所在地 愛媛県松山市山西町明神丘 宮前文化遺跡を守る会 | ||||||||||||||||||
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「岡田十五郎神社」がある「久枝神社」の境内には藤原純友公の遺跡案内と遺跡、それに「熟田津」の歌碑があります。 | ||||||||||||||||||
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万葉の佳人額田女王(ぬかたのおおきみ) 「額田姫王(ぬかたのひめみこ)」 |
熱田津とは「万葉集」中の額田女王の歌『熱田津に船乗りせむと月待ては潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな』によまれている熱田津である。 伊予ではこの熱田津の比定場所についての熱田津論争がむかしから多くの人びとによって行なわれている。 それによると御幸山麓説・古三津説・堀江説・西条説と諸説あるが、どれも決定的な資料に欠け、一長一短がある。 これらの諸説の根拠は地理的環境や宗教的位置から推論しているにすぎない。 熱田津がどこであったかを速断することは現在では不可能であり、これを明らかにするには今後の考古学的研究にまつ以外に方法はないようだ。 |
額田王 ぬかたのおおきみ 生没年不詳。飛鳥時代の歌人。鏡王の娘で、額田女王とも書く。大海人皇子(おおあまのおうじ:のちの天武天皇)にめされて、十市皇女(とおちのひめみこ)を生み、のちに天智天皇の寵愛をうけた。690年(持統4)ごろまで生存していたことは「万葉集」巻2の贈答歌から推測される。 作品はおもに斉明・天智朝の公的な場面におけるもので、「万葉集」最初の宮廷歌人といえる。「万葉集」巻1には、西征する軍団の出航時の歌「熟田津(にぎたづ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬいまは漕ぎ出でな」があるが、これは老齢の斉明天皇にかわってよんだ歌とされ、天皇の代作歌をつくることのできる巫女(みこ)的な存在だったといわれる。「万葉集」巻2の春秋優劣歌などの対句表現には中国文学の影響をみることができ、中国文学の教養をもつ女帝治世下の宮廷歌人として重要な位置を占めている。 天智・天武天皇との三角関係をしめすとされた「万葉集」巻1の「あかねさす」以下の贈答歌は、宴席での戯れの歌とする説が強い。 Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2003. (C) 1993-2002 Microsoft Corporation. All rights reserved. |
伊台村誌より ・・・・その七年、即ち紀元六百六十一年正月、九州の熊襲及び新羅を征伐する必要に迫られて天皇は海路御遠征の途次伊予の熱田津(にぎたづ)の石湯(いわゆ)の行宮(あんぐう)に行幸し給うたのである。 (日本書紀〕 これから愈々九州に向う舟出の時に詠まれた歌が万葉集にのっている。 熱田津(にぎたつ)に船乗りせんと月待てば 潮もかないぬ今は漕ぎいでな これは額田王の歌となっているが恐らくは斉明天皇御自身の歌であろうといわれている。 その熱田津という港は何処であるか或いは道後まで海が来ていたともいうが景浦雅桃翁は御幸又は味酒が港であったといい、郷土史家の松本常太郎翁は古三津であるといい、愛大の武智教授は堀江の附近であるといっている。 入海は川の運ぶ砂や潮流の運ぶ砂で陸地になったものと思われる。現在の和気浜でもこの五十年問に三十米位の寄洲を作っているのである。 |
「寶厳寺」寺誌によると、斉明帝が新羅征伐時、後の天智・天武の二人の皇子をつれ熱田津(にぎたつ)の石湯(道後温泉)に寄られた時、寺の裏に在る金剛滝で祈願された。この縁で天智天皇が越智守興に命じて寶厳寺を建立しました。「熟田津に舟乗りせむと月待てば潮もかなひぬいまはこぎ出でな」を詠んだ万葉の佳人額田女王も一緒だったことは御存知でしょう。 |
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