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伊予史談会会報 岡田十五郎 | 「三津の歴史」 | 三島神社 | 岡田義晴氏提供 |
岡田十五郎翁
古三津を飢饉から救った郷土の先駆者 岡田十五郎翁を偲んで建立された 岡田十五郎神社 愛媛県松山市古三津5―4―1257 地元の地区改良委員会が平成4年10月、古三津大明神の 久枝神社 の横に「岡田十五郎神社」建立。 世話人代表地区改良委員会理事長乗松敏男氏。地元の小学生がボランティアで境内の草引きをし翁の徳を偲んでいる。 同じ古三津の 岡田十五郎翁の菩提寺 儀光寺 では毎年 翁の命日 八月七日 に 十五郎翁の偉業を讃え慰霊祭 があり地区の人たちの盆おどりも行われる。 世話人乗松敏男氏は十五郎翁と遠からぬ縁戚関係と聞く。 |
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広報まつやま 昭和63年5月1日発行
岡田政一さん(八十一歳)にお聞きしました。 ▽町名の由来は古くは三津村に含まれていましたが、江戸時代初期、港に面している市街地と農村地区とが分かれ、農村地区を古三津と呼ぶようになったと言われています。 ▽昔の様子は海賊で勇名をはせた藤原純友が、久枝神社の境内の岩に馬をとめ、海の方向を見渡したところ辺り一面すべて海になっていたという伝説が残っており、この岩が駒立岩と呼ばれています。 ▽私が子供のころ、神社のある山に行ってみると、岩に貝殻が付着していたのを覚えています。江戸時代、この辺りは水不足に大変悩まされていました。毎年、日照りが続くと田が干上がり、米もほとんど収穫できない状態でした。そこで、この村の庄屋である岡田十五郎は、水源地を探し歩き、やっと西長戸の泉を見つけ出しました。そして、久万ノ台に三つの池を造り、泉からこの池に水を引き、干がい用水として使ったそラです。また、岡田という姓がこの町に多いのも、特徴一つですね。明治のころは、田も沼地になっており、田植えも舟の上から苗を植えたものでした。 ▽町の特徴は明治初期には百五十戸ほどであった戸数も、今では千五百戸ほどに増え、また田んぼだったところも、すっかり宅地ヘと変わってきました。海に近く、静かで環境のよい住みやすい町ですね。海の潮流の影響で、夏は涼しく、冬は暖かいところです。 ▽コミュニティ活動は古くから古三津に伝わる人形芝居の伊予源之丞(じょう)は有名です。享保三年(一七一八年)三津の浜祭りの時、景気直しのために芝居が上演され、庶民の娯楽として発展してきたもので、県の指定無形文化財にもなっています。また、この地区に伝えられているュニークな郷土芸能に虎(とら)舞があります。毎年秋祭りに行われ、松山城主・加藤嘉明の虎狩りの武勇伝から作られたと言われています。 |
伊予の関が原の合戦の舞台・宮前地区宮前地区は、古三津と祓川を中心に会津町、内浜町、中須賀、三杉町などの町から成り立っています。地区内にはJR三津浜駅、伊予鉄三津駅の二つの交通の要衝がありま、非常に賑やかで活気に満ちています。また、虎退治で有名な「虎舞」の芸能でも知られています。 一帯は古くから開けており、政治や経済、運輸の中心として栄えてきました。現在も、地区内にはかっての繁栄を物語る数々の文化遺跡が残されています。特に気が付くのは、住宅街にたくさんの祠があることです。これは、伊予の関が原の合戦と呼ばれる「刈屋畑の合戦」の名残です。 「刈屋畑の合戦」は慶長五(1600)年、数百艘の兵船を率いた毛利軍が伊予三津浜に上陸、伊予正木城の加藤義明に城の明渡しを迫ったことに端を発します。折しも義明軍の主力は関が原に出向いており、留守を守っていたのは家老・佃十成以下わずかな兵力だけでした。一計を案じた佃は、夜の闇に紛れて各地に火を放つという奇襲を仕掛けます。結局、これにより毛利勢は破れ、この時に毛利方であった村上水軍の村上元吉らが壮絶な死を遂げました。町内の祠は、心優しき地元の人が、この時亡くなった兵士たちの霊を慰めるために建立したものです。戦いから四百年経た今も、地元の人は祠うを「お塚さん」と呼び手厚くまつっています。 (財)松山市生涯学習振興財団 発行 らいふ・ろんぐ 1999年秋号 より |
平成30年10月22日月曜日 秋の祭典 | ||||||||||||
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