碑文 「金剛の滝」 由来 |
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斉明7年(661)正月6日、時の女帝斉明天皇は、隣国の百済(朝鮮)を救援のため、水軍の精鋭を難波の海に集結し、中大兄皇子・大海人皇子(後の天智・天武天皇
)を従えて、一路瀬戸の海を西征の船旅に出陳され、その月の14日に、伊予の海にその軍船団の勇姿を現わされました。 |
時に六十八歳の老女帝は、身心ことのほかお疲れ、御不予に渡らせ給うたので、道後のお湯に浴し給うため、急遽、御船を熟田津に泊め、道後奥谷の高台(現宝蕨寺の地 )を行宮と定められ、その側の飛泉を天皇御躬親汲み給いて、米を洗い、これを御神饌として遥か大山祇の大神を拝し、病気平癒と戦勝祈願のみそぎをなし給いました。 |
後世「金剛滝 」と呼は承るに至った飛泉こそ、此処道後奥谷の滝のことであります。 |
また、天皇の率いる軍船団がこの地に到着の14日は満月の大潮であり、軍船は大潮に乗って熟田津の砂浜奥深く乗り上げていました。 |
女帝が御病気快方に向かわれても、次の大潮まで船出が出来ず、月待ちの日々を重ねていましたが、やがて潮もよく、いざ出陣の歓びは全軍に満ち満ちました。 |
この遠征に従軍していた万葉の歌人額田王も、この歓喜を |
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「熟田津に船乗り せむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
」 |
熟田津爾船乗 |
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世武登月待者 |
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潮毛可奈比沼 |
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今者許藝乞菜 |
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と此処宝厳寺の地で詠まれたのでした。 |
斉明天皇行幸と、この歌が作られてから今年でちょうど1320年に当たります。 |
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昭和55年吉祥日(1980年) |