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一遍上人に生涯をかけて帰依し 「熟田津」道後説 を唱える
一遍堂亭主 故 新田兼市 翁
道後 ( にぎたつ ) 説 の由来
昭和55年(1980)12月27日夜、ガス事故のため新田兼市・房子一遍堂)ご夫妻が逝去せられ、
同29日宝厳寺において告別式が行われました。
この上ないご不幸であり哀悼の言葉もございません。謹しんでご冥福を祈ります。
霊園 案内地図 新田兼市・房子 夫妻 墓所 故新田兼市翁の業績
金剛の滝(この頁)
正岡子規 句碑
酒井黙禅 句碑
南無阿弥陀仏
この先を左に曲がると・・・行き止まりです。  右手の藪に記念碑があります。
金剛の滝 」碑の除幕
一昨年(昭和55)十二月末に急逝された新田兼市氏がご生前に発注されておりました「金剛の滝 」碑の除幕が、このほどようやく行われることになりました。
建立場所 宝厳寺 霊園 案内地図
除幕 昭和57年(1982年)6月12日(土 )午後1時
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碑文 「金剛の滝」 由来
斉明7年(661)正月6日、時の女帝斉明天皇は、隣国の百済(朝鮮)を救援のため、水軍の精鋭を難波の海に集結し、中大兄皇子・大海人皇子(後の天智・天武天皇 )を従えて、一路瀬戸の海を西征の船旅に出陳され、その月の14日に、伊予の海にその軍船団の勇姿を現わされました。
時に六十八歳の老女帝は、身心ことのほかお疲れ、御不予に渡らせ給うたので、道後のお湯に浴し給うため、急遽、御船を熟田津に泊め、道後奥谷の高台(現宝蕨寺の地 )を行宮と定められ、その側の飛泉を天皇御躬親汲み給いて、米を洗い、これを御神饌として遥か大山祇の大神を拝し、病気平癒と戦勝祈願のみそぎをなし給いました。
後世「金剛滝 」と呼は承るに至った飛泉こそ、此処道後奥谷の滝のことであります。
また、天皇の率いる軍船団がこの地に到着の14日は満月の大潮であり、軍船は大潮に乗って熟田津の砂浜奥深く乗り上げていました。
女帝が御病気快方に向かわれても、次の大潮まで船出が出来ず、月待ちの日々を重ねていましたが、やがて潮もよく、いざ出陣の歓びは全軍に満ち満ちました。
この遠征に従軍していた万葉の歌人額田王も、この歓喜を
「熟田津に船乗り せむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな 」
熟田津爾船乗 世武登月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
と此処宝厳寺の地で詠まれたのでした。
斉明天皇行幸と、この歌が作られてから今年でちょうど1320年に当たります。
昭和55年吉祥日(1980年)
新田兼市
「金剛の滝 」碑 荒れ果てた記念碑とその周辺
建立場所 宝厳寺 霊園 案内地図
五月雨に 金剛の滝 音もなし
今は昔・・・滝つぼ 滝源流にある二つ目の砂防ダム 砂防ダムで消えた 金剛の滝 全景