あみだすカレンダー
伊予路の文化  表紙  能衣裳  説明
白朱子 地椿 樹万字 繋文様 縫箔
しろじゆす じつばき ぎまんじ つなぎもよう ぬいはく 桃山時代後期
旧松山藩主久松家の所蔵で、明治維新の際に東雲神社に寄進されたものである。
東雲神社には桃山時代から江戸時代中期過ぎの能衣裳が110点蔵されている。
他に能面153面、狂言面42面など優れたものが多数にある。愛媛県指定文化財
 「伊予路の文化」 編集・著作・発行 松山市教育委員会 昭和40年初版 48年第8版
松山市教育委員会文化財課 〒790−0003 愛媛県松山市三番町六丁目6−1 第4別館2階 089-948-6603
世界の歴史年表

はじめに 美しい自然と温暖な気候風土に恵まれた松山市は、古くから文化が開けたところで、昭和四七年に発見された日本ではじめての大規模な生産遺構である古照遺跡、国指定史跡来住廃寺跡、わが国最古 の道後温泉、日本三大連立平山城のひとつ松山城など、われわれの祖先ののこした貴重な文化遺産も数多く守られてきております。また、正岡子規をはじめとして幾多の文化人を生んだ伝統と香り高い文化都市でもあります。 古い文化遺跡を訪ねることによって、松山を見直すかたも多いことと思います。郷土の文化を正しく理解し、これを守りさらに子孫に伝承することが、郷土の新しい文化発展につながるものと信じます。 この小冊子が皆さんの郷土研究の端緒となりその後の研究成果が郷土愛をはぐくみ、美しい住みよい松山市が実現することを心から希望しています。  昭和五十八年  松山市長 中村 時雄

インターネット版の「伊予路の文化」です。大いにご活用ください。次々に追記します。お楽しみに。

簡野道明

簡野道明 かんの みちあき
略伝  漢学者。伊予吉田藩士の家に生まれる。東京高等師範学校卒。東京女高師の教授となる。のち辞して支那に遊び、古書の採集、史蹟名勝の探求等に専念した。『故事成語大辞典』『字源』『論語解義』等の著がある。昭和13年(1938)歿、74才。 簡野道明 著作 蒲田女子高等学校(KGH)
かんの‐どうめい【簡野道明】 ダウ (名はミチアキとも)
漢学者。伊予出身。東京高師卒。東京女高師教授。のち中国に渡り、古書を研究。漢和辞書「字源」を編著。(1865〜1938)

素鵞神社のモッコク

平井の畑中にある。根廻り二・五メートル目通り二・二メートルと、この樹種としては最大と考えられる。高さも二○メートル程あり樹勢も旺盛である。モッコク ・松山市保存樹木 協定番号 15号(昭和52年12月27日指定)  ・根廻り 2.5m、目通り 2.2m、樹高20mあり、推定約200年といわれている。樹勢は極めて盛んで、県下でも最大級と思われる。  ・モッコクは、ツバキ科の常緑高木で、暖地の海岸などに自生し、普通あまり大きくならない樹種であり、このような大木になるのは珍しいことである。

妙立山 大法寺

開山 妙立院日芸上人 由来 当山は天文3(1534)年の創立。 慶長8(1603)年に城主加藤嘉明公が松前の筒井から松山城へ移封のさい、これに伴い松山山越へ移転。  隣寺の火災により類焼、樋又に移り明治初年更に現在地に移転。 昭和20年7月大空襲により、すべてを焼失したが、第29世遠明院日詮上人鉄筋コンクリートの本堂を再建すべく、布教活動に専念、苦節18年、大本堂が完成。 その後、山門・日親堂等の諸堂をすべて整えた。 交通案内 JR予讃本線松山駅より市内電車環状線古町回りで萱町六丁目下車徒歩5分伊予鉄バス・本町5丁目下車徒歩3分 松山市本町5−4 所在地略図 電話 089-925-7335 メール

松山容子 本名:田中(旧姓・出井)曠子。

昭和13(1938)年11月20日愛媛県松山市に生まれる。「讃岐男に伊予女」と言われるように愛媛には日本的美女が多いといいますが、少年期に見た「琴姫様」の凛々しい美しさを超える女性をいまだ見たことがありません。松山南高を卒業後、NHK松山支局の事務員から松竹の女優になる。

吉田挿桃

南吉田町吉田浜に桃の木がたくさんあったという。浜は南北三kmにわたる大砂丘で松原が美しかった。挿桃については、この辺りの堤防に桃を挿しておくとすぐ芽が出て、花がつくという説と、もう一つ説がある。宝暦年間(一七五一〜一七六三)に高潮があり、そのため桃畑が砂でうずまり、枝が地上に出て桃を挿したように見えたという。おそらく後の説に従うべきと考えられるが戦時中に砂丘を全部うめたてこのあたりは、松山航空隊ができて、兵舎や格納庫があった。今では昔と様子が変ってしまい、大阪ソーダ、帝人松山工場や松山空港の一部となっている。砂丘のなごりは今の桃山保育園の構内の小さい丘に挿桃神社という可愛い祠が一つ残っているところがそれである。「挿桃大神守護」とお礼に書いてある。またこのあたりは藩主の御鷹場であったし景色もよく、海岸ではキサゴ(しゃご貝)がたくさんとれる。伊予節の一節『よしだ挿桃』の砂丘がこの地に残っているのは幸せである。

砂丘のなごり

松山城山の植物

城山は道後平野の中、市街地の中央に孤立した海抜一三二m、周囲約四kmの小山で、これを覆うものはコジイを主とする暖帯林である。そのコジイは東西の斜面によく発達しているが、北斜面ではシイの他クスノキ・ヤブニッケイ・アオキ・ヤマザクラその他の雑木が混っているし、南斜面ではアベマキの老木が多く見られ、南西斜面にアカマツ林が発達している。この城山の本来の自生植物は四百数十種もあるが、それらのうち、特に注目に価するものは、暖地性のヒメウラジロアマクサシダ・ヤマモモ・オガタマノキ・ハナミョウガなど約五〇種、暖地であるが山地性のヒカゲノカズラ・クラマゴケ・モミ・ハリギリなと十数種、海岸から遠くはなれているのに海岸性のキケマン・トベラ・コイケマ・オニヤブソテツがあり、また暖帯林の特徴でもあるシダ類が多く七三種もある。このように優れた中予地方の代表的暖地性自然林であるため、県指定の天然記念物になっている。なお、栽培のものでは、天守閣付近に落雷除けとしてキササゲがあり、本丸の桜並木、二ノ丸の松並木も立派なものである。

松山の城山 (左)  と  築城当時の建物 乾(いぬい)門 (右)

長者ケ平(ちょうじゃがなる)

松山城のロープウェイとリフトの山頂停留所広場のことをいう。ここに昔近郷随一といわれた長者の邸があったということで、人生の禍福を示唆する面白い伝説がある。この男、もとこの山のふもとに住み、働けど働けどくらしむき楽ならずと嘆いていた。何とかして長者になりたいものと、毘沙門天に願をかけた。彼は毎日境内に茂る「メダケ」を一本づつ持ち帰って庭に植え自分の繁栄を祈りつづけた。満願の日彼は霊夢を得た。 「私はお前の信ずる毘沙門天である。真心に感じ福をあたえよう、しかし竹は皆かえすように・・・」彼は喜んでその言葉にしたがった。ところがその後不思議に、なすこと皆成功し、日ならずして長者となった。長者になって見ると、貧しい時には言葉もかわさぬ遠縁の者までむらがり来て物を乞う浅ましさにあきれ果てるのである。苦労しつづけながらも昔の生活が真実のように思われ、その財を湯水のように使いもとの貧乏人となり、長者平の邸でとうとう餓死したということだ。人々はこの山を『かつえ山」とよびならわしたという。加藤嘉明は築城地の下見にいった足立重信から里人の話を聞き「かつえ山というか、それは勝山の聞違いであろう、以後は勝山とよべ」とい ったという。

椿まつり(伊予豆比古命神社)

市内石井に伊予豆比古命神社がある。祭神は伊予豆比古命、伊予豆比売命、伊予主命、愛媛命、例祭は一〇月七日、毎年旧正月の七、八、九の三日間「縁起の神様椿さん」といい特に盛況を見る。郷土色豊かな藁であんだ宝船や縁起笹、名物の『おた福飴」などのほか見世物小屋まで並んで壮観である。境内に『勝軍(かちいくさ)八幡」があって古来武運長久の守護神というので知られていた。

   賽銭の響きに落つる椿哉  子規

の句碑がある。椿さんについては面白い話がある。この宮は昔は参詣者も少ない淋しい社であった。時は明らかではないが江戸時代神官某が、松山藩士の某に対し『参拝者を増す方策はないものか」と愚痴をこぼした。相談を受けたこの侍なかなかの策士と見え「俺にまかしとき」と、旧正八日に藩の若侍を動員し『勝軍八幡」に何回となく遠乗参拝をくり返した。百姓町人はこれを見て、城下のお侍達があれほど尊敬し参拝するのだからと、見習らっておまいりするようになり、市がたつほど盛んにな ったというのである。侍のウイットが人を集め、人あっまれば市は立つ。今も数十万人の参拝者で振っている。

椿まつり(伊予豆比古命神社) の賑わい

伊予豆比古命神社の狛犬(こまいぬ)

狛犬は宮中や神社に置かれた守護獣の像で、ふつうの獅子と一角をもつ獅子との姿に作られ阿吽をあらわすのが一般的であるが獅子形だけの一対もある。もとは木造のもので神社の神殿内に置かれていたが、のちに石造となって参道の両脇に配されるようになった。この狛犬は木造で様式化されていて象徴的ではあるが、作行は雄渾精緻である。銘文を欠き塗料等もはくらくしているが室町時代末期のものと考えられ、松山市には他に類例をみないものである。松山市指定文化財

  阿犬=像高六四センチメートル  吽犬=像高六七センチメートル

左 阿犬右 吽犬

祭祀用台付壷形土器

弥生後期初頭の天山神社北遺跡出土の台付壷形土器である。長頸壷形土器と器台形台を一体化した土器であり、台付壷形土器の発生をうかがう貴重な資料である。四六年十二月出土し復元したものである。市指定文化財

祭祀用台付壷形土器

縄文時代

今から約一万二千年前より約二千五百年前までの約一万年間の長きにわたる時代を縄文時代と呼んでいる。縄文時代は、さらに草創・早・前・中・後・晩期の六期に細区分される。 縄文時代の生業は、狩猟・漁労(ぎょろう)・採集という自然経済の段階であり、自給自足経済を基本としていた。当時の人々は道具として縄文式土器や打製・磨製(ませい)石器・骨角器・木器を使用し、洞穴や竪穴式住居に住み、衣服といえば腰みのを身につけていたに過ぎなかった。 自給自足経済のため富の蓄積もなく、したがって、人々の間には貧富の差もなく、階級制度も未分化で、原始共産制の社会であった。人々は主として自然の恵みに感謝するため、森羅万象(しんらばんしょう)すべてに神が宿っていると考えて自然そのものを信仰の対象としていた。(原始宗教) 松山市ならびに周辺の縄文時代の様相は、最近の調査で次第に明らかになってきており、約四五カ所の遺跡が所在しているが、このうち市内に分布するものは約二五遺跡である。現在までの調査によると、旧石器時代の生活を知る確かな遺跡は存在しない。松山市周辺で人々が生活をはじめた確かな証拠は、縄文草創期(約一万二千年前)の上 黒岩岩陰遺跡であり、市内では縄文早期(約八千年前)の土壇原(どんだばら)遺跡である。前期・中期は上野町一帯の台地上の発掘で種々の遺構・遺物が発見されているが、その数はあまり多いとはいえない。後期(約三千五百年前)になると久谷や高浜・祝谷・久米窪田等と、山麓や河岸段丘に多く分布するようになる。晩期(約二千六百年前)になると、船ケ谷遺跡で代表されるごとく低湿地にあり、これが弥生時代前期の遺跡立地へと引き継がれる。

女神石(上黒岩岩陰遺跡出土)

上黒岩岩陰遺跡

松山市郊外の上浮穴郡美川村にある巨大な石灰岩の岩陰遺跡であり、昭和三七年から四四年にかけて前後四回発掘した結果、縄文草創期から縄文晩期にかけての我が国屈指の遺跡であることが明らかとなった。特に第九層からは我が国最古の土器の一つである細隆線文(さいりゅうせんもん)土器や尖頭器(せんとうき)・有舌尖頭器が数多く出土した。さらに数個の人物線刻礫が併出した。線刻礫は我が国でははじめての出土例であるが、恐らく自然の稔りの多いことを祈った宗教的色彩の濃厚なものであろう。第九層は炭素年代測定法によって約一万年前のものといわれている。第六層からは約一万年前の無文土器と石鏃(やじり)が出土しており、狩猟に弓が利用されはじめたのはこの頃からではなかろうか。第四層からは押捺文土器や貝製垂飾品、骨角器・石器とともに人骨も拾数体分出土している。人骨と一諸に犬の骨が出土していることから、当時すでに犬が狩猟用に飼われていたことを物語っている。

上黒岩岩陰遺跡

円明寺(えんみょうじ)

和気町一丁目。四国霊場五十三番の札所、創建当時は勝岡にあったというが、再三火災にあっている。三間一戸建の八脚門は室町期のものとおぼしく、本堂内の厨子とともに県指定の文化財である。木造阿弥陀三尊像のうち脇侍像が古く、中尊のみは今日、中世後補のものにかわっている。二躯の観音勢至菩薩の体内から、建長二年(三一五0)書の願文に頭髪を包んで納めてあるのが発見された。像もその頃のものと思われる。県指定文化財

円明寺(えんみょうじ)八脚門木造阿弥陀三尊中尊

隆三世(こうざんぜ)明王像

医座山のふもと東大栗町医座寺にある。高さ九八cmの一木彫、藤原時代後期。 松山市指定文化財

隆三世(こうざんぜ)明王像

エヒメアヤメ

学名はタレユエソウ、誰ゆえにこんな可れんな花を開くのだと讃美したことに基づいて名付けられた。エヒメアヤメは別名である。アヤメ科の多年草。根茎はやや扁平で細く瘠(やせ)形、葉は線形鋭頭で薄い。陽春四月上旬が開花期、そのころ葉長は一〇cm〜一五cmで、数cmの高さの花軸に普通一花を、時に二、三花を咲かせる。花色は淡藍紫色で外花蓋に黄白色の斑点を持っている。花後低く球形の果実を生じる。発見されたのは、北条市の東部腰折山で、命名者は東大の故牧野富太郎博士だった。朝鮮、中国大陸ではどこにでもある植物だが偶然発見されたこの地が、この植物自生の南限地帯であったのも面白い。地元の人は「こかきつばた」と呼び伊予節にもこの名で歌われている。明治三一年北条の仙波花曳が病床の子規宛に花を送ったが航空便もない昔の事花はしおれていた。

  花曳が腰折山の小杜若を贈りたるに(枕書)  小包に小杜若のしをれたる  子規

伊予節の こかきつばた

手引の松

余戸の三島神社境内にあった市指定の天然記念物。目通り周囲二・五mほどの二本の松が地上五m位の所でH形につながった珍しい松であったが昭和五十四年松くい虫の被害で枯死した。学術的にも貴重な松であったか、正岡子規がこの松を詠んだことで有名になった。伐採後H形部分が地域住民の手で境内に保存されている。子規は散策集で村上霽月をたずねる途中余戸にたちよったようすを『・・・我をさなき頃は常に行きかひし道なり御旅所の松、鬼子母神、保免の宮、土井田の社など皆昔のおもかげをかへずそぞろなつかしくて・・・鳩麦や昔通ひし叔父が家・・・をさなき時の戯れも思ひ出だされたり竹の宮の手引松は今猶残りて二十年の昔にくらべて太りたる体も見えず・・・行く秋や手を引きあひし松二木、』と。鳩麦は寒山落木には苡と直している。松の根方に「行く秋や手を引きあひし松二木」子規筆の句碑がある。この日は散策集によると霽月邸で昼食の後、浜を散歩、帰路森円月をたずね『柱かくしに・・・籾干すや難遊ぶ門のうち・・・直ちに其家を辞す・・・白萩や水にちぎれし枝のさき・・・車上頻りに考ふる処あり知らず何 事ぞ・・・行く秋や我に神なし仏なし・・・点燈寓居に帰る」と 若鮎の二手になりて上りけり  子規 鳩麦や・・・の鳩麦は畑に栽培の薬用のハトムギではなく、これに酷似の野生化しているジュズタマの方であろう。現在も余戸地方の水辺には多い。句碑は出合橋北側にある。

在りし日の手引の松

与力(よりき)松

小野小学校校庭にあった国指定の天然記念物、クロマツで高さ三五m、根廻り六・五m、目通り周囲五・三m、地上七mから二つの大幹に分かれ、多数の枝を垂らした美しい松であった。樹令は九百年以上と推定され、地域住民の崇敬を集めてきたが、昭和五五年保存に熱意を傾けていた関係者の努力にもかかわらず松くい虫の被害で枯死した。跡地は昭和五八年与力の丘として整備された。

 うららかや昔てふ松の千とせてふ 東洋城

この地に与力屋敷があったと伝えられるところからこの名が付いた。

北谷古墳

堀江の福角町北谷にある。横穴式石室のある円墳である、全長八・一m、玄室奥行四・五m、巾二m、高さ二・四m、墳丘径二〇m、高さ五mである。北谷が上古から開けていたことを物語るものがひとつある。北谷で秘蔵している誕生仏で、これは平安時代前期のものと推定される立派な鋳造仏である。

波賀部(はがべ)神社古墳

高井町にある。越智玉純が神亀五年 (七二八)大三島より勧請して、石井郷一宮三島大明神と称す社を建立したという。祭神は大山積命、雷神、寛王命などである。寛王命とは嵯峨天皇の皇子で伊予国守として赴任されこの地でなくなられたという。墓地が神社の近くにあったところから墓辺神社とよぶようにな ったが、墓の字をきらって今の波賀部神社と改めたということである。今の社殿のうしろに前方後円墳がある。いつの頃かわからないがその半分位が破壊されているようだ。全長五四m、西が前方部で巾二八m、高さ六・ 一m、後円部径二八m、高さ六・六m、外部には堀をめぐらした跡が残っている。

波賀部神社前方後円墳平面図

来往(きし)廃寺跡

来住町、久米駅南方六百mの北来住舌状台地の西端近くにある。廃寺跡の一部には現在黄檗宗(おうばくしゅう)に属する長隆寺が建っている。現長隆寺の境内の一面には和泉砂岩の二箇の切石からなる心礎石(縛り溝をもった寄せ合せ形式、東西一・六二m、南北一・五m、高さ六七cm。心礎柱座直径約八十cmが)をのせた高さ一・五mの土壇が残っているが、昭和四二年の発掘調査によって一辺の長さ九・七二mの基壇と建造当時の原位置を保った八個の礎石が検出され、これが塔の基壇であることが確認された。石田茂作博士の研究によれば塔の高さは三一m前後の五重の塔であることが推定される。 昭和五二年末からの調査では、塔の東北に東西三十m、南北約十六mの講堂跡である基壇が検出され、ていねいな版築工法で積みあげられた基壇のまわりには玉石組の雨落溝がめぐらされている。金堂跡は未確認であるが、南面する法隆寺式伽藍配置であった可能性が強い。講堂跡中心から西方約四十mの地点には回廊跡と思われる南北約八五m以上の堀立柱式の単廊が確認されている。出土した瓦には法隆寺に使用されている軒丸瓦とほぼ同型の瓦があることから本寺院跡の創建が七世紀後

回廊と付随の建造物跡 来往(きし)廃寺跡(北より撮影)

森松の入端(いりは)

裏盆(八月二四目)の夕べ、森松町須賀神社での行事。子供らがめいめい提灯に火をともして集ってくると、笛、太鼓の囃子(はやし)でもって、提婆(だいば)、幣持(へいもち)ち、奴(やっこ)などが行列を組んで庵から須我神社に繰り込むのである。神社境内には桟敷が設けてあり、三人の小姓がひかえている。「幣持ち」と呼ばれる今年生まれの男児が父親に抱かれ、幣束を持って立っている。幣持ちは部落で一名選ばれ、名誉とされていたが、現在は二人選んでいる。一方、境内人口の鳥居元には、編笠に裃姿の「詠歌うたい」という青年二人がひかえている。やがて桟敷の小姓が謡曲をうたいはじめる。すると鳥居元の青年も詠歌を始める。かくして両者掛け合いによる謡の問答が展開されるのである。 天王の宮一筋に頼む故、牛馬も繁昌・・・と、謡曲が三番うたわれる。するとこれまで境内にいた提婆が、「イリハー、イリハー」と叫びながら境外へ逃げ去って行くのである。謡曲の呪力によって悪魔が退散するというユニークな祭りが人端である。

森松の入端(いりは)

木心乾漆菩薩立像・木造菩薩立像

北条市庄、薬師堂にある。昭和四十年度の県教委による総合調査のおり発見された愛媛最古の仏像である。重要文化財。 木心乾漆菩薩立像は座高二三三cm、ハルニレ材、一木彫木像。この像は両腕の肘から先を失い、顔も痛んでいたが目鼻だち、両耳など乾漆を使って形づくったもので童顔に近い。若やいだ面持はうるわしく親しみがある。肩の張りもよく胸の肉どりの厚み、腰から脚にかけて衣文などその作風がよく示されている。製作は平安初期を降るものではない。 木造菩薩立像は座高二一五cm、桧材、一木彫成像。髪は頭の上にあっめ束ねており天衣をかけ胸飾、うで輪をつけ、裳をつけ左膝をゆるめて立つ姿の像である。波のようにたたんだ膝下の裳など平安初期の特色をよく現している。

木心乾漆菩薩立像木造菩薩立像

千秋寺

御幸一丁目、貞享四年(一六八七)中国の僧即非が開いた寺院という。当寺は黄檗宗で戦災をうけるまでは現存する山門とともに大雄宝殿(本堂に相当する)があったが、昭和二十年七月の松山大空襲により焼失したのが惜しまれ、現在はその礎石を残すのみである。 山門は黄檗宗独特のもので、大要は中国直輸入の建築技法であるが、細部には伝統的な和様の技法がみられ日本人の手で建立せられたものと思われる。黄檗宗は江戸時代に日本に入った比較的新しいためか、その寺院数も少なく、この形式の山門で文化財に指定されているものは全国で二棟だけである。「海南法窟」の額は即非の書と言われている。

  山本や寺は黄檗杉は秋 子規

千秋寺総門実測正面図

松江の墓

大可賀公園内にある。松江の父井口瀬兵衛は大洲藩士であったが故あって浪人となり、古三津で剣術を教えていた。松江は十八才の娘ざかりで美しく、青年達のあこがれの的だった。不良の岩蔵は仲間とともに瀬兵街の留守をねらって松江をおそったが、松江はやむなく岩蔵を斬り、純潔を守りぬいたが、他国で悪人とはいえ人を殺したのである。入牢の恥を見るよりはと、松江は慈愛の父の刃に散った。文化十年(一八一三)十二月八日浜風寒い大可賀海岸の哀話である。松山藩は葬儀の日、穀を下げ渡されその貞烈をたたえ、大洲藩は松江の操正しいことに感じ父に帰参を許した。

  沙魚(はぜ)釣りの大可賀帰る月夜哉  子規

烈女松江の墓

・墓石の側面には「大洲家中井口満津江 行年十八歳寂」と記されている。

・堂の柱には幾つか貼り紙がなされている。

@短歌烈女松江(池村敏江先生作)  「世を遠く隔てし今も在りし日の名を残すかな今宵松恵忌」

A烈女松江(漢学者林洞人先生作)  「剣先一閃一身捐つ烈女の名は千歳に伝わる鏤々として香煙吹いて絶えず秋風涕は落つ墓碑の前」

烈女松江の碑

評判の美人だった松江(1795〜1813)は、大洲藩士である瀬兵衛の二女として生まれた。瀬兵衛は故あって浪人となり、三津久宝町に移り住み、剣道を教えていた。ある日、この松江に恋していた岩蔵という不良青年が、略奪結婚を企て直接行動に出ようとしたため、やむなく松江は岩蔵を斬り殺してしまった。松江は「悪人といえども人を殺した罪は許されるべきではないから、私の首を切って下さい」と父に申し出た。父も「それが武士道だ」と、文化10年(1813)12月8日に三津の浜辺で松江の首をはねてしまった。この父娘の立派な行動により、時の松山城主が松山藩に瀬兵衛を召しかかえようとしたが、「武士は二君に仕えず」とこれを拒否した。しかし5年後には大洲藩の帰参が叶った。松江の勇気ある行動は、当時至難の業でされたお家の再興を成し遂げさせたのである。松江の死から97年後の明治43年(1910)には、三津に愛媛女子師範学校が開設されたが、松江は女子師範の鏡として、その遺志が校風に反映された。貞女松江を頌える顕彰碑をはじめ唱歌や漢詩などもたくさん作られ、松江の死は三津浜地区に文化を残したと言える。

111

烈女 松江の墓(建物の中)松江堂 昭和49年建立 大原其戎(きじゅう)の墓(手前)

大原其戎(きじゅう)の墓

大可賀の都市計画小公園、松江の墓とならんでいる。其戎はその名沢右衛門、文化八年(一八一一 )の生まれである。松山藩士で代々お船手大船頭役をつとめた。其戎の父も其沢と号し俳句の宗匠だった。京都の桜井梅室(金沢の人)に入門し、宗匠の号を得て帰郷した。其戎は風雅な生活を志し、安政六年(一八五九)墓のある地に(小松原とよんでいた)草庵を作り・・・蛙聞くのみに持ちたき門田かな・・・の心境で俳句三昧のくらしをした。彼は明治維新後、明栄社をつくり俳誌『真砂の志良辺」を刊行した。正岡子規は明治二十年夏、其戎をたずねてその指導をあおいだ。その日の随想を「筆まかせ」のなかに書いている。其戎は明治二十二年四月に・・・寝姿のつかさや花を枕もと・・・の辞世の句を残し七八才で逝去した。三津二丁目の夷神社に其戎のたてた芭蕉の句碑がある。

  時雨るるや田のあら株のくるむほど   芭蕉

湯山の三本杉

福見川町、新宮神社にある。目通九・五m、高さ五〇m、二本は根元で癒着している。目通一二mと三本が接近しているので一樹のように見える。松山市指定の天然記念物である。

弥生時代

長く続いた縄文時代も、西歴前三世紀頃には終りを告げ、新しい文化が大陸から北九州へ入ってきた。今までの採集経済に代って低湿地を利用して稲作を生業として、周辺の微高地に集落を営むようになった。土器は縄文土器に較べて少し薄手で精選された粘土を使って日常品は模様も簡単になった。青銅および鉄器を含む金属器の使用がはじまり。鉄斧や、やりがんななど利器が多く作られたので木器、木製の農具が大量に登場してきた。また、建築技術が進歩してきた。弥生時代は前期(前三〇○〜同一〇〇年)、中期(前一〇○〜後一〇〇年)後期(後一〇○〜三〇〇年)と分けられた約六〇〇年間である。 さて、この弥生時代の遺跡のうち、前期の遺物を出土している地域は、持田町、道後冠山、鯛崎などで、木葉文(もくようもん)を施した土器が出土している。中期の遺跡は多く、県立運動公園用地内の南丘遺跡からは、数多くの住居址、墳墓址が発見されている。また東雲神社境内、大峰が台などでは、高地性住居や祭祀址が発見されている。低湿地では道後の土居窪、中村一丁目、小坂一丁目に中期の遺跡があり更にこれらの土器と共に木器も出土している。後期の遺跡は爆発的に多くなり、特に中 期以前は台地に生活舞台をおいたが、後期になると低地へ生活の舞台が移ったようである。この時代には農耕技術が急速に発展し、村落の形態もととのい、村落共同体としての社会活動が行なわれだした時代である。集落の単位も増加してきた、またこれと平行して土地私有についての何等かの統制が行なわれたとも考えられる。住居の形態も自然に変化してきて、往時の竪穴式住居から、堀立柱を使った平地式の住居へと移行しながら、収穫物を貯蔵するのに必要な高床式の建物へと発展する。この時代の遺跡を代表するものに釜ノ口遺跡があり、更に木器や高床式建物の一部である鼠返し(ねずみかえし)を出上した朝美遺跡がある。 松山平野部に転在する独立丘陵の山頂及び山腹や稜線には、数十基の群集する墳墓がある。これらの埋葬のようすは、前期・中期・後期と変化をみながら、古墳時代へと発展して行く。これら弥生期の墳墓形態は未知のものが多い中で、南丘遺跡で検出された中期の土壙墓群は、貴重な資料といえる。

古照より北東1kmの地下から発見された鼠返し 長さ68cm 巾38cm

津田、鳥越遺跡(遺構の切り合い)(前の住居の跡に又新しく住居を築造したり、建替えをした様子)

八ツ塚

八坂寺の北方に文殊院という番外札所がある。石手寺の項にある伝説、衛門三郎の邸跡だという。ここから西へ二〇〇m程ゆくと三郎の八人の子をまつる『八ッ塚』というのがある。塚の頂きには小祠が置かれ、石地像が安置してある。衛門三郎の戒名は『光明院四行蓮大居士』で、天長八年(西暦八三一年)一二番焼山寺で死亡したという。そして三郎が生れかわってこの世に出たのは、石手寺のところに書いたとおり、文保二年(西暦一三一八)らしく、五世紀近く眠っていたと見える。 八ッ塚は群集古墳で、八基とも円墳で、玄室は未調査のため明確でないが横穴式石室によるものと推察できる。この群集古墳は、平野部に残されたものとしては、めずらしく松山市指定の史跡である。この古墳は約一四〇〇年位昔のものと考えられ、伝説が生れそれが発展し、語りつがれて行く過程を逆年代が示しているのが面白い。

八ツ塚

荏原(えばら)城跡

県指定史跡荏原城跡は恵原町・久谷支所西南にある。河野家十八将の首席であった平岡氏代々の居城である。天正十五年(一五八七)城主平岡遠江守通椅のとき豊臣秀吉の四国攻略が行われ、長曽我部の手勢にやぶれ落城した。現状は平坦地三五、八アール(畑)四方に数m程度の土塁をめぐらしその外側に濠がある。北側濠巾二〇m西と南は一四m東は一二mほど、ほぼ方形で東西一二○m南北一二六mである。濠にも土塁にも石積はなく、戦国時代の築城法を研究するために重要な資料である。土塁には雑木が茂っているが、面白いのは矢竹を特に植えていることだ。いかにも戦国の世らしく、矢がなくなった時には竹を切ってとばしたのであろう。南西の隅に櫓か何かを建てたらしく石積の跡が残っている。住居はおそらく畑になっている所にあったものと思われる。近くに新張城跡大堂城跡などがある。

荏原(えばら)城跡

宝筐(ほうきょう)印塔

宝筐印塔は呉越国の銭弘俶が、宝筐印心呪経を八万四千の銅塔を造ってこれに納め、各地に配ったことにはじまったものだという。塔の中程にある方柱の部分が塔身で金剛界の四仏をかたどっている。高さ約二m身部巾三〇cm高さも三〇cm鎌倉期の作と思われる。市指定文化財。このほかに多層塔も市指定文化財だが、五層で上部が変形したのか、七層が欠除したのか不明。

宝筐(ほうきょう)印塔

八坂寺の本尊

浄瑠璃町にある。四十七番の札所。本尊阿弥陀如来坐像は県指定文化財である。木彫の坐像で像高八〇cm重さ一人kg昭和十年に金泥塗替修理をした。鎌倉末期の作と推定される。

八坂寺 本尊 阿弥陀如来

片目鮒の井戸

木屋町四丁目住宅群の中にある。昔は紫井戸と水路でつながっていて、両方ともあふれる程の水量があり鮒もゆききしたという。
  鮒鱠(なます) 鮒に片目の由来あり  子 規
 伊予節の一節に唄われている片目鮒には、子規の句にあるように弘法大師の伝説が伝えられている。巡礼中の大師が半分焼かれている鮒を見て、これをあわれみ手ずから井戸に放ったところ元気に泳きはじめたというのである。

紫井戸のこと

イヨ鉄城北線木屋町四丁目電停の北方100メートル位の住宅群の中にある。伊予節で「紫井戸や片目鮒」と唄われている。水が常に紫色に見えていた、という説と、ほかに、水質がよく醤油を造ったので醤油のよびな「むらさき」の井戸と呼ばれたという。昔はあふれるほど水量があり、近くの片目鮒の井戸とも水路でつながっており、片目の鮒が行ききしていたと伝えられている。しかし今では水位が下り、両方とも水は細れ、昔の面影はない。

長建寺の庭

長建寺 御幸一丁目、指定されてはいないが庭がすばらしい。スケールの小さい恨みはあるが一見に値するo

縦渕城跡 市指定天然記念物「おがたまのき」

山町にある。承久の乱(1221〉に北条氏に味方して功のあった河野通久が築いたもので、弘安の役(1281)で活躍した河野通有の居城であった。城は高さ八メートル、東西四七メートル、南北八六メートルの平坦な丘の上にあり、かつては老松も数株あったが、明治二一年土佐街道がつくられたとき城跡は取り崩された。残された城山神社の境内に樹令百年を越える市指定天然記念物「おがたまのき」がある。

きりしたんの墓

朝日丘一丁目にある。維新の後、明治政府はキリスト教徒に対する方針を、旧幕府の方針と同様に弾圧することに定めた。宗教の自由を求めて請願した長崎浦上の教徒を流刑に処することとしたのである。一回目は明治元年七月四六七人を大阪へ送り、名古屋と金沢に配置させた。二回目は明治二年十二月二、八〇〇人を全国二十藩に分散配置した。松山藩は六九人をあずかった。明治五年には悔い改めた者約五〇〇人に帰村を許したが、これまでに松山で死亡した七人と、明治六年釈放寸前に死亡した一人の墓がこれである。一基には 「ぺいとろ宅四郎」明治六年、他の一墓は字が消えかかっているがやっと七名の名が読みとられる。キリスト教殉教哀史の一こま。

キリシタン殉教の墓→

上野遺跡と土壇原遺跡

上野遺跡は上野町の県営総合運動公園内にあり、発掘の結果、前期の袋状竪穴と後期の竪穴式住居址が二カ所発見された。住居址は二本柱の方形プランで小規模である。出土遺物は滑車型垂飾品や各種土器・石鏃・砥石等とバラエティーに富んでいる。特に石鍬状石器の出土は、すでに植物栽培がおこなわれていた可能性を示唆するものである。上野遺跡の北方一キロメートルの土壇原遺跡からは、早期の堅穴式住居址が発見されている。住居址は小型の方形プランで、その中より右鏃や厚手の無文土器が出土している。早期の明らかな住居址は西日本でもあまり発見例がなく、縄文文化解明への手がかりを与えている。隣接する土壇原の北東端からは、晩期の土壙墓が二基発見されており、松山平野南部に多く発見されている弥生前期土壙墓の発生を知るうえで貴重なものである。

上野遺跡の縄文時代後期の竪穴式住居址

船ケ谷遺跡

安城寺町にある後期から晩期にかけての遺跡である。昭和五〇年に発掘を実施した結果、縄文時代後、晩期の河川跡と、その両岸の微高地上に住居址を発見した。特に本遺跡は現海面よりの比高差がわずか二メートルという低湿地にあることから、満潮時には海水が河川に溯上していたものとみられる。本遺跡からは多種多様な遺物が出土しているが、そのうちでも特筆すべきものは朱塗釧・木偶・曲物類・朱塗椀の木器類と、栗・クルミ・ドングリ類などの種子や禾本(かほん)科植物遺体・岩偶をあげることができる。河川跡上には橋梁とみられる遺構も存在していた。後・晩期の木器類の出土は 西日本でもまれであり、東日本の亀ケ岡遺跡に匹敵する遺跡であるといえよう。本遺跡は低湿地にあり、加えて禾本(かほん)科植物の出土等から考えると、稲作がおこなわれていた可能性がきわめて大であるといえよう。なお、本遺跡の発掘面積はごく一部であり、大半は地下深くに眠っており、またいつの日にかその姿を我われの前にみせてくれることもあろう。

縄文後晩期の木器の出土した舟ヶ谷遺跡

七曲りのこと

前の堀江街道は山越から鴨川あたりまではうねうねと曲っていた。急なカーブが七つあったので七曲りと呼んでいた。これは昔、築城のさい、北方から進撃する敵に備えるために考えた道だと伝えられている。天守閣から眺めて、一つのカーブ内の人員が判断できるという考え方である。
菜の花や道者よびあふ七曲り    子 規

衝上断層公園

国指定の天然記念物「砥部衝上断層」は、数千万年前の地殻運動によってできた日本列島中央構造線上の逆断層です。古い地層が新しい地層の上に重なっており、地質学上貴重な資料です。この断層と砥部川を利用して公園化され、人々の憩いの場となっています。

日尾八幡と書家米山(べいざん)

日尾八幡入口の米山の書

久米の東道後温泉バス停前に八幡神社がある。この地域は上古から開けた所で古墳などの遺跡が多い。ここの社も孝謙天皇の勅命による創建で(天平勝宝七四九〜七五六)祭神は品陀和気命、猿田彦命などである。社家は代々学者が生まれたが、幕末のころ三輪田三兄弟が特に名高い。長兄の常貞は米山と号し、王義之風の筆跡が天下に知られている。鳥居の前の石柱に右・鳥舞、左・魚躍と彫ってある字も米山の書で神名石の字と共にすばらしいものだ。弟の高房は、苦学力行して漢籍、易学の大家となった、藩主定昭に侍議し、藩校明教館の教授をかねていた。更に国学の研究も深く多くの著書を残した。末弟の元綱は京都大国隆正に入門し国学を修めた。幕末の時勢に憤慨し、同志とともに等持院にある足利三代の木像の首をはね、鴨川に『さらし首」した奇行で名高い勤王の志士である。元綱は維新後明治政府に登用され、外務権大丞となった。著書に「楢上枝」『地球暦」「校訂古語集遺」などがある。また高房の著非には「九仙叢録」「新字神代巻」「昔啓蒙纂要」などが名高い。

三輪田米山の墓

鷹の子町浄土寺にある。松山市指定の史跡。米山は文政四年に生れ、明治四一年に死去した。浄土寺の西隣、日尾八幡神社の宮司三輪田清敏の長男である彼は弟達よりすぐれたところがなければと考え書道に志した。はじめ日下伯厳(くさか はくがん)に教えを受け、明月上人自筆の唐詩選草書本二冊を手本とし、寝食を忘れて字を習った。ある日米山は友人乃万氏の家で王義之の法帳を見て、明月上人が王氏の書を修得して大成したと観破した。この法帳は乃万家門外不出であったため、米山は毎日乃万家に至り王氏の書を練習した。熱中の余り夜が白むことも再三ならずという。しかもこの努力は二五年間一日も怠ることなくつづいたという話は有名である。こうして米山は王氏の粋を学びとり、自分独特の書風を体得した。第二の人生ともいうべき六十才以後に初めて、稀有の米山芸術が生れた。その書風は軽快酒脱、典雅で技巧に溺れず高雅である。米山は酒を好み酒仙であった。それでいて自然を愛し美にあこがれ、学問を尊敬し知識欲に燃えていた。米山の書や神名石は至るところで見られるが、南斉院日吉神社の注連石に刻まれた「中」という字、高井八幡の神名石などは異色の出来である。墓標 の字は生前米山が自から書いたものである。

三輪田米山の墓

岩神神社社叢

興居島門田町にある。この神社の森は中予地方島嶼部における代表的な暖帯海岸樹林の一つで、ご神体である周囲34メートルもある花崗岩の巨岩と、すぐ下を通る細流を中心として、一九・八アールにわたる暖地海岸性の諸種多数の木や草がうっそうと茂り、林内の湿度は高く昼なお薄暗い。この地では古くより、岩神様の木を伐るとたたりがあると伝えられて、伐採する者がなく、この樹林の自然状態が保たれ、この島に人々が入り込む以前の原生林が残された。興居島の自然の植物相を代表しているようだ。林内には約七〇種の植物が繁茂しているが、それらのうち、ホルトノキ(モガシ)は根廻り五、六メートルのものをはじめとして大小合わせて二〇〇本もあり、その他に大きなヤブニッケイ、クロマツ、カクレミノなどが多く、また草としては珍らしいノシランの群生やシャク、ササの珍種ヒロウザサなどもある。その保護については、由良少年文化財保存会の生物研究グループの功績がある。ちなみに、ホルトノキは一名モガシとも言うが、中予地方ではシチジョウ、シチジョウノキなどと言っているものである。

松山市指定天然記念物根回り5.6メートルの「モガシ」→

伊予源之丞

古くから古三津町に伝わる文楽の人形芝居である。約二五〇年前の享保年間、三津の三穂神社の祭りに人形芝居を開演すれば不景気が打開できると信ぜられ、当時の庶民の唯一の娯楽として発展してきたが、戦後全く影をひそめた。人形も徳島の初代天狗久作の逸品をはじめ名工の心血をそそいだ傑作もある。保存会では若い世代への継承につとめており、毎年公演も行われている。県指定無形文化財

←伊予源之丞文楽

やつめ‐うなぎ【八目鰻】

ヤツメウナギ科の無顎類の魚の総称。日本にはカワヤツメ・スナヤツメが普通で、北海道にミツバヤツメがいる。カワヤツメは、通称ヤツメウナギで、全長50〜60センチメートル。鉛青色。胸びれも腹びれもなく、口は吸盤状。眼の後に7個の鰓孔エラアナがある。他魚に吸着して害を与える。口で小石を運び、産卵場を作る。食用・薬用とし、殊に鳥目トリメに有効という。日本海に注ぐ川に多産、幼魚は海に下る。

テイレギとスナヤツメ

「スナヤツメ」(体長 約 15cm)自生地の「テイレギ」学名オオバタネッケバナ。どこの溝にもあるものだが、ここにあるものはピリッと辛く刺身の妻に好適。乱獲で絶滅にひんしたが青年達の努力で増殖に成功し、スナヤッメと共に保存されている。杖の渕の立派な児童公園の中に子規自筆の句碑がある。  ていれぎの下葉浅黄に秋の風

洗心庵のこと・亀水塚のこと

港山駅の手前、製材所の四辻を海岸に向うと松山造船KKがある。港山の山根にそって行くと、古深里(こぶかり)の不動院というささやかな一堂があった。これが洗心庵のあった所で、ここに有名な芭蕉の句碑がある。  笠を舗いて手を入てしるかめの水 芭 蕉  と刻み、裏面に句碑建立のいわれを記している。寛政五年(一七九三)一〇月二二日の建立とある。この句碑は昔から『亀水塚』(きすいずか)とよばれており、天保五年(一八二二)頃に発行された『俳席両面鑑』の諸国芭蕉塚大略に『亀水(いよみつ)』と書かれ、石手寺の『花入塚」上浮穴郡久万町の『霜夜塚』とならんで記載されている。 寛政七、八年の二度伊予路を訪れた小林一茶は、その旅日記に、古深里の洗心庵で句会のあったことを書いた。寛政七年(一七九五)二月九日付である。古深里洗心庵の所在地は不明だったが、不動院の小さい半鐘の銘に『予洲松山和気郡新浜村洗心庵汁物』とあったので場所が判明した。今鐘の行方は不明。

亀水塚

円光寺
名月上人の筆跡

円光寺=湊町四丁目銀天街にある。歴代の住職のうち、書と奇行で名高い明月上人がいた。彼は享保十二年(一七二七)山口県屋代島願行寺住職の子に生まれ、幼少のころ松山に来て円光寺の法嗣となった。若い頃、京都・江戸におもむき、服部南郭、宇野明霞などにつき学問、書を学んだ。明霞は荻生祖来派の学者で寛政九年に死亡している。明月は始め書を泉州堺の食野南山人に習い、のち唐の懐素の字を研究した。明月の筆跡と、祖来の高弟久津見華岳の字を比較して見ると誠によく似ている。祖来は書家ではないが、唐の太宗、蘇東坡、懐素などの研究をし書をよくした。その高弟華岳・明霞(明月の師)もその書風を伝え、明月もまたこれにならった。世の人越後の良寛、備中の寂厳、伊予の明月とその書をたたえた。また奇行の人で、当時寺に唐風の門を作り藩庁から七十日の閉門を命ぜられた。ところが上人は平気で、昼間から提燈をともし自由に町に出歩いた。『おとがめがあろうー.」と心配する者をしりめに『夜はお役人も用がござるまい」と昼提燈をかかげて見せたという。

  風呂吹を食ひに浮世へ百年目  子 規

子規は円光寺で月見を楽しんだことがあるようだ。唐風の門はいま松山では西垣生長楽寺にひとつあるだけだ。

十六日桜  市指定天然記念物 別名 イザョイザクラ

御幸一丁目、小泉八雲が孝子桜として世界 に紹介したことから有名になった。病父が桜を見ずに死 ぬのは心残りだというので、子の吉平が祈願したところ 旧正十六日に花が咲き、老父が長寿を得たという。桜の木は枯れたが孝子吉平の話しとして長く伝えられ、龍穏寺裏山の桜谷、吉平邸跡といわれるところにある早咲き の桜と天徳寺にある桜がこの名で呼ばれている。 清水小学校の児童、近隣の人達の手で保存が進められている。

めづらしや梅の莟(つぼみ)に初桜  正岡 子規

ロシヤ兵の墓と十六日桜

ロシヤ兵の墓

来迎寺墓地にある。明治三七、八年日露戦争の捕虜の大部分が松山市に収容されていた。当時の城北練兵場(いまは愛媛大学その他学校地区となった)に大バラック式の病院が建てられて診療にあたった。市内上流の篤志婦人が看護を引きうけるなど、厚くもてなしたので松山の名は世界に知られるところとなった。最近ソ連(ロシア)からもゆかりの人が訪れて喜ばれた。

渡部家住宅

東方町一二三八の一。渡部七郎家は幕末期に南方村(現温泉郡川内町)から、この東方へ入庄屋として移り住み以来この地方で庄屋を勤めた旧家である。 現在の住宅は万延元年(一八六〇)に造りはじめ慶応二年(一八六六)に上棟されたことが棟札でわかる。 南に庇(ひさし)二階つき長屋門、東に白壁造の米倉と倉を配し、その中に主屋を配置し、周囲を土塀でかこっている。主屋の平面は東西に長く全体の形はほぼ矩形で建物を前後にわけ、表側を客向きの、裏側を内向きの部屋としているが、その表裏の境に小間、階段、押入、棚等をとっており、一部から二階に登ることもできる。造りは松山地方周辺に見られる庄屋の造りである。床壁は板に白紙を張った「はり壁」 になっており、床わきの壁がドンテン返しで裏側の産部屋に抜ける構造はめずらしい。小屋梁は太いものを何重にも架けて、一部二階があるため立面は高く、仕上げは全部鉋仕上げである。渡部家住宅は平野部の大型直屋として、また進歩した豪農の住宅としても典型的な遺構であり、長屋門、倉と共に屋敷構の一環をなしている点、重要文化財民家指定の条件と言える。 (見学日は毎週土・日曜日十〜十六時)

「江南荘」のいわれ  玄関入って前の間(10畳)に額「江南野水邨舎」が掛けてあった(今はしまっている)。この江南をとってつけた。江は大きい川の意で石手川より大きい重信川の南にある。

重要文化財渡部家住宅古図(家相図)  万延(1860)頃

義安寺

本尊は、薬師如来で行基の作と伝えられる。河野景通の子孫四郎義安が建立した寺であるので義安寺と名づけられたという。「予陽郡郷俚諺集(よようぐんごうりげんしゅう)」に、天正十三(1585)年、河野家断絶のとき、同一族の者、譜代の老臣達も加わって、ここ戒能の谷義安寺に集まり、二君に仕えないことを神水を呑み誓約して自刃したとある。この時に別れの水盃をかわしたという「誓いの泉」が今も残っている。また、自刃した侍たちの精霊が蛍になったという伝説があり、このあたりの蛍は「義安寺蛍」、「源氏蛍」と呼ばれる大型のもので、川筋から山手にかけて蛍の乱舞する名所であった。現在は「お六部さん」として八のつく日には県内はもとより、県外から祈願に訪れる人も多い。

誓いの泉 本堂正面
このほたる田ごとの月とくらべ見ん 芭蕉 本堂左右の「置敷きに三」(河野家紋)

葛掛(かつらかけ)五社神社社叢

奥久谷、祭神一言主大神。神社の森はさほど大きくはないが、老樹大木が多く、かつその樹下には各種の低木、草木が密生し、うっそうと茂って昼なお暗い。その中にイチイガシ五本、ウラジロガシ六本、カゴノキ六本の大木とヤブツバキの大きなもの二本などが特に目立ち、また目通り幹周五メートルをこす巨木もあり、このように種々の大木がそろった群生林は、松山周辺では類例のない存在で市指定天然記念物である。

蛇の釜

神社より約六百メートル下方、道路下の久谷川にある。久谷川の浸食によってできた一種 の甌穴(おうけつ)である。この近くに砥部町の衝上断層と同じ形式の中央構造線の断層がある。蛇の釜に伝説俗説がある。オントル、メントルと釜があり、かつて雄雌二匹の蛇が住んでいたし、鍋蓋ほどもある大カニも見られたし、また三〇センチほどのジャムシというものも泳いでいたという。しかし、去る昭和九年の大干ばつの際、竜王渕で雨乞をしたが、何の効なく雨は降らなかった。そこで渕の水をすっかりかい出したが渕底には何物も現われなかったと言う話もある。

鹿島

北条市は県都松山の北部に隣接し最近まで風早地方といわれていた。昭和三三年市制を実施、戸数八千、人口三万人の平和郷である。この市の西部海上、北条港より約三分で、伊予の江の島、伊予の二見と、その名をひろく知られた鹿島がある。昔神功皇后三韓征伐のとき戦勝御祈願をされたと伝えられ、今に一の段に御野立の巌や島の東北隅、神洗礁等遺跡とともに伝説が残されている。今から約七百年ほど前河野四郎通任の居城があった所で二の段に城跡がある。 島の周囲は一、四五〇メートル余り高さ僅かに百十五メートルの小島だが、島をまわれば奇岩奇勝が多く全島に四百余種の植物が繁茂し春は吉野桜が咲き乱れ、初夏は老松樟樹の若葉の匂い、夏は汐干狩や納涼、釣糸を垂れ、秋は全山紅葉の錦、まことに一幅の南画を思わせる。またこの島には古くから野生の鹿が棲息し餌を乞うさまは旅客の心をなぐさめる。瀬戸内海国立公園に含まれており頂上からの展望も良い。鹿島神社の「櫂練り」の行事は有名である。島には句碑が多い。

鹿に聞け潮の秋するそのことは  東洋城

鹿を呼ぶ頃の汐照り神凪きに   碧梧桐

白山城跡

東大栗にある。医座山城ともよばれる。大内伊賀守の城塞であった。胸をつくような急な石段を登ると頂上が平らに切りならされている。裏側は断崖になっており、周囲にから濠をめぐらすなど、戦国の城跡の特色が完全に残っているのが面白い。

葛籠屑城跡

堀江町北部粟井坂の手前に高さ百メートルほどのとがって見える山頂部にある。すぐ下は国道だが、昔は山すそを波が洗う海辺であった。南北朝時代 (一三四〇)に土居・得能氏がここに城砦を築いたという記録もあるが、元亀三年(一五七二)時の城主村上内蔵太夫吉高は可野氏水軍の 一翼をになっていた。同年九月十一日織田信長の家臣山岡対馬守、平手右衛門が阿波の三好将監、三好右京らとともに一千七百余騎の軍勢を率いて来襲したとき、敵の矢表に立って激戦が交わされたのがこの城である。吉高防戦に努めたが力尽きて城を抜け落ちたというはなしもあるが、この時の合戦は河野勢の勝利で終わっている。天正八年(一五八○)城主村上吉高は主家の河野道直にそむいて討たれるが、城跡をわずかに距たる地点に今も「オタチさま」と呼ばれ、吉高のものだとされる小さな墓がある。立ち腹を切ったところからそう伝えられている。

円明寺の納札

慶安三(一六五○)年の銅板製の納札で鍍金が施されている。松山市指定文化財。奉納者の平人家次は平太夫、平大などと称し、伊勢国三宅郡の出身。江戸日本橋材木町に住み、材木商を営んだ豪商といわれるが、後、京都に移り、明暦元(一六五五)年没した。壮年時から西国三十三所、坂東三十三所、秩父三十四所、合せて観音霊場百か所、六十六部廻国成就、ついで四国八十八ヵ所遍路をした篤信家であった。岩手県中尊寺及び新潟県弥彦神社にも同人奉納の銅板納札があるが江戸初期の民間信仰を知るうえで貴重な文化遺産である。

鱒施餓鬼(どじょうせがき)のこと

木屋町八丁目に法界寺という寺があった。寺は焼け六基の石地蔵が並んでまつられている。松山夏まつり行事の中に「鱒施餓鬼」(八月二十五日)というのがある。正岡子規は『仰臥漫録」の中に母堂の思い出話を書き残している。子規記『私はおさないころ祖父につれられて、お弁当をもたされ、ヤミの夜中の川端でドジョウ汁をたべさせられたと、母から聞いた」と。施餓鬼はもともと餓飢地獄におちた者の供養に食をふるまうことで、鱒施餓鬼も子規の書いたように、鱒汁を道行く人にたべさせたものである。今では思い違いをして鱒を川に放ち、放生会と混同しているようだが、本来の姿に帰り、夏の夜の風物詩として貰いたいものだ。

  餓鬼も食へ闇の夜中の鱒汁  子規

豊島家住宅

重要文化財 豊島家住宅古図 宝暦11年(1781) 松山市指定文化財 井門町四二一。所有者豊島豊、当家の家柄は古く、万治三年(一六六○)に村内の現在地に別居分家してのち、当家初代が松山藩の御軍用馬御預けを仰付けられ、次いで二代目が森松村の庄屋役をつとめてから家運隆昌し、改庄屋役を終てから浮穴郡の大庄屋役をつとめるまでに至った。三代目以後は大庄屋格として処遇され、領内巡見使の宿所に利用されるようになった。現住宅の建物は調査の結果宝暦八年(一七五八)の墨書が発見され、家蔵の古図とともにその建設年代が明らかとなった。当住宅は大庄屋の家柄にふさわしい大型の住宅で屋敷は方三0間(九〇〇坪)に達し、主屋のほか表門、長屋門、馬屋、米倉等の付属舎がほぼ旧規通りに遺存し、平野部の豪農の屋敷にふさわしい構えとなっている。主屋は居室部、取合部、座敷部の三部からなり、上屋を茅葺、下屋を瓦葺とした屋根は平面構成上複雑にかかるため、八ッ棟造りと称せられている。土屋他六棟付塀とも昭和四五年六月、重要文化財に指定され、四七年から四九年まで主屋の解体修理、次いで五二年より三か年にわたって表門付塀米倉などの解体修理工事を行った 。

豊島邸を裏側からみたところ

俳句のふるさと

子規自画像

春や昔十五万石の城下哉  子規  国鉄松山駅におり立った旅客は駅前緑地帯のこの巨大な句碑を見て、名にし負う俳句のメッカに来た感じを新たにするであろう。 松山の俳諧の歴史は古い。とくに四代藩主松平定直が老職重臣らとともに宝井其角の門に入って以来藩士はもとより町衆農民の間にまでひろまった。すぐれた俳人が現われ俳諧師の来遊も多い。小林一茶が栗田樗堂をたずねて二度来遊したのもその一例。句碑の街といわれるほど私庭のものを加えると実数は二五〇基に余ろう。大半は昭和戦後のものだが太山寺の柳塚、石手寺の花入塚などは全国的にも古い芭蕉塚である。 明治に入って俳聖正岡子規が現われた。慶応三年九月十七日松山に生れ。東京大学生時代旧藩子弟の寄宿舎常盤舎にあって俳句研究に没頭し、その革新を志したが内藤鳴雪舎監はじめ、五百木飄亭、藤野古白、新海非風ら同郷の舎生がこれに協力し、常盤舎は新俳句の発祥地となった。 子規は明治二八年日清戦役に従軍、帰途重態に陥り予後静養のため八月松山に帰り、松山中学教師であった親友夏目漱石の下宿愚陀仏庵に入った。柳原極堂、野間叟柳ら松風会員は日夜出入して指導をうけ、蕪村研究に先鞭をつけた 村上霽月も加わり、漱石もにわかに句作に熱中した。子規はここで『俳諧大要』を著述、『散策集』を残して十月帰京したが、その後間もなく三〇年俳誌ホトトギスが松山で創刊されたのである。子規はその後病床にありながら俳句短歌の革新、写生文の創始など近代文学史上不朽の業績を残し、明治三五年九月一九日『痰一斗糸瓜の水も間にあはず』三句を絶吟とし、三六歳で世を去った。中学生時代から師事した河東碧梧桐、高浜虚子は終生側近にあって門下の双壁と称され、子規没後は新傾向と花鳥諷詠に道こそ分れたがよくその遺業を継承して現代俳句界の隆盛は松山人に負うところが大きい。最近脚光を浴びた漂泊流転の種田山頭火も松山を慕って来り、ここで生涯を終えた。その後も松山出身の石田波郷、中村草田男、虚子の後継高浜年尾らが中央主流に活躍、松山は全国屈指の俳句人口を有し文学的遺跡が多くいまも子規、漱石の生きている町。県立図書館には充実した俳諧文庫があり、全国に類のない俳句ポストがあって市が入選句集を発行、四一年には市主催で子規、漱石、極堂さらに霽月、ついで虚子・碧梧桐の生誕百年祭が盛大に催され、毎秋子規顕彰全国俳句大会、春には市民俳句大会が 開かれるなど、松山はまさに俳句のふるさとの名にそむかない。(子規については市民双書『伝記正岡子規」をご覧下さい。)

播磨塚のこと

北梅本、陸上自衛隊松山駐屯部隊入口の北側の小丘に小祠がある。この辺り一帯、いまは隊の演習場になったり、開墾されて果樹園になったが、昔は古墳群であった。切子玉、ツクシ鉾、銀環などがたくさん出土している。上古清寧天皇のころ播磨(兵庫)の国司であった「来目部の小楯」が国内巡視中二代前の安康天皇(四五四〜四五六)の皇孫二人を発見した。彼は驚いて朝廷に報告したところ時の天子清寧天皇に皇子がなく、非常に喜ばれ都によびよせ皇子とされた。二皇子は次々即位をされた。顕宗、仁賢の二帝がその方々で、小楯はその功により「山部連(ーのむらじ)』という姓を許されたという。小楯は老後、官をひき、故郷の伊予久米に帰り、この地をおさめるとともに老後を楽しんだのである。平穏で古墳群にかこまれたこの辺りも、中心部を国道がつらぬき、様相は一変してしまった。 小楯の顕彰碑と小さい祠がひとつ、丘の上から世の変遷を見つめている。

山雪の馬

伊予では古来、明月の書、蔵沢の墨竹と並び山雪の馬が珍重されている。松本山雪はその生家や家系ははっきりしない。若い頃京都に上り、当時著名な狩野山雪に学びその画技を見込まれ、今治城主藤堂高虎に招かれ藩の絵師となる。慶長十三年高虎の伊勢転封に随行、その没後、寛永十一年伊勢桑名の城主久松定行の松山転封にともない帰松、以来藩の初代絵師として活躍したといわれている。 山雪の代表作は東京国立博物館・京都国立博物館にも所蔵されており、同名の師狩野山雪と混合される力量を示し、中央画壇では幻の画人ともいわれている。県内に残る多くの遺墨によっても、伊予の近世絵馬史の冒頭を飾る巨匠であることは間違いない。墨馬図屏風は松山市指定文化財。

墨馬図屏風 →

山雪の墓

松山市土居町一〇五九万福寺の境内にある。山雪は南土居に居住、延宝四年この地で没した。隣合せに養子で絵師であった山月の墓もあり、邸跡にも碑がある。松山市指定史跡。

松山市指定史跡 山雪の墓 →

道後のビ-ナス

長径10センチメートル短径9センチメートルの薄い土版、分銅形の上半円を顔に見たて三日月眉を粘土の細紐でつけ、へら先きでその眉に隠れるように引き目の線を用い乙女の瞳を表現している。そしてくびれの上の上部にオチョボぐちがつけてある。首から背への柔かな曲線、胸の線までも想像される。この道後の乙女とでも称されるものは弥生中期の呪術的な要素を含んだ護符のような役割で使われたものではないだろうか。祝谷町山崎から弥生中期の土器と併出。主として瀬戸内海沿岸から発見されている独特の土製品である。県内では北条市と文京町で出土しただけである。市指定文化財

← 分銅形土製品

地蔵尊

小坂町二丁目多聞院にある。石質は安山岩で高さ八〇センチメートル、幅六三センチメートル、像高五五センチメートルのの半肉刻りで文中三年(一三七四)の銘がある。銘のある石の地蔵尊では松山市で一番古く民俗文化財として貴重な存在である。仏教では、釈迦入滅後、弥勒菩薩が現われるまでの無仏時代、現世にあって六道に迷う人々や、死後の世界において迷う亡者を救う菩薩が地蔵であるといわれる。

多聞院の地蔵尊 →

平井のソテツ

平井のソテツ 市指定天然記念物

平井のソテツ 市指定天然記念物 原産地は東南アジアだといわれている。日本では蘇鉄と書くが、これは鉄くずなどで弱った木がよみがえることを意味しているのが面白い。ポンコツ車がソテツの肥料といわれるゆえんだ。平井町今吉にあるこのソテツは文化年間(一八○四)に植えられたという。このあたりに天狗谷という所があり未開の地で人も住まない土地であった。土地の古老のいい伝えによれば『音右衛門という人が、子牛を木につないでおき、これが翌朝無事であったなら人も住むことが出来るだろう」と考え実行したところ、牛は無事であったので家をたて、開こんをしたのだという伝説がある。その時に歓喜天を祀り、一本のソテツを植えたのがこの木であるという。ソテツには雌雄の株がありこのソテツは雌株で結実する。根廻り約二、三メートル目通り二メートルという大きなものである。地上約二メートルのところで四方に枝を張っている一本立で樹の勢いも盛んで誠に見事である。

東野焼狛犬

松山藩の御庭焼東野焼(一名瀬戸肋焼、松山藩主初代松平定行が東野の別墅に築窯慰みに陶器を作らせた。)の陶工瀬戸助については文献も乏しく、今その全貌を知ることは極めて困難である。また、その作品についても現在残っている瀬戸肋焼と称されているものの中にも疑問点多く確証を欠くものが多いがこの狛犬は地元東山神社に奉納されているもので唯一の銘文を有するものとして古来有名である。その焼成は焼締で備前焼に似ていて造形的にもまた優れている。

銘文 阿吽とも、 奉寄進獅子二疋之内 元禄十丑二月廿四日波賀 氏藤原伴明 像高 各ニ十六センチメートル(吽犬前脚右欠手)

中島町

三津及び高浜から町営汽船のフェリー便旅客船便がある。所要時間は一時間〜一時間半。昔は忽那島(骨那)とよばれ、大和時代には朝廷の牧場であった。島の豪族忽那氏の発展とともに、伊予水軍の根拠地となり、瀬戸内の海を制するはもとより、八幡船と恐れられるように海外にも雄飛した。特に南北朝頃の忽那水軍の活躍はすばらしく、征西将軍懐良親王を擁して義軍につくした。県指定有形文化財、忽那文書は、この頃の記録の決定版というべく、日本中世史を知るため誠に貴重なものである。「忽那島相伝之証文三巻」「忽那一族軍忠次第」など中島町吉木の忽那太郎氏が現に完全に保存している。鎌倉初期から戦国末期までの間の、忽那氏、河野氏の動静、吉野朝、九州、中国地方との状勢などを知る正確な資料である。従って全島至る所に史跡があり、白砂青松の海岸は海水浴場としてもよい。

中島町のビャクシン自生地

中島町のビャクシン自生地 同町二神島には多く自生しているが、特に城の山付近には根廻り五メートルに達する大木をはじめ、1メートル程度のものが数十本群生し、県下では他に例をみない林相を形成している。県指定天然記念物

平形銅剣

松山市指定文化財。 上 長さ 45.9cm 身幅 6.6cm 幅 5.9cm 厚さ 0.4cm 重量 356.5g 下  長さ 45.6cm 身幅 5.7cm 幅 5.3cm 厚さ 0.4cm 重量 347.0g

青銅製の遺物の銅剣には実用武器としての細形と、祭儀器用としての、刃を持たず扁平に造られた平形のものとに大別される。またその分布についても瀬戸内地域(香川・愛媛・岡山・徳島)に限られている。この平形銅剣二口は出土の時期、地域については明確でないが、道後樋又といわれる。道後一万から樋又の一帯は弥生時代遺跡の分布地として知られ、明治四二年に道後今市から出土の十口が東京国立博物館に収蔵されている。

銘帯文五神五獣五亀鏡

松山市指定文化財。「昭和四六年十二月、天山神社北の古墳から検出。直径十九・三センチメートル、紐を中心に神獣を内区とし、その外円に半円方形帯を、外区に銘辞をもつ。銘辞帯の外は無文の平縁となっている。内区の造像は五神五青龍五玄武で、五玄武の頭上には朱鳥が図化されている。その他唐草文もみえる。

銘帯文五神五獣五亀鏡  →

三島神社古墳 三島神社古墳【畑寺】...消滅

←  三島神社古墳 石室と排水溝

前方後円墳であったが昭和四六年三月〜五月に発掘調査された。全長四五M、前方部二九M、 墳丘高四m。横穴式の片袖石室が設けられ、羨道部は二m。ガラス玉一、二〇〇個、滑石製の臼玉、碧玉の管玉青銅製の金の鍍金をほどこした帯金具十五個、鉄鏃、鉄釘などが出土したが盗掘されており遺物は少なかった。須恵器の器台の脚部一基、復原数値は底部径四五cm、高さ五〇cmあり、宗教的な配慮をして造ったみごとなものであった。埴輪は前方部に三三個の円筒、朝顔形の埴輪が約五〇cm等間隔に配置されていた。

久米古墳群のある辺りは、松山市でも歴代の首長墓が築かれた地域で、三島神社古墳や二つ塚古墳など後期の前方後円墳が存在しています。そのうち三島神社古墳では、初期の横穴式石室が確認されていますので、比較的早い時期に北部九州より横穴式石室が導入されたと考えられます。前方後円墳の造営が中止された後は、巨石で構築された横穴式石室を有す長方形墳が連続して造営されたことは、畿内政権との密接な関係が構築されていたことを示し、更に畿内政権にとってこの地域が極めて重要であったことも伺うことができます。植山古墳の被葬者が久米一族を束ねた大伴氏の関係者では無かったにせよ、こうした一つの墳丘に二つの石室を有す有力古墳が伊予から讃岐に多く分布する事実からすれば、植山古墳の成立にはこの地域の勢力が関与していた可能性を示唆するものではないかと解釈することもできるのではないでしょうか。 物怪抗固学より抜粋

東雲神社

丸之内七三-一ロープウェイ北側の石段を登る。文政六年(一八二三)一二月松山藩主久松定通公 (十一代)は、松山城長者ヶ平に、社殿を造営し、東雲大明神と称え、久松家の祖先神天穂日命菅原道真公と、藩祖久松定勝公以下藩主の、神霊を奉斎し、藩崇敬の神社とした。明治一三年二月東雲神社と改め県社に列格した。昭和二〇年七月二六日罹災。 昭和四八年一〇月一六日、松山大神宮と、東雲神社との御神霊が新本殿(神明造)に合祀奉斎せられた。 松山藩に過ぎたものと諸公にうらやまれたという県指定文化財能狂言画一九五面と、能装束一五〇点、鬘帯三五本、腰桶一点、笛二管のほか宝物の中には、南北朝時代の三八間紫糸威総覆輪筋兜等約三千余点が保存されている。文華殿が建設されてこれ等を収納展観する運びとなっている。また、社殿に於て、春秋二回(四月・一〇月)の神能が奉納せられる。 尚、境内に、東雲桜と称する山桜と、市指定天然記念物通称なんじゃもんじゃの木(和名ヒトツバタゴ)がある。内藤鳴雪、高浜虚子の句碑が二基ある。

東雲神社の薪能(しばのう)

東雲のほがらほがらと初桜 鳴雪

遠山に日の当りたる枯野かな 虚子

正宗寺

子規堂と正岡子規の碑

末広町、境内に子規堂がある。これは中の川の子規歌碑(旧邸跡に建てた)のところにあった。

くれなゐの梅散るなべに故郷に つくしつみにし春し思ほゆ 子 規

この歌は伊藤左千夫が病床の子規を慰めるため紅梅の盆栽を送ったが、これを見、望郷の念にかられて詠んだ歌である。正岡家が東京に移った後、とりこわされる旧宅の一部用材を使って建てた。後二度火災にあい、現在のものは旧宅の間取りを模して建てられた。内部には子規の遺墨、遺品が数多く展示してある。また俳句のメッカといわれるにふさわしく、子規の埋髪塔(下村為山筆文化切手の横顔)や同じ為山筆の内藤鳴雪の髯塚、虚子の筆塚、ホトトギス発行六〇〇号記念の句碑などがある。

笹蹄が初音になりし頃のこと 虚 子

明治二八年一〇月七日

「・・今出の霽月一日我をおとずれ来れという、われ行かんと約す・・いで立つ道に一宿を訪ふ同伴を欲する也一宿故ありて行かず・・』

朝寒やたのもとひゞく内玄関 (子規筆)

子規はこの朝この句を残した。玄関だったという位置に、寒竹を植え、その傍に可愛い句碑がたっている。一宿は時の住職、仏海師、子規の友人で埋髪塔を建てた。

イブキビャクシン

浄瑠璃寺境内にある三本のそれぞれの幹周は四.六メートル、三.一メートル、二.九メートル、高さ一八メートルであって、樹令は一、○〇○年とも言われている。このうち最大の木は昭和三九年の台風で東向きの大枝が折れ全体に弱っている。ちなみにイブキビャクシンは一名イブキ、ビクシンとも言い、県下の各地では、イブキ、ハクなどとも言っている。イブキは成長はおそいが、それでも長寿を保ち巨木となる。市内では上野町大宮八幡境内の金平狸で有名なイブキが幹周五・二メートルもある立派なものである。盆栽として名高いシンパクはこのイブキにきわめて近いが、亜高山帯・・・石鎚山、赤石山などの崖にあるミヤマビャクシンのことである

イブキビャクシン  →

薬師寺のイスノキ

←  イスノキと子規の句碑

泉町・県立病院のすぐ東隣にある。寛永三年(一六二六)松山城主加藤嘉明が、石手川改修後、再三ならぬ氾濫を心配して祈願のため建てた寺だという。本尊は薬師如来である。正岡子規は明治二八年一〇月二日散策集の第三回目ひとりで吟行した日ここをたずねた。その時「薬師寺二句」と題して・・・我見しより久しきひょんの茂り哉・・・寺清水西瓜も見えず秋老ひぬ・・・を残した。ひょんの木は学名「イスノキ」でさして珍木というのではないが、これ程大きいのは珍らしい。虫えいのため葉がピンポン玉のようになり、虫のでたあとの穴に風が当ると、ヒョウヒョウと鳴るところから「ひょんの木」の名がでた。子規の二句は句碑が出来ている。寺清水西瓜も見えず、と子規の書いたとおり、ここは泉あふれ市民の憩の場であったが、今は清水涸れ付近は埋立てられて往時の風情は見られない。

興聖寺(こうしょうじ)

末広町、市指定史跡蒲生忠知供養碑がある。加藤嘉明の会津移封に伴い出羽上ノ山城主から松山城主になった蒲生忠知は在城わずか七年で寛永三年(一六三四〉京都で病没、世継ぎがなく平安時代の武将藤原秀郷以来の名門が断絶した。忠知ははじめ大林寺に葬られたとも伝えられるが、松平定行が蒲生家の霊位等を興聖寺に移した。供養碑は安永七年(一七七八)遺臣の子孫が建てた。供養碑と並んで赤穂浪士、大高源吾と木村岡右衛門の墓がある。松山藩の江戸屋敷では大石主税ほか九名が切腹したが二人を介錯した宮原久太夫が供養のために両士の墓を建てた。毎年、討入りの日に赤穂義士供養が行なわれ、檀家や近所の人達の赤穂義士行列などもあって賑わっている。宮原久太夫の墓もここにある。 大高源吾は子葉と号し宝井其角(きかく)の高弟で俳句をたしなんだ。その辞世の句「梅でのむ茶屋もあるべし死出の山」の句碑もある。  鴬や主税今年年十七  子 規

左 赤穂浪士の墓 右 蒲生忠知供養碑

極楽寺(ごくらくじ)の書跡

鷹子町にある。『天照大神御託宣記』この書は真言宗の教説で解釈された両部神道を説くことを目的に本地垂述思想(ほんじすいじゃく)の神仏調和が記されている。すでに原本はなく、古写本が残っているに過ぎないがそのうちの一つで奥書に永正十七年(一五二○)十二月の日付がある。従って鎌倉時代に成立していたものと考えられる。
 『山陰道出雲州佐陀大社縁起』天文十八年(一五三一 )は神仏を混合して宗源神道を創唱した吉田兼倶(室町時代の有名な神道思想家)の談話を記述したものであるといわれ、本書はその時代のもの。佐陀大明神の霊験のあらたかなことが説かれており相当に仏教思想をまじえている。いづれも市指定文化財。

古川七郎氏

千舟町四丁目、国の重要無形文化財能楽(総合指定)の保持者である。
大正四年五月二十六日生、
大正八年、すでに子方として東雲神社奉納能に父親に従って出演し、
その後松山中学校を卒業するに及んで家業の染物店を経営のかたわら
大蔵流茂山忠二郎氏に師事し、ますます能の技を磨く。
 日本能楽会々員、昭和五十年五月十二日認定

← 狂言 寝音曲を演ずる古川七郎氏

福見川の提婆(だいば)踊り

奥道後の奥地、日浦地区には「川幟念仏」「川念仏」「大念仏」そして「提婆踊り」と古風な念仏行事が盆の行事として続けられている。 本来「御祈祷(ごきとう)」というだけであるが提婆面 (鬼面)をつけて踊るのでそういっているのであるが、この踊りは毎年盆の十五日の夜、部落阿弥陀堂(徳正寺)境内の庭先で行っている。宿野にあった奥の城の城主が非業の死をとげ、それが崇(たた)るのを弔って始められたと言われているが、いわゆる念仏踊りである。胸に太鼓をつけた大提婆と山提婆が、鉦打ちの鉦鼓と世話人の唱える「ナーマイダーブヤナーマイダー」の念仏に唱和しながら、太鼓を打ちつつ旋回したり踊ったりするのである。アクションの強い踊りである。大提婆がのけぞるように太鼓を打って足を踏むと、小提婆が体を前にかがめ背を丸くしてちょこちょこと激しく舞う。これを七十五回繰り返す。これと同系統の芸能は一山越した温泉郡重信町山之内にもあり、他に例のない風変わりな民俗芸能である。

大山寺

太山寺町。経が森の東中腹にある。四国霊場五二番の札所、天平十一年(七三九)聖武天皇の勅願により行基開基という。帝御自ら金光明最勝経の写経を山の頂に埋められたという伝えがあり今も経が森とよんでいる。 寺伝には豊後の真野長者が、海難にあい、山頂の光を見てその難をのがれたので本堂を再建したとある。創建以来二度ほど災害をうけたことが、昭和二七年より三年間の解体修理の際確認された。現在の本堂は、解体にあたり、内障正面の蟇股の墨書、嘉元三年(一三〇五)が発見され確認されたもの。桁行七間、梁間九間、入母屋造り本瓦葺で県下最大の豪壮な建物である。柱は和様の円柱、虹梁は太くふくらみを持ち、持送り肘木が挿肘木となっている点は天竺様、唐様と三様式が融和した鎌倉期の傑作。特に蟇股の工作がすぐれている。厨子のある内陣が土壇であるのは日本で只一つ。昭和三〇年復原後国宝に指定された。鐘楼の鐘には永徳三年(一三八三)の銘あり吉野時代の名作、県指定文化財、八脚門も重文、経が森からの瀬戸内海を望む展望はすばらしい。

蒟蒻に つゝじの名あれ 太山寺  子規

国宝 大山寺本堂

十一面観音立像

本堂の須弥壇(しゅみ‐だん)に安置せられている木造十一面観世音の七躯は全部重文である。
寺伝によれば聖武天皇以降の歴代天皇が勅納の仏像として、篤い信仰の対象となっている。
いずれも像同一四五〜一四九cm前後の一木彫立像で像の細部にはそれぞれ相違の点はあるが、
全体の容姿はほぼ共通し、調和のよくとれた藤原時代中期以後の特徴を伝えている。

八九間 空へ雨ふる 柳かな  はせを

十月の 中の二日や 柳つか  蕉門老人竹翁

山門前に県内最古の句碑がある。

港山城跡

伊予鉄道港山駅の西にある。道をはさんで東西に分れ、東は東港山、西は西港山とよび、西側に松山藩の出丸があった。山の南麓に湊三島神社がある。河野通春の城址で、応仁の乱には山名方についた河野通教と細川方となった通春が戦うことになる。両将ともはじめは京都に出兵していたが、十一年後に双方とも帰国し、伊予一円で戦いつづけ、文明十四年港山の激戦に通春が戦死したのである。

三津の朝市

伊予節に「三津の朝市道後の湯」と唄われるほど歴史を重ね松山名物であった。円形屋根の珍らしい建物は昭和二九年老朽して倒壊した。

  朝市や鯛にかぶさる笹の露  子規

湯釜薬師

公園の北西に新温泉があり、その前に「寝ころんで蝶とまらせる外湯哉 小林一茶」の句碑がある。この句碑の後方山すそに古い湯釜がある。湯釜は湯口のことで天平勝宝(七四九)に作られ、正応元年(一二八八)一遍上人が六字の名号を彫ったという。円筒形の花岡岩、高さ一五七cm、径一六六cm、享禄四年(一五三一 )河野通直が尾道の石工に命じ天徳寺徳応禅師撰文の温泉記を彫らせた。この湯口は現在の温泉本館が出来るまで使われた温泉史上貴重なものである。県指定の文化財である。祭礼八月一日

大宝寺

南江戸五丁目。大宝元年(七〇一 )越智玉興が創立したと伝えられている。現在の本堂が建立された年代を知る資料はないが、その形式手法から鎌倉前期と認められる。愛媛県下では最古の和様建築で、その後、貞享二年(一六八五)に修理、大正一〇年に解体修理をし昭和五七年に屋根瓦修理を行った。寄棟造り本瓦葺、桁行三間梁間四間の堂で円柱、格子天井である。なお、堂内に安置された軒唐破風付、こけら葺の唐様の厨子は寛永八年(一六三一 )の作であるが、手法が優秀で再興貞享二年在銘の修理棟札とともに昭和二八年国宝の指定をうけた。本尊は木造阿弥陀如来坐像で秘仏として開扉せず信仰されて来た仏像である。昭和三四年に修理復原した。高さ一三七・九cm大形の坐像である。伏目半眼に丸頭、緩やかに流れる納衣の波、低い両膝をつつむ浅い刀法の衣紋等よく定朝風の刀法を表わしている。藤原時代末期の傑作。脇仏の阿弥陀如来坐像は像高六八・二cm、一木彫の坐像である。また釈迦如来坐像は、像高八三・六cm、一木彫の坐像。共に藤原時代初期の優れたものである。三体ともに重要文化財。

国宝 大宝寺本堂阿弥陀如来坐像

乳母桜

境内に角木長者の姥の伝説で知られた名桜、姥桜がある。エドヒガンといい、一名アズマヒガン、ウバヒガンとも呼ばれている。この大宝寺のものは根廻り二・八m、高さは低いが枝振りがよく、その姿態は優美である。松山地方では一番早く開花する。長者の娘るり姫が長い病の床にあったがついに全快し祝宴を開いたが、そのかわり姥の袖が急病になり『妾はお嬢様の身代りを薬師様にお願いしたのだから歎かぬよう、ただお嬢様のお礼に寺に桜を植えて欲しい」と遺言して世を去った。それでこの桜を “乳母桜“姥桜などという。この天然記念物はエドヒガンとしては、非常に大きいとは言えない。しかし忠実な姥の伝説とすぐれた樹型により、古来有名であるので指定された。 

花吹雪畑の中の上り坂  霽月

オオムラサキツツジ

久万ノ台成願寺内にある。周囲二四メートル、高さ四・一メートルの樹勢旺盛なもので県下では一番大きいといわれる。花は五月上旬、枝の先に紅紫色の大きなロート状の花二、三こをつける。市指定天然記念物

砥部焼

いまから三百八十余年前(慶長年間)朝鮮から渡来した陶工により、日用の雑器が焼かれたのに始まり、安永六年(一七七七)杉野丈助が白磁焼に成功して砥部焼の基礎が出来あがった。松山市の南郊十二キロメートル無尽蔵といわれる陶石のある盆地の町に、三十余の工場が点在している。清楚な白磁の肌にとげこんだ呉須絵の味の深さ、白い素地と色彩の格調の高いデザイン、やや厚手で素朴な形と材質のよさ、県の特産品として好評を得ている。いまの新派の前身を創始した芸術院会員、故井上正夫丈はここ砥部町に生れた。誕生地の碑がある。彼の胸像は松山市駅前のロータリーにある。

名作「坊っちゃん」の遺跡

一番町四国電気通信局玄関南、電車通りに面している。漱石ゆかりの松山中学校跡 夏目漱石は、明治二八年ここで英語を教えた。名作 「坊っちゃん」は松山中学校を舞台にして書かれた。四国電電ビル新築にあたり、往時校庭にそびえていたユーカリの一樹をそえて記念碑を建立した。松山を去るに際し

わかるるや一鳥啼いて雲に入る   漱 石

句碑の多い松山に、はじめて生れた近代的な文学碑。

漱石ゆかりの松山中学校跡

西村清雄翁と讃美歌の碑

北久米町私立城南高校の校庭にある。この学校は明治二四年に勤労学生や貧しい少年たちに勉学の機会を与えようと、米人宣教師ジャジソン女史が創設した異色の学校である。女史の帰米後、昭和二九年まで、六十幾年の長い間、教育に情熱をそそがれた西村清雄翁は昭和三七年松山市名誉市民に挙げられたが昭和三九年九四才の高齢で永眠された。交通不便の昔、宇和島に二日がかりの伝道をされた帰途、鳥坂(とさか)峠の日暮れの山路で、翁の口にふと浮んだ歌が讃美歌第四〇四番「山路越えて』だった。歌碑は高さ二・三メートル、巾一・三メートルの花崗岩で翁の自筆

「やまぢこえて一人ゆけど 主の手にすがれる身は安けし」

”道はけわしくゆくて遠し、ことろざす方にい つかつくらん、日も暮れなば石の枕、仮寝の夢にみくにしのばん"

この歌は神にすがる者の魂にせまるものを持つのであろう、外国移民の日本人老農夫は、この歌で異郷にくらす淋しさを忘れると、シカゴ市日本人教会の牧師に語ったという。この歌碑は翁を慕う教え子や米国の日本人教会員などの浄財を集めて建設され、昭和二八年十一月二三日、八二才の翁も元気に出席されて除幕された。城南高校は当初永木町にあったが昭和五六年四月この地へ移転した。昭和三十年七月宇和島に至る旧道、法華津峠にもこの歌碑が建立された。

伊予市・五色浜

伊予市の港近くの海岸。伊予市は人口二万余、特産品の「花がつお」はよく知られているまた製材も盛んな小都市である。伊予灘に面した海岸は、渚から松原につづく砂丘に赤緑青白紫と五色の美しい碁石のような小石が埋めつくされ、そのため五色浜とよばれた。この五色の小石に哀れな伝説がある。寿永(一一八二)の昔、平家が滅亡した頃、この浜に五人の美しい姫が隠れ住んでいた。海岸で真赤な平家蟹を見るにつけ、白い源氏蟹を見つけて恨をはらしたいものと考えた。姉の姫は妹達に「白い源氏蟹を探せ」と命令した。然しそのような白い蟹などいるわけがない。毎日姉姫にせめられるつらさに、妹達は一 計を案じた。白粉(おしろい)を赤い蟹にぬって姉姫にわたしたのである。姉姫は喜んで「この源氏蟹め・・・」と海岸の岩にその蟹をたたきつけた。浪にあらわれ、白粉はとれ妹姫のうそはあらわれてしまった。姉姫は失望と怒りに妹姫を斬った。三人の妹姫は恐ろしさの余り逃げ廻ったが「いっそ父上や兄様のもとに参りましょう」と相抱いて海に身を投げた。姉姫も「憎い源氏め・・・」とののしりながら海辺をさまよい、妹姫のあとを追い浜の藻屑となった。それ以後浜に五色の小石が波にあらわれるようになったのだという。

  夕栄の五色が浜をかすみけり  子 規

護岸工事のため五色浜は面影をなくした。

称名寺

伊予市上吾川にある。境内の小丘にものさびた鎌倉様とよばれる小社があり、そのうしろに高さ一・五メートルの碑がある。「蒲冠者範頼公墓」と刻み、石柵内に五輪塔などが見られる。下手にも小さい五輪が十基程もあり、附近のほのぎが馬塚山とか太刀折場などというのでそれらしい感じもする。範頼の墓は修善寺にある他金沢で斬られたという説もあるなど文献もなく信はおけない。ここに夏目漱石の句碑がある。漱石の句碑はこれと、唐岬(からかい)滝のと二つだけだから珍らしい。字は村上霽月。

  蒲殿のいよいよ悲し枯尾花

  古枯や冠者の墓撲つ落松葉

安楽寺と履脱天神

久保田町にある。延喜式に見られる履脱天満宮と寺が同一境内に同居しているのが面白い。昔、菅原道真が福岡県の太宰府へ流される途次、瀬戸内海を航海中遭難して越智郡桜井の海岸に漂着した。陸路を西下し松山に滞留していたが、蔵人頭三位中将紀久朝が勅使として下向し、道真に九州へむかうように伝えた。道真は四、五〇〇メートル西の川まで出迎えたが、この時あやまって履が脱げたという。里人は川にかかる橋を勅使橋といい、神社を履脱天満宮とよぶようになったという。今でも保之木(ほのぎ)に勅使という名がのこっている。道真は今出の浜から船出をしたが、見送る里人達に『今でるよ」と声をかけたので、西垣生の浜を今出とよぶのだという。

 馬場先の 梅匂ひけり 雪の中  霽月

境内に道真が「星占い」をしたという松山七不思議のひとつ「占い池」がある。 安楽寺の十一面観音(一木造り立像)は先年文部省綜合調査の際認められ平安朝の作として県指定の文化財となった。この像は銃撃をうけ、鼻はかけ、全身に焼夷弾の破片がささっているありさまでいたましい。安楽寺は長保元年 (九九九)創建といわれるが、道真の話しもともに史実はない。

義農作兵衛

伊予郡松前町、伊予鉄松前駅北三〇〇メートルにその墓がある。松前町には東し愛媛工場がある。工場は松前城跡。義農は筒井村の貧農で十五才のとき母をなくした。貧故に養生できなかったことを残念と思い日夜懸命に働いたので小地主となることができた。享保一七年(一七三二)関西一円飢饉に苦しみ松山領は死者三、四八九人に達した。藩でも官米で救済につとめたが及ばなかった。作兵衛は毎日川に出て天災虫害と戦ったが、父作平、長男作市はつづいて餓死した。作兵衛も倒れ、隣人から枕にしている種麦を食すようにすすめられたが、『百姓が種子を食すことはならぬ、今年の一粒は来年万粒となる」といって遂に種を守り餓死した。享保十七年九月である。死後四五年目安永五年(一七七六)時の藩主定静が儒臣丹波南陵に命じ頌徳碑を建立せしめた。最近種麦によりかかっている像も出来た。

  初難も知るや義農の米の恩  子規

義農神社の裏に松前の「おたたさん」の祖先というお滝姫の小祠がある。

義農の像

蔵沢(ぞうたく)、吉田久太夫の墓

本町五丁目大法寺にある。蔵沢は享保七年(一七二二)に生れ享和二年(一八〇二)没した。蔵沢は松山に生れ、藩の代官、物頭などをつとめた藩士で、輝かしい功績と豪放な性格で幾多の逸話を残し、長く士の規範と仰がれた武人である。蔵沢の墨竹は多くの熱狂的な愛好者をもちながら、久しく郷土に埋没して広く人びとの知る機会に恵まれなかった。彼の墨竹は、一切の画法を脱皮、豪快な筆致で竹の本質を描破、しかも内に豊かな情感がこもり、見る者に比類のない至純な感銘を与えてきた。作品の清新さ自由さは、没後約百八十年の歳月を超え、現代の感覚に共鳴、ひとびとの関心を呼び、大雅、蕪村とならんで日本美術史の表面におどり出ている。郷土の者は今もなお、蔵沢の墨竹を秘蔵していることを誇りとしている。蔵沢の愛用した雀印はもと宮本武蔵遺愛の印章であるといわれているが両者の絵はよく併称される。武蔵の絵はきびしい勝負の世界に生きる戦国武士の面目が強い。すさまじいまでの殺気を感じる。蔵沢の絵は温かい人間の情感をこめた陶酔がある。性格は違うがともに武人らしい気魄があふれ、士の絵の双壁というべきであろう。市指定史跡

吉田久太夫の墓

三上是庵(ぜあん)の墓

朝日ケ丘二丁目宝塔寺にある。是庵は文政元年(一八一八)松山城下で生れ、明治九年(一八七六)病没した。彼の生涯は波乱にみちていた。江戸後期の封建制度の崩壊から、明治維新を経て専制新政府の確立に及んでいる。彼はそのような混乱の世相を正しく見つめて活動したのである。彼が幼い頃から非凡な子供であったことを伝える逸話がある。近隣の子供を相手にしないので、ある日近くの悪童が彼をなぐった。見ていた者はどうなることかと心配したが、彼は「蝿がとまり鳥の糞が落ちて来た」と平気で笑っていたというのである。年少の頃から普通人に超越していたことがわかる。崎門学派直系の学者である。梅田雲浜(うんぴん)や吉田松陰(しょういん)とも交遊があり、松山藩勤王の土の一人であった。維新の際朝廷は徳川幕府およびその親藩に対して追討の命を発した。松山藩、松山の運命は危機に直面したのである。時の藩主定昭は、家老竹内九郎兵衛、近侍の大原武衛門らと是庵を招き藩論統一の策をねった。結局是庵の主張する「封土を朝廷に返納し、他意のないことを示し陳謝する」ことに決し、居城を出て常信寺に退去しひたすら謹慎の意を表すことにした。この結果、松山は土佐、長州 軍の戦火にもあわず無事新政府を迎え得たのである。市指定史跡

三上是庵(ぜあん)の墓

円福寺

木屋町二丁目、松山城第二期目の城主蒲生忠知(寛永十一年、一六三四年死去嗣子なく断絶した)の肖像画と遺品の膳椀を所蔵している。藩主の肖像画としては優品であり市指定の文化財である。そのほかここに菊屋新助の墓がある。新助は安永二年(一七七四)越智郡波方町の農家に生れ、のち松山に出て商業を営んだ。彼は伊予絣の前身とも見られる伊予結城(ゆうき)の改良増産に着眼し、京都から織機を移入して研究を重ねた。彼の織機技術と鍵谷カナ女の独創が後年、伊予絣を生みだすことになった。

蒲生忠知の肖像

大林寺

味酒町二丁目にある。松山城主蒲生忠知が創建し見樹院と称した。蒲生家断絶のあと松平定行が松平家の菩提寺として大林寺と改めた。その後忠知の墓は末広町の興聖寺にうつされた。十四代目住職学信は奇行多い傑僧として有名だった。梵鐘は高さ一・四メートル、径○・四メートル、文化15(1818)年戊寅之夏の銘文がある。池部の模様が美術的なので、昭和四十年県指定の有形文化財.工芸品とした。なお戦災のため美しい庭をなくしたのは残念である。

来迎寺(らいこうじ)

御幸一丁目、松山城を望み景色がよい。もとは河野家が道後に創建したといい天台宗であったが、天文年間(一五二七)浄土宗に改めた。加藤嘉明が松山地割のとき、山越の一角に寺町を設け、松山城北辺の防備にしたといわれるが、来迎寺もこのときに移築したものであろう。ここに足立重信、青地林宗の墓がありどちらも県指定史跡である。築城奉行足立重信は寛永二年(一六二六)未完の城に心を残しつつ西堀端の邸で病没した。城の見える所に埋めてくれ、との遺言に従いここに葬った。重信川、石手川改修工事は彼の大きな功績である。墓は五輪で献燈が二基ある。脚にゆかりの俳句を刻んであるのが珍らしい。  

  功や三百年の水の春 鳴雪 右

  宝川伊予川の秋の出水哉  霽月 左

重信の三百年忌に重信川の石で造ったという。

足立重信の墓

庚申庵・栗田樗堂と小林一茶

庚申庵は味酒町二丁目、県指定史跡。樗堂の家である。樗堂は寛延二年に生れ(一七四九)豪商豊後屋後藤昌信の三男。長じて同じ酒造家栗田家に入夫し七代の主となった。家業に精励するうち明和八年(1771)松山藩大年寄役見習という公職についた時は二十三才の若者であった。寛政三年(一七九一) 退役して大年寄格となるまで約十九年その職にあ った。彼は天明六年(一七八七)頃から上京し加藤暁台に教えをうけ、その頃堕落していた俳文学を蕉風にもどす運動につとめた。樗堂は全国にその名を知られるようになった。小林一茶は師竹阿の足跡を慕い伊予路に来た。寛政七、八年と二度にわたった。彼は伊予路の旅をその『寛政紀行」に書きのこしている。寛政七年(一七九五)一月九日入野の暁雨をとい、新居浜の騎竜亭に泊った。十三日灘波西明寺の住職茶来をたずねたがすでに死亡しており落胆した。十四日正岡村の門田兎文をたずねその門前で『門前や何万石の遠霞』と松山城の遠望を句作した。十五日に樗堂の二畳庵にたどりつき句作を楽しんでいる。十六日には唐人町(三番町二丁目)の百済魚文をとい、道後に入浴し『寝ころんで蝶とまらせる外湯哉」と吟じた。樗堂は広島県御手洗島に おいて文化十一年八月二十一日没(一八一四)

庚申庵

河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)の句碑

市役所の前にある。この碑はもと 受刑者の更生の心の糧として碧師に依頼、特に作句されたものである。松山刑務所内庭にあったのだが、市に寄贈され現在位置に置いた。また東方町大蓮寺境内には“山川草木悉有佛性“ の碑がある。碧梧桐は全国俳行脚の途次明治四三年八月三日から十日まで同寺で俳夏行を営んでおり、碧師を慕う地元の人が建立した。

  さくら活けた花屑の中から一枝拾ふ

碧梧桐の句碑

古墳時代

大和朝廷が国家を統一しはじめた四世紀頃から古墳時代が始まり、六世紀半頃までをいう。普通前期、中期、後期に分けられる。この時代には水田も新たに開かれ土地に定住した人々は村落を形成し、村を司(つかさ)どる者は、村主(すくり)以上、稲置(いなぎ)、県主(あがたぬし)、国造(くにのみやつこ)となる村落国家が出来あがった。これらの豪族が死ぬと、それぞれ土を高く盛り墓を造った。内部に遺骸を収める施設を件ない、副葬品のみられるのが普通である。古墳は前方後円墳。円墳。方墳に三大別される。これら墳丘には埴輪(はにわ)円筒列をめぐらし、上表面に葺石とよぶ自然石をおき、まわりに堀が設けられている。内部構造の主体には粘土かく、木炭かくといわれるものや竪穴や横穴石室などがある。埴輪には、円筒埴輪が多く人物や動物を形どった形象埴輪もある。副葬品としては前期には鏡、匂(まが)玉、管玉などの玉類装身品が多く、中期には切子玉、なっめ玉短甲、冑、馬具などが多く、後期には金銅馬具の鞍金具、鈴鏡および環頭など装飾的なものが多い。土器は大陸より伝来した焼方によって作られたねずみ色の須恵器、日本古来の焼方によって作られた茶褐色を した素焼の土師(はじ)器が使われている。稲作に伴う土木技術も発達し、古照遺跡のように巨大な水利事業も行なわれるようになっていた。

人物埴輪(岩子山古墳)

古照(こでら)遺跡

昭和四七年一一月九日・「松山の南江戸町の下水道中央処理場建設現場から、弥生時代の住居が発見されたという」突然の新聞報道は全国民の注目をあぴた。発掘調査の結果は期待されていた埋没住居ではなく、四世紀の巨大なダムと堰材に転用されていた建築用材は切妻造りの高床達物であることが判明した。「古代のこれだけ大がかりな農業土木事業の跡が発掘されたのは初めてで非常に貴重なものである」と折紙がつけられ、我が国古代の農業史・建築史・考古学界に投げかけた問題は、はかり知れないものがあります。

発見の経過

昭和四七年九月、遺構より東方の地下四メートルの所から、流されてきた土器片や木片が大量に発見された。付近に遺跡があると考えた市教育委員会は工事現場のパトロールを一層強化して、掘削工事の進ちょくを待っていた。十一月八日に最終沈澱地の掘削斜面に等間隔にならんでいる直径数センチメートルの木を発見し、九日には写真のような遺構を発掘した。一四日文化庁の調査、その後再三の顧問団会議を開いて調査方法を検討し、七・七ヘクタールに捗って一、七五五本のポーリング調査を行い、数か所に重要な遺構を発見した。

発見当日の遺構

発掘調査の結果

発見された第一の堰は東北からの流水を南北に一三メートルの堰でせきとめ、第二の堰(二四メートル)は第一の堰でせきとめた東からの流れに、東南方向から流れ込む別の流れを、その合流点近くでせき止める役割をしていた。第二次調査の結果さらにその上流に第三の堰五・八メートルが築造されていた。堰の構造は、径約数センチ、長さ約二メートルの自然木の先端を尖らせたものを主に使用して、写真のようにつくっていた。三つの堰に使用されていた材木は、約一、五〇〇本のスギ、ヒノキ、アラカシ、コナラ、クヌギ、アベマキ、エノキなどで、木組の何か所かにはツヅラフジで互の材を縛りつけた所が残っていた。また木組の空間には粘土塊やこぶし大の石をつめ込んだりオギや藁で編んだ、たわら状のものを目つぶしに使って堰の効果をさらに高めていた。

四世紀の高床建物

堰材に転用していた材の中から、四世紀の棟持ち柱式高床建物が復原できた。大社造、神明造りは我が国の神社建築の中で最も古式なものであるが、その祖型は工芸品や絵画でしか求められなかった。古照で初めて建物としての直接的関連資料が発見された。このことは、建築史上きわめて貴重なものである。

堰の横断面実測図棟持ち柱式高床建造物復元図

古照遺構の意義

古照遺跡で発掘された井堰遺構が利用された期間は比較的短期間であったように思われるが、しかしこのような大規模な水利遺構の発見は日本における農業発達史ばかりでなく、古代史一般を考えるにあたって極めて重要な意義をもつものである。今まで発掘された井堰遺構は登呂(弥生時代)や大阪における小規模なものだけである。古照のような大規模な井堰を平地河川に設置できるようになった農業技術の進歩が、沖積平野全面の水田化を可能にしたことは疑いえない。そのことにより水稲生産量が飛躍的に拡大でき、そうした生産量の拡大が古墳社会をつくりあげる経済的基盤になったものと思われる。またそのような水利技術をふまえて条里制地割、水利の施行を可能にし、古代国家の経済的基礎を築いた。こうした歴史的意義をもつ大規模な井堰遺構が松山平野において発見されたことに、もう一つの意義がみいだされる。寡雨な瀬戸内海沿岸は古くから灌漑(かんがい)施設が最も発達したところであり、とくに四国の瀬戸内海沿岸は、満濃池をはじめ高度な施設技術がいまに残っているところである。そうした地域で・・・おそらく大陸における技術とは別な形で・・・灌漑技術が開花していたこ とは、この地方が日本における農業、なかんずく水利技術の先進地域であることを裏付ける有力な証拠になるものと評価されるのであ る。 (この頃「古照」、名古屋大学井関教授論文より抜粋)

木製品

木製品としては、朝美町からねずみ返し、舟形盆、土居窪(湯築小学校)から平鍬、小坂町釜ノロでは未完成品が出土した。四九年に実施した国道バイパス建設工事に伴う事前発掘調査で福音寺の川付川々岸の竹ノ下からは農耕具・日用品・工具などが多数出土して注目されている。写真@のスキはスキ身の身部でナスビの縦断面形で刃部先端にU字形のスキ先を着装するもので、先端をまるくおさめる。刃部中央には刀子(とうす)状の利器で斜めに削り込んだ楕円形の孔がある。これはおそらく耕起土との粘着を柔げる工夫であろう。全長三九.一センチメートル、最大幅一六センチメートル。スキA基部の形状は@と同様に作るが刃部は二股に分岐している。エブリ形農具は機材の板材の下縁を薄く削り出し刃部とし、中央上縁寄りに方形の柄つぱを穿(うが)ち、上縁には帯状の突起を作り出したもので突帯をもつ例は少ない。クワは鉄製の先を着装したもの否かは不明である。全長二八.二センチメートル、最大中一八センチメートル。以上はカシ材。その他細い自然木を利用してつくった丸木弓、横槌、槌ノ子、農具の柄、櫛、容器などが多数出土している。これらの木製品は五世紀頃の遺物で全国的に みても出土例は少い。特に農工具のうちスキについてはU字形のスキ先の着装部を明確に持つものは大阪の四ツ池遺跡に出土例があるにすぎない。これらは古代文化を究明する重要な資料である。

竹ノ下遺跡出土の木製品

古照資料館

 古照遺跡発掘調査による出土品、遺構の実測写真などと、松山市内の出土品を多数展示しているので御覧下さい。 無料 ○ところ 南江戸町の下水道中央処理場内 開館時間 午前九時・・・午後五時 休館日 毎週月曜日・祝日・地方祭・年末・年始・月曜日と祝日が重なる場合はその翌日

古照遺跡【南江戸町4丁目】 ・縄文時代の遺跡。 ・昭和47年(1972)、松山市下水道中央処理場の建設工事中に発見された 4世紀古墳時代の水田農耕用の巨大なダム(堰=しがらみ)と堰材に転用された建築用材の遺構が発見された。・我国古代の農業史、建築史、考古学上たいへん貴重なものとなっている。 ・日本初のPEG(ポリエチレングリコール液)保存処理法が施され、木製品の半永久的な保存が可能となった。

五明牧場

牧場は都心より北東十四キロメートル、高縄山系を背にした標高四〇〇メートルの高原にある。市内酪農家の乳用雌仔牛を理想的環境で、経済的に育成し、種付後妊娠を確認して委託農家に帰し、農家経営規模拡大への助成をしている。緑におおわれた牧場と自然にたわむれる牛の群れ、四季とりどりに変化する自然美は、家族連れのピクニックに最適。バス停留所菅沢から約三十分のコース。牧場の敷地は十六ヘクタール。

横山城跡

北条市大字麓、五明牧場から尾根づたいに五分歩けば横山城跡に出る。これは建武の昔(一三三四頃)河野通武の築いた城で標高約三〇〇メートル、その子孫南氏代々の居城であった。天正十三年(一五八五)小早川隆景に攻められて落城し、落葉に埋れたまま現在に至っている。現状では当時の全容を知ることはむつかしいが、山頂の岩石には大小さまざまな柱穴とおぼしき穴が彫ってあり、近くに城塞の跡と見られるものが各所に点在している。この城跡は戦国時代の城郭としては非常に珍らしい構造であり、城郭を研究する者にとっては誠に貴重な遺跡であり昭和二十八年県指定の史跡となった。

横山城跡

経石(きょうせき)山古墳

 桑原町四丁目四二三の二にある。平地に造られた前方後円の古墳で、西向きに作った典型的な銚子塚である。周辺の土地との比高は前方部の高さ三メートル、後円部の高さ五メートル、東西の全長四八メートル、前方部の巾は二五メートル、後円部の径は二二メートルである。前方部の一番高い所に小祠を建てている。現在、享利元酉歳六月古日と銘記された家内安全の木版が残っており、それには

  妙法蓮華経、如来神力品等二十一 

  為悦衆生故桑原村

  現無量神力経石山

とあるから古くから「経石山」とよびならはしていたものと考えられる。 市の中心部近くにこのような古墳が、完全な姿で残されているということは全国的に稀れで、県指定史跡になっている。もとは写真のように周辺は水田だったが、今では住宅がたてこんで近づく道もわかりにくい。

かっての経石山古墳全景

星の岡古戦場と天山

市東南方にある小丘。南北朝の昔、土居・得能両南朝方の軍勢が北朝方の北条時直と戦った古戦場として名高い。丘に伏見宮筆の表忠碑がある。隣接する天山には神話があり「伊予風土記逸文」にでている。付近には遺跡が多い。

村上霽月(せいげつ)邸

西垣生町(今出 いまず)の垣生小学校前に松林をめぐらした門がまえの霽月邸(光風居)がある。八十数年前正岡子規、夏目漱石、高浜虚子が訪れた庭、座敷がそのままに残っている。 霽月はみずから句境をひらいた天性の俳人で、子規の句友として活躍し、門下と別格に、独自の境地に立って転和吟という新しい俳句のジャンルを作った。名門に生れ明治・大正・昭和の農業界の大立者で昭和四十五年秋その生誕百年祭が催され遺徳を顕彰された。 子規は明治二八年一〇月七日、散策集の最終日に 「霽月の村居に至る宮に隣り松林を負ひて倉戸前いかめしき住居也

  粟の穂に鶏飼ふや一構

  鵙(もず)木に啼けば雀和するや蔵の上

  萩あれて百舌(もず)啼く松の梢かな

庭前の築山に上れば遥かに海を望むべし歌俳諧の話に余念なく午も過ぎて共に散歩せんとて立ち出づ・・・」

付近の三島神社に句碑がある。

  初暦好日三百六十五 霽月

村上霽月(せいげつ)邸

常信寺

祝谷東町にある。東叡山を模して松山城の艮(うしとら=東北の方角)に寺を建て、鬼門の鎮護とした。天台宗の寺である。境内に松平定行とその弟定政の墓や、老中の首席となった定昭の埋髪塔などがある。当初の寺は焼け、現在のものは寛政四年(一七八五)再建されたもの。定行の霊廟の建物は円柱、屋根入母屋造、本瓦葺で、江戸初期の霊廟建築を代表するものである。松平定政の霊廟と共に県指定の史跡である。境内に松や桜が多く紅葉もあり静かな所で散歩を楽しむ人も多い。

  秋の山松欝として常信寺   子規

子規は右の句と同じ明治二八年作の散策集に、祝谷の鷺谷基地で、しる人の墓を尋ねけるに四五年の月日は北の山墳墓を増してつひに見あたらず

  花芒墓いづれとも見定めず  子規

と記している。 子規は祖母にあたる方の墓をたずねたがわからなかった。

あみだすカレンダー
伊予路の文化  表紙  能衣裳  説明
白朱子 地椿 樹万字 繋文様 縫箔
しろじゆす じつばき ぎまんじ つなぎもよう ぬいはく 桃山時代後期
旧松山藩主久松家の所蔵で、明治維新の際に東雲神社に寄進されたものである。
東雲神社には桃山時代から江戸時代中期過ぎの能衣裳が110点蔵されている。
他に能面153面、狂言面42面など優れたものが多数にある。愛媛県指定文化財
 「伊予路の文化」 編集・著作・発行 松山市教育委員会 昭和40年初版 48年第8版
松山市教育委員会文化財課 〒790−0003 愛媛県松山市三番町六丁目6−1 第4別館2階 089-948-6603
世界の歴史年表