。 | |
「いざ鎌倉」を合言葉に、全国の源氏方の武将も立ち上がった。 | |
その時、伊予河野家は三番目に駆けつけたので、三の字を家紋に許された。と言う話もある。 | |
色里と十歩はなれた山門 遠景 | 河野家家紋 折敷に三文字 |
道後温泉本館横のだらだら坂をのぼりきったところで、急にネオン坂が視界に飛びこむ。 | |
ここは一八七七(明治一○)年以来昭和三三年の売春防止法施行にいたるまで道後松ヶ枝町遊廓があったところだ。 | |
漱石が『左に大きな門があって、門の突き当りが御寺で、左右が妓楼である。 | |
山門のなかに遊廓があるなんて、前代未聞の現象だ。』と「坊っちゃん」で描写している花街は、 | |
いまは旅館と飲み屋に変貌している。そのつきあたりの寺が宝厳寺だ。 | |
この寺は時宗の開祖一遍の誕生地といわれる。 | |
一遍は、一二三九(延応元)年に伊予の豪族河野氏一門の子として生まれ、一五歳のとき出家して、大宰府の念仏上人聖造のもとで行をおさめた。 | |
その後、伊予にかえり、久万菅生(すごう)山岩屋などにこもって苦行をつづけ、 | |
一二七四(文永十一)年熊野権現に参籠してさとりをひらき、時宗をおこした。 | |
そして一二八九(正応二)年兵庫の観音堂で五一歳の生涯を終えるまで、賦算(札くばり)と踊り念仏による念仏勧進の遊行をつづけた。 | |
宝厳寺は六六五年(天智天皇)に創建され、一二九二(正応五年)の再建時に天台宗を時宗に改めたという。 | |
この寺に安置されている寄木造の一遍上人立像(重文)は、銘文に一四七五(文明七)年の作とあり、 | |
上人の崇高な、いのりの姿を表現した室町時代の肖像彫刻である。 | |
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一遍上人 鎌倉中期の僧。時宗の開祖。円照大師。伊予の人(一二三九~八九)。 | |
浄土教を学び、のち他力念仏を唱道。全国を巡り、衆生済度のため民衆踊り念仏をすすめ、遊行上人、捨聖といわれた。 | |
一遍上人は伊予河野家の出で、父は河野通広で名は智真坊。兄弟に伊豆坊こと仙阿上人、通定こと聖戒上人がいる。 | |
有名な河野通有の祖父と一遍上人の父が兄弟。戦乱の時代、わが子の命を長らえるため出家させたと云う。 | |
こんなことから上人は、幼い頃から人の世の儚さ、虚しさを感じたといわれている。 | |
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阿弥陀仏に帰命するの意。これを唱えるのを念仏といい、それによって極楽に往生できるという。六字の名号。 | |
帰命 阿弥陀如来に帰依する | |
南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ | |
〔浄土宗・真宗で〕阿弥陀仏に帰依(キエ)する気持を表わして唱える言葉。六字の名号(ミヨウゴウ)。 | |
南無 なむ | |
〔仏〕(梵語namas 帰命・敬礼などと訳す) 三宝に帰依・敬礼キヨウライの意を表す語。南無や。那謨ナモ。納莫ノウマク。「―三宝」 | |
阿弥陀 あみだ | |
1 〔無量寿・無量光の意の梵(ボン)語の音訳〕西方(サイホウ)浄土に住み、すべての人間を救おうという誓いを立てている仏。 | |
用例・作例 | |
―仏・―如来(ニヨライ) | |
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一遍上人 御真筆 | 南無阿弥陀仏 | 房子 |
世話人 一遍堂 新田 兼市 |
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(梵語tath gata 多陀阿伽陀) 仏十号ブツジユウゴウの一。 | |
仏の尊称。「かくの如く行ける人」、すなわち、修行を完成し、悟りを開いた人の意。 | |
のちに、「かくの如く来れる人」、すなわち、真理の世界から衆生救済のために迷界に来た人と解し、如来と訳す。 | |
如去ニヨコ。 | |
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阿弥陀仏が光背を負うたように、帽子などを後頭部に傾けてかぶること。あみだ。 | |
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(籤の線の引き方が、もと阿弥陀の光背に似て放射状であったのによる) 白紙に線を人数分引き、金額を各線の一端に記して隠し、 | |
各自が引き当てた額の銭を出し、菓子などを買って平等に分配するもの。あみだ。あみだのひかり。くものすごこう。 | |
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Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997 | |
一遍上人御誕生旧跡 | あとやさき百寿も露のいのち哉 静雲 | 「あかあかと・・・ 文字は茂吉自筆 |
願主 小原菁々子 柴田慎子 施主 阿部節子 | 斉藤 茂吉 歌碑 |
あかあかと一本の道通りたり 霊剋(たまきわ)るわが命なりけり |
斉藤 茂吉 (1882-1953)明治15年-昭和28年 |
茂吉の第二歌集「あらたま」(大正10年刊)巻頭6の「一本道」の第一首。「霊剋る」(たまきわる)は「命」「吾」(わ)などにかかる枕詞。 |
当寺とのかかわりは昭和一二年五月一二日茂吉が参拝したことによるが、 |
この歌は、東京代々木ヶ原の秋の斜陽のイメージに孤独な者の一筋の人生行路を重ねたものといわれる。 |
歌人山上次郎氏は茂吉の遺髪を受けてこヽにおさめた。 |
松山市教育委員会 俳句の里道後コース⑪番 |
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本堂の左にある「観音堂」 | 一遍上人御詠歌 | |||||||||||||
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「観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)」、「観自在(かんじざい)菩薩」の略称で、大乗仏教の中で地蔵とならんで、 | ||||||
もっとも多くの信仰をあつめている菩薩。 | ||||||
サンスクリットのアバローキテーシュバラの漢訳で、旧訳では観世音、新訳では観自在などとする。 | ||||||
施無畏者(せむいしゃ)、大悲聖者(だいひしょうじゃ)、救世大士(ぐぜだいし)などの別名をもち、 | ||||||
人々を救済する、仏教の慈悲の精神を体現した菩薩とされる。 | ||||||
観世音、観自在とは、救いをもとめる者があれば、数かぎりない手段をつかって救済するという意味で、 | ||||||
救済をもとめる者に応じてさまざまな変化相をもつことで知られる。 | ||||||
「観音経」には、観音が33の姿をとって人々を救済するという、いわゆる三十三観音の記述がある。 | ||||||
また六観音および七観音の信仰はひろく知られている。 | ||||||
六観音とは、基本形である聖(しょう)観音をはじめ、 | ||||||
十一面観音・如意輪(にょいりん)観音・馬頭(ばとう)観音・准胝(じゅんてい)観音・千手観音の6つで、 | ||||||
これに不空羂索(ふくうけんじゃく)観音をくわえて七観音とする。 | ||||||
観音は、もともと阿弥陀仏の脇侍(きょうじ:仏の両わきにひかえる)として左におかれ、 | ||||||
右にひかえる知恵の象徴である勢至(せいし)菩薩とともに阿弥陀三尊を形成する。 | ||||||
観音が阿弥陀三尊から独立して信仰されるようになったのは、インドでは1世紀ごろのことからと考えられている。 | ||||||
「華厳経」によれば、観音の浄土は南インドの補陀落(ふだらく:サンスクリットでポータラカ)であるとされる。 | ||||||
チベットではラサのダライ・ラマの王宮をポタラ宮といって観音の浄土と考えているし、 | ||||||
中国では浙江省の舟山群島の普陀山を、 | ||||||
日本では和歌山県の那智をそれぞれ観音の浄土と考え、信仰してきた。 | ||||||
観音信仰は仏教文化圏の全体にひろがっているが、日本では推古天皇の時代にすでにみられ、奈良時代には、 | ||||||
観音を本尊とする長谷寺が建立されるなど、とくに顕著な信仰があった。 | ||||||
平安時代にはいると、花山天皇が西国三十三カ所の霊場を参拝するなど、民俗的信仰にまで定着した。 | ||||||
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このお寺の宗旨 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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年中行事 | |||||||||||||||||||||||||||||||