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一 遍 上 人 と 宝 厳 寺
一遍上人誕生の地 愛媛県松山市道後湯月町 時宗 豊国山遍照院 「宝厳寺」
熟田津は何処だ 道後説を唱える一遍上人に生涯をかけて帰依した 一遍堂 亭主 故 新田 兼市 翁
時宗について・・・・
 時宗総本山 「遊行寺」 平成十五年 「時宗宝暦」 より
〒251−0001 神奈川県藤沢市西富一丁目八番一号 電話 (0466) 22−2063
「時宗」とは
 時宗は700年の昔一遍上人がお開きになった念仏宗であります。
中国の唐の時代に善導大師という方が念仏の教えをさかんにされました。
鎌倉時代になって法然上人がこの善導大師の教えを深く信じられて浄土宗を開かれたのです。
一遍上人は浄土宗の一流、西山派の開祖証空上人の孫弟子に当ります。
一遍上人のはじめられた宗派をなぜ今日「時宗」と呼ぶかというと、次のようなわけがあります。
 善導大師はその弟子たちを「時衆」と呼びました。法然上人も証空上人も一遍上人もそれにしたがいました。
一日を6時(4時間づっ)に分けて、仏前でお念仏と六時礼讃というお勤めをいたしました。
これは時間ごとに交代いたします。また別時念仏といって、日を限って念仏三昧を行いました。
これも時間ごとに交代します。その人々を時の衆、つまり「時衆」と呼んだのです。
この言葉は他の宗派では次第に使われなくなりましたが、一遍上人の流れをくむ教団では今日まで使われていて、
「時衆」がこの教団の呼び名になりました。
徳川時代に「時宗」と改められて宗派の名になったわけであります。
時宗で信仰する仏は阿弥陀如来で、とくに「南無阿弥陀仏」の名号を本尊といたします。
この名号をつねに口にとなえて仏と一 体になり、阿弥陀如来のはかり知れない智恵と、限りない生命をこの身にいただき、
安らかで喜びにみちた毎日を送り、やがてはきよらかな仏の国(極楽浄土)へ生れることを願う教えであります。
時宗の教えは、『大無量寿経』・『観無量寿経』 『阿弥陀経』に拠っています。これを浄土三部経と申します。
歴代の上人がこれらの経典に説かれている念仏の教えをひろめるために、
広く全国をまわるのを遊行(旅をしなから教えを説くこと)といいます。遊行上人や遊行寺の名はそれからおきています。
遊行上人が念仏の札をくばることを賦算といい、念仏によって救われることのあかしとされるのです。
 宗祖一遍上人
一遍上人は700余年の昔、四国は愛媛県の道後の豪族河野家に生れました。
幼くして出家、法然主人の孫弟子に当る九州の聖達上人から浄土の教えを学ぶこと12年。
のちに善光寺に参り、念仏一筋のほかに自分の道がないことを悟ります。
それから故郷の窪寺や岩屋寺にこもって念仏三昧の生活を送り、ゆるぎない信仰を確立いたします。
それからこの教えをすべての人々に広めようという念願をおこし、全国遊行の旅に出るのです。信州・佐久では踊り念仏をはじめました。 
16年間に、ほとんど日本国中を歩かれました。
上人は正応2年(1289)8月23日、神戸の観音堂(現・真光寺)で亡くなり、今もそこにお墓があります。
その伝記は国宝『一遍聖絵』(藤沢清浄光寺・京都歓喜光寺)にくわしく、またその教えは『一遍上人語録』としてまとめられております。
国宝「一遍聖絵」第五巻(遊行寺・歓喜光寺)より
北条時宗に鎌倉入りを阻止される一遍上人
 
御賦算(お札くばり)
遊行上人が巡り歩かれるところ、必ず御賦算なさいます。
わかりやすく言えば、「お札くばり」のことです。
賦は「くぼる」、算は「念仏ふだ」であります。
このお念仏のお札は遊行上人が、集まった人びとに一枚づつ手ずから配られます。
宗祖一遍上人は、生涯に25万1千余人にくばられたと記録されています。
お念仏を称えれば、阿弥陀仏の本願の舟に乗じて極楽浄土に往生できるとの安心のお礼であります。
「南無阿弥陀仏 決定往生60万人」と刷り込まれていますが、「決定往生60万人」とは、60万人の人々にお札をくぼることを願われ、
また次の60万人の人たちに、ついにはすべての人々(一切衆生)に配ることを念願されたのであります。
遊行上人と遊行寺
遊行・賦算・踊り念仏は、今日では時宗独特の行儀であります。
遊行寺は「時宗」の総本山であり、一遍上人を宗祖と仰ぎます。
一遍上人は、寺院を建立することなく、その生涯を日本全国、一 人でも多くの人々に念仏をすすめて歩かれました。
その志をつぎ、遊行を代々、相続していく方を遊行上人とお呼びします。 
その遊行上人が、遊行をやめられて定住されることを「独住」といいます。
遊行四代呑海上人は正中2年(1325)に、もと極楽寺の旧跡に寺を建てて独住されました。それが、遊行寺のはじまりです。
遊行の法燈をつがれて、念仏をすすめて歩かれる方を遊行上人といい、遊行の世代を次の方にゆずられて、
遊行をやめて「藤沢山・遊行寺」に独住された上人を藤沢上人といいます。 
そして、現在では一人の上人が“遊行上人"と“藤沢上人"の両方を兼ねておられます。
歳末別時念仏会と一ッ火
 この念仏会は、一遍上人以来今日まで、700年も続けられている厳しい修行であります。
明治のころまでは、12月24日から30日までの7日7夜にわたる行事でありましたが、
近年では、11月18日から30日まで執り行われ、27日夜には“御滅灯"の式、つまり”一ッ火"の儀式が行われます。
この行事は、1年間の罪業を懺悔して心身ともに清浄になって新しい年を迎えることと、さらに重要なことは、
極楽浄土への往生を体得することであります。
この修行の中で最も厳粛なのは”一ッ火"の式であります。
27日の夜は、堂内の一切の灯火が消されて、シーンと静まりかえった暗闇の中で式がはじまります。
遊行上人の底力のある念仏が静かな堂内に満ちてくると、末法のこの世の中に念仏のみがただ一つの救いであること、
胸の奥ふかく沁みとおるようであります。
しばらくの間は、身じろぐものもありません。
そして新しい火が打ち出されて、つぎつぎに仏前の灯火が点じられてゆきます。
堂内が次第に明るくなって、居ならぶ修行僧の顔が見えはじめるころには、
念仏の声も一 段と高く、ひびきわたってゆきます。闇黒と光と念仏と・・・。 
人々はこの三つが織りなす雰囲気に感激し、念仏のありがたさを体得するのであります。
ここに700年の伝統の火が念仏とともに輝き出すのであります。
《一遍上人のお歌》《一遍上人のお歌》
ゆく人を 弥陀のちかひにもらさじと 名をこそとむれ しら川のせき (上人四十二歳)
はかなしや しばしかばねの朽(くち)ぬほど 野ばらの土は よそに見えけり (奥州江刺郡。上人四十二歳)
世の中を すっる我身も夢なれば たれをかすてぬ 人と見るべき (奥州江刺郡。上人四十二歳)
身をすつる すつる心をすてつれば おもひなき世にすみ染の袖 (奥州江刺郡。上人四十三歳)
のこりゐて むかしを今とかたるべき こ ゝろのはてをしる人ぞなき (武州石浜。上人四十三歳)
さけばさき ちるはおのれと散る(ちる)はなの ことわりにこそ身は成り(なり)にけれ (相州片瀬浜の地蔵堂。上人四十四歳)
花はいろ 月はひかりとながむれば こころはものを思わざりけり (相州片瀬。上人四十四歳)
曇(くもり)なき 空はもとよりへだてね ばこころぞ西にふくる月かげ (鎌倉の公朝僧正へ御返歌。上人四十四歳)
こころをば 西にかけひのながれゆく 水の上なるあはれ世の中 (駿州井田。上人四十四歳)
をしめども つひに野原に捨(すて)てけり はかなかりける人のはてかな (野に人の骸骨多く見たまひて。上人四十五、六歳)
皮にこそ をとこをんなのいろもあれ 骨にはかはるひとかたもなし (野に人の骸骨多く見たまひて。上人四十五、六歳)
はねばはね 踊(おど)らばをどれ春駒(はるこま)の のりの道をばしる人ぞしる (江州守山閻魔堂。上人四十一歳)
ともはねよ かくてもをどれ心ごま 弥陀の御法(みのり)と聞(きく)ぞうれしき (江州守山。上人四十一歳)
こころより こころをえんと心得(こころえ)て 心にまよふこころ成(なり)けり (ある僧にお返し。上人四十一歳)
すてやらで こころと世をば歎(なげ)きけり 野にも山にもすまれける身を (ある時詠じ給ひける。上人三十八歳)
法(のり)の道 かちよりゆくはくるしきに ちかひの舟にのれやもろ人 (ある時詠じ給ひける。上人四十一歳)
とにかくに 心はまよふものなれば 南無阿弥陀仏ぞ西へゆくみち (ある時詠じ給ひける。上人四十六歳)
ほととぎす なのるもきくもうたたねの 夢うつゝよりほかのひと声 (京都因幡堂。上人四十六歳)
おのづから 相(あい)あふ時もわかれても ひとりはいつもひとりなりけり (京都市屋道場御化益の頃。上人四十六歳)
いつまでも 出入(いでいる)ひとの息あらば 弥陀の御法の風はたえせじ (兵庫光明福寺方丈へ御返歌。上人四十八歳)
となふれば 仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ佛 (由良の法燈国師が印可を与へし歌。上人四十九歳)
いはじたヾ こと葉の道をすくすくと ひとのこころの行(ゆく)こともなし (播州弘峰の八幡宮。上人四十一歳)
書(かき)うつす 山は高根(たかね)の雲きえて ふでもおよばぬ月ぞ澄(すみ)ける (書写山にて。上人四十九歳)
よにふれば やがて消(きえ)ゆく淡雪(あわゆき)の 身にしられたる春の空かな (書写山にて。上人四十九歳)
とにかくに まよふ心をしるべにて 南無阿弥陀仏と申(もうす)ばかりぞ (備中軽部の宿。上人四十九歳)
おもふこと 皆つきはてぬうしとみし 世をばさながら秋のはつ風 (阿州大島の里河辺。上人五十一歳)
消(きえ)やすき いのちは水のあはぢしま やまのはながら月ぞさびしき (淡州福良。上人五十一歳)
主(あるじ)なき 弥陀の御名(みな)にぞ生まれける となへすてたる跡の一声 (淡州福良。上人五十一歳)
名にかなふ ころは西にうつせみの もぬけはてたる声ぞ涼(すず)しき (淡州二宮の社。上人五十一歳)
旅ころも 木の根かやの根いづくにか 身の捨(すて)られぬ処あるべき (淡州遊行。上人五十一歳)
阿弥陀仏は まよひ悟(さとり)の道たえて たヾ名にかなふいき仏(ぼとけ)なり (兵庫、観音堂。上人五十一歳)
南無阿弥陀仏 ほとけの御名(みな)のいづる息 いらば蓮(はちす)の身とぞなるべき (御往生近づき給う時詠める。上人五十一歳)
孝行をしたい時分に親はなし 孝のしどきは今とこそ知れ
 〔問〕親がわが子を愛するのと、子が親に孝行するのとは、その精神に変りはないと思いますが!!。
 〔答〕いや、全く次元がちがいます。わが子を愛する親ごころは動物的本能ですが、
 親孝行は本能ではなくその子の人格を背景とした徳性のあらわれによってなされるものです。
 昔から「わが子を愛せよ」と説いた教訓はありません。人間の本能だから、殊更にすすめる必要はないからです。  
 〔間〕「孝行せよ」と子に言うのは、親の身勝手ではないでしょうか。
 〔答〕その通りです。もし、わが子が不孝者ならば、親は子に孝行を求めるよりも、われ自身を反省し、
 果して自分は親に孝行であったかどうかを静かに振り返るべきです。
 〔間〕しかし、反省して、親孝行をしたいと思っても、すでに親がこの世にいないという場合はどうしたらよいのでしょうか。
 〔答〕親は亡くなっても霊魂は不滅ですから、生きませる親に仕えるのと同じ気持ちで、心から自分の不孝をおわびし、
 朝夕の御供養を怠りなく勤めるとともに、お寺詣りや、お墓参りも、できるだけ実行することです。
 仏道は身をもって行うことが大切です。
 このように、御本尊を信仰し、先祖供養に精進すれば、子は親の心をうつす鏡のようなものですから、
 必ずわが子の行状が変って、孝行息子になることはまちがいありません。