第十五章 道後八勝十六谷 @義安寺蛍A奥谷黄鳥B円満寺蛙C冠山杜鵑・・・
1)  近世以降各地で「名所八勝」とか「十二名勝」とか観光の見所が特定されてくる。温泉と遍路宿を持つだけに道後にもこの類のものは多い。残念ながら今日残滓すら訪ねることは不可能な場所や雰囲気が殆どである。今回この不思議の国を道案内もなく巡礼することにするが行き倒れするかもしれない。道後の背後の山峡は少なく語呂合わせの感が強い。尚地名や名称については、元道後町長・成川房幸編纂『道後温泉誌』(1926)、二神将著『二神鷺泉と道後湯之町』(2003)を参照した。                                                                                      
◇道後八景 
@義安寺蛍A奥谷黄鳥B円満寺蛙C冠山杜鵑D御手洗水鷄E湯元蜻蛉F古濠水禽G宇佐田雁  
◇道後八勝 
@温泉楼月A霊之石陽炎B振鷺園雪C円満寺蛙D奥谷鶯E鴉渓納涼E冠山郭公G放生池蓮 
◇道後十二景  
@六帝行宮A二神遺址B玉石霊趾C湯築旧跡D鷺谷神井E湯岡古碑F鴉谷聴泉G亀城観月H荒濠叢竹I古寺老桜J山塘夜帰K拓川晩釣 
◇道後十六谷 
@法雲寺谷A柿之木谷B立石谷C本谷D湯月谷E柳谷F奥谷G細見谷H大谷I桜谷J石切場谷K円満寺谷L大堂谷M鴉谷N鷺谷O義安寺谷    
2)奥谷考
 一遍生誕寺(地)である豊国山遍照院宝厳寺は現在は道後湯月町5−4が所在地である。寺伝では斉明天皇勅願、空海入住、のちに天台宗の遍照院となり一遍の弟・仙阿が時宗寺院として開創した。江戸期迄は奥谷派本山又は奥谷道場とも呼ばれた。熊野・本宮大社(念仏賦算神示)、神戸・真光寺(入寂地)と並んで時宗三大聖地とも呼ばれる。時宗奥谷派の名称が示す通り、地元では「奥谷」で通じる場所である。
 道後温泉本館から急坂を上がると遊廓跡を出る。ネオン街を上りきると宝厳寺の山門に至る。境内を突き切ると奥に墓地が広がる。墓地の奥は里山になるが、行き止まりの右手の藪の中に昭和57年に一遍会の新田兼市氏が私費で制作した「金剛の滝」の碑が立っている。戦前には谷川が流れて風情があったが「砂防ダム」の完成とともに荒廃して訪れる人もいなくなった。藪をかけ分けて山頂に出ると兎道が残っており、西方は戦前には祝谷から山越(熟田津)に通じていた。東方は一山越せば石手寺に至るので「古代の道」或いは修験道・遍路道であったかも知れぬ。
 「金剛の滝」の謂われは斉明天皇の朝鮮出兵時行宮を奥谷に定め傍らの飛泉で禊ぎし、洗米の上御神撰として遙か大山祇の大神を拝し戦勝祈願をした。額田王の「熟田津に船乗りせむと月待てば・・・」はこの時の出陣の歌である。      
3)桜谷考
 宝厳寺のある奥谷右手の里山に重要文化財の伊佐爾波神社がありその上方に配水池がある。道後地区への水道供給基地である。南側中腹に元県武道館、 県営テニスコ−ト場、松山ユ−スホテル、一段下がってメルパルク松山、公共学校共済組合にぎたつ会館、市立道後保育園が点在している。伊佐爾波神社を除いて現在の地名は姫塚であるが、戦前は柿ノ木谷であった。桜谷と柿ノ木谷の区別はつかない。  
4)柿ノ木谷考
 桜谷が暗示する「桜+谷」は現存しないが、伊佐爾波神社の両面の急傾斜を眼前にすると谷をイメ−ジすることは可能であり、「十六日桜」で著名な曹洞宗龍穏寺(江戸初期に山越移転)に程近いから山桜が点在していたのかもしれない。
 一方柿ノ木谷(柿が点在していたか)から蜜柑畑を通り抜けて石手寺への小径周辺を「風土記の丘」と呼んでいる。明治四十二年柿ノ木谷約四丁歩を父が遺産相続したが中腹には通称「三好池」という三段余の農業用溜池があり、池畔に茶室を設けて時々家族で利用していた。今にして思うと極めて贅沢な個人所有の保養池であった。池堤の下に広がる平地に道後小学校 (戦時中は国民学校)と青年学校と運動場があり、私も六年間通学した思い出の場所である。入会地でもないので江戸時代に庄屋として開拓した新田と考えているが、戦国時代河野氏が許可したDongo 耶蘇会の跡地かもしれない。 
5)義安寺谷(戒能谷)考
  明治三七年(1904)版「松山道後案内」大正一五年(1926)版「道後温泉誌」では義安寺谷でなく戒能谷と記載されている。
平時春(詳細不明)作「戒能谷蛍」を紹介する。残念ながら今日では漢詩に読み込まれた風雅な情景は全く残っておらず曹洞宗護国山義安寺の周辺には近代的なホテルが数軒建っている。   
渓流一帯柳堤前 転逐飛蛍度暮天
隔岸飄々掛幽竹 入林細々点寒烟
義安寺裏金如布 伊弉庭辺珠似聯
縦令能堪当灯火 衰来更懶照書編 
 義安寺は天文八年(1539)河野彦四郎義安が建立し天文一三年(1544)河野家断絶の時一族郎党がこの寺に会して二君に仕えぬことと誓ったと伝える。寺前の清流には戦前大きい源氏蛍が飛びかい、義安寺蛍とも戒能蛍とも呼ばれた。子供心には河野一族の恨みの灯ではないかと思っていた。義安寺は当家の菩提寺であり墓所は本堂脇にあるが、旦那寺は十六日桜の天臨山竜穏寺で義安寺は竜穏寺の末寺に当たる。庫裏から「誓いの泉」を通り墓地内の急坂を登ると河野義安の墓があり、中世には谷川が流れていたと思えないこともないのだが・・・寺の後方に先述の柿木谷が位置する。養老の昔柿本人麿が道後に来泉時に庵室を営んで養生したとの伝承が残っている。柿木の縁であろうか。里山も川も東に向うと熊野山石手寺に至る。(続く) 
6)鴉谷考
 鴉渓(鴉谷)は道後十六谷ではもっとも著名な景勝地であった。道後川が義安寺を越えると御手洗川となるが現在の「天皇の宿」ふなや庭園、旧成川邸、ホテル白山荘周辺に当たる。天保期松山藩士大高坂舎人(号天山)が「五清浄室」なる亭を営なみ自ら楽しんだ由である。寛政七年に道後を訪れた小林一茶が「寝ころんで蝶泊らせる外湯かな」と詠んだが、一茶もこの勝地で湯上がりの長閑さを楽しんだ。              
 明治十七年には、二十余の亭と五、六の割烹店が立ち並び、安芸宮島の茶屋に因んで「新紅葉」と呼ばれ「花月楼」が有名であった。伊佐爾波神社の宮司は烏谷家であるが、伊佐爾波神社のある御仮屋山の南麓一帯は烏の棲であったかもしれない。
7)湯月谷考
 湯月谷は伊佐爾波神社(御仮屋山)の北麓の谷で、奥谷の下流域であり、一遍生誕寺・宝厳寺寺域一帯である。戦前繁盛した遊廓松ケ枝町(現ネオン街)辺りである。今日でも道後温泉の本館から宝厳寺まで自転車で漕ぐには急坂過ぎるので、湯月谷の落差を体感できる。奥谷・湯月谷を流れた急流は御手洗川で鴉谷の清流と合流し道後村の田畑を潤して「熟田津」へ抜けて行った。湯月の語源が「湯付き」であれば近くに温泉が湧出していたことになるのだが史料としては残っていない。     
8)鷺谷考
 白鷺は道後温泉の象徴である。宝永七年1710編纂の「予陽郡郷俚諺集」に「古此湯少し湧出して并辟(ヘイヘキ) たり、鷺の足かたは(片輪)なるが、常々来たりて足を浸す、幾程となく平癒したり、故に此所を鷺谷と云、」と記載されている。(注)并辟⇒サンズイ偏あり。
 白鷺伝説は山形・湯田川温泉、佐賀・武雄温泉にもあるが、今日でも道後に残された川で白鷺が餌を啄む姿や夕暮れに拙宅の母屋の屋根で憩う姿を眺めると「さもあらん」と納得する。伝承を記念して鷺石が道後温泉駅前の放生園に存在する。
 鷺谷は道後温泉本館の山手、鳥越山鷺谷寺(後の大禅寺)跡周辺であり、寺域である共同墓地は松山藩下級武士層の墓地が多く、秋山真之家の墓地も現存する。裏山には昭和30年頃まで遊廓・松ケ町の遊女達の専門病院があった。病死した遊女の墓は今日確認すらできない。哀しい「鷺女」の物語である。子規は明治25年「鷺谷に一本淋し枯尾花」と詠んでいる。
 今日では近代的なホテルや保養所が立ち並び、古の谷間の印象は全くないが、鷺谷から里山を上ると 瀬戸風峠(温泉郡・風早郡境)から石手寺への道が通じ、峠を越すと伊台(湯台)、湯山(現奥道後)の古代の温泉道が繋がっている。霊験あらたかな熟田津の温湯が鷺谷で湧出しており、近くの杣人が偶然発見し暫し憩ったのであろうか。
9)円満寺谷考
 谷の宝厳寺から戦前華やかだった遊廓(松ケ枝町、現在のネオン街)のあった上人坂を下って道後温泉の本館に向かっていくと円満寺が右手に見える。周辺は高度成長期までは遍路宿が多く風情があったが、現在営業中の旅館は少なく昼夜ともに閑散としている。この界隈を窓口一本の「遍路宿チェ−ン」 にして老若男女、外人遍路客を迎え入れてはと商店 会の幹部には提言しているのだが・・・ 
 大悲院円満寺の奥は里山が迫っており、一書には宝厳寺の別院と書かれているが現在は浄土宗の尼寺である。境内に僧行基が道後温泉に立ち寄った際に楠の大木に彫った高さ三・六七米の大地蔵を祭っている。延命地蔵、湯地蔵などなどと呼ばれている。残念ながら谷のイメ−ジは湧かない。
(注)平成16年10月14日、円満寺裏山のミカン畑の所有者から「円満寺谷」と類推できる谷あいが残っている旨連絡がありました。併せて「円満寺谷」と鷺谷の間にもうひとつ谷あいがあるとの指摘がありました。後日現地調査をして存在を確かめることにします。貴重な情報有難うございました。
10)法雲寺谷考
 法雲寺谷の所在は不明であるが、宝厳寺の参道沿いに江戸初期までは塔頭が左右六房あり、筆頭塔頭の名称が法雲寺である。左右の谷は法師谷、尼谷とも呼ばれていたので、現在の元遊廓朝日楼(夢之屋)周辺ではあるまいか。小道を挟んで崖が迫っており現地に立つと法雲寺谷のイメージを描くことが出来る。     
 塔頭十二房跡を発掘すれば奥谷派宝厳寺の遺跡、宝物が多数発掘出来ると考えるが、やがてマンションで土地や空間が埋まってしまい、その奥にひっそりと宝厳寺は呼吸することになろう。  
11)その他七谷考
 道後十六谷中九谷【@法雲寺谷A柿之木谷D湯月谷F奥谷I桜谷K円満寺M鴉谷N鷺谷O義安寺谷】 を見て回ったが、残りの七谷【B立石谷C本谷E柳谷G細見谷H大谷J石切場谷L大堂谷】は目下特定できない。不明の七谷の所在地の「発見」に注力する間「道後八勝」に話題を移したい。
【追記】日本地名研究所長谷川研一氏によれば、地名にある「滝」は多くの場合、水の落ちる滝とは関係がない。タキはタケ(岳)であり、崖に通じる意味である。1982年の長崎洪水で鉄砲水が出た長崎市鳴滝(ナル=傾斜、タキ=崖)も同様と云う。残りの七滝jは、崖と解釈すると探索しやすくなるかと思う。
(追記)不明の谷の一部(石切場谷・本谷)判明 (2007.10.19) 【地誌付 温泉郡地図に記載あり】
@宝厳寺の北方の山が「石切場山」→「石切場谷」
A宝厳寺の東方奥の山が「本谷山」→「本谷」
B義安寺の北東方の山が「義安寺山」→「義安寺谷」
12)◇道後八勝考  @温泉楼月A霊之石陽炎B振鷺園雪C円満寺蛙D奥谷鶯E鴉渓納涼E冠山郭公G放生池蓮 
 @【温泉楼月】は道後温泉の象徴として今日でも溌剌とした生命を保っている。現在の温泉本館は明治二十七年に竣工し重要文化財の指定を受けている。「温泉楼」は宮崎駿監督作品「千と千尋の神隠し」の舞台となった旅館のモデルでもある。浴衣着て振鷺閣を仰ぎ名月を眺めれば文人でなくとも一句ひねりたくなる風情がある。  
 A【霊之石陽炎】は、伊予風土記に拠れば少彦名命が温湯に浴して蘇生し傍らの石を踏んで立ち上がった際の足痕という伝承に基づいている。温泉本館北脇に置かれているが観光客は石に気付かず素通りしていく。神代からの温泉場としては「仏足石」ならぬ「神足石」を大切に守りたいものだ。陽炎のゆらぐ季節、湯上りに霊之石近くで佇む芸者の艶姿が目に浮かぶ.。
 B【振鷺園雪】は明治期の絵葉書には道後名所として紹介されている。温泉本館東の丘(温泉寺であ円満寺の西方で温泉本館の真向かいにある旧八重垣旅館〈現在は駐車場〉の裏山)に庭園があり振鷺園と呼ばれた。この小公園は明治二十五年浴場改築を機に設けられ、ここに温泉碑や湯釜薬師や金比羅神社を配置し入浴客の散策コースとした。
 温泉碑は宝暦年中に松山藩主松平定喬が選び明治十九年に久松勝成が石に刻んで建立した。碑文は服部南郭により古事記、万葉集に記載された道後温泉の古代からの記述を長文の漢文で纏めている。湯釜薬師は伝承では天平勝宝元年に僧行基が作り、正応元年河野通有が一遍上人に「南無阿弥陀仏」の六字を宝珠型の蓋に書かしたという曰く付きの県文化財である。碑文、湯釜薬師は道後公園内に在る。      
 元々道後は南国であり現在では積雪を見ることは 極めて少ないが、昭和十年代には小学校の校庭で雪合戦が出来るほどに雪が降り積もったこともある。道後温泉本館の威容(現在重要文化財指定)と温泉の湯気、振鷺園一帯の雪景色、そしてどてら姿の入浴客・・・温暖化した今日想像も出来ないが、草津温泉か四万温泉の風情である。松山出身の俳人中村草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」を実感して頂けるだろうか。  
 C【円満寺蛙】は道後温泉と宝厳寺の中間に在る。 明治時代道後湯之町には二神鷺泉(忠三郎)なる 芭蕉以来の伝統的俳句を継承した俳人がいた。鷺泉の「道後十景」が残っており、「円満寺蛙」には「蛙鳴く地蔵が谷の小池かな」の句が付されている。 この句を通して円満寺谷は地蔵ケ谷とも呼ばれていたことが分かる。
本尊地蔵は定朝作とも行基の作とも云われるが定かなことは分からない、座像地蔵尊は長け一丈二尺余りで木造である。この古池に松山藩の松平隠岐守定長が山城の井手の蛙を放った。寺の奥は山が迫っており、広くはない寺域の小池で、芭蕉の「古池や」を念頭に置いた句ではあろうが、この蛙は飛び込むこともなく夕暮れに人恋しく相呼応して鳴いたのであろう。
 境内には宝暦五年(1755) 二月に伊予に於ける美濃派の俳人牛洞狂平が師と仰ぐ各務支考の二十五回忌に当たり全国的にも珍しい仮名文の碑を建立している。宝厳寺と同様に円満寺でも度々連歌や句会が開催された記録が残っている。
 墓地には道後の人達の記憶に殆どないのだが、明王院金子家の代々の墓があった。『松山俚人談』によると、元禄から明治維新までは新居郡金子城主金子備後守の末裔である明王院(修験道場)金子氏が温泉の鍵を預っていた。道後村庄屋三好家と金子家は系図では姻戚関係にある。     
 D奥谷【宝厳寺鶯】では、俳人二神鷺泉が「奥谷や鳥の経読む遊行寺」の句を残している。春まだ寒く 暗い奥山の宝厳寺は早朝の読経から一日が始まる。 読経に共鳴するかの様にホ・ホケキョウの鳴き声が山中に響く。
遍路か遊行僧か、早立ちの旅人の耳元に鶯の声が何時までも聞こえてくる。法華経、阿弥 陀経が渾然一体なった仏教的世界が広がっている。道後は詩歌の町であり「生死」の町でもある。戦前は山門から瀬戸内海が一望できる名所でもあった。
 E【鴉渓納涼】は現在のふなや旅館一帯と云えよう。道後温泉駅前の「放生園」が一昔前の「放生池」であり鴉渓を通って道後川が流れ込み、右折して現在のハイカラ通り(商店街)を通り、現在の「熟田津 の道」に沿って樋又に流れている。
「放生園」を少し上がった所に伊佐爾波神社の鳥居が建っており、伊佐爾波神社の宮司は烏谷家である。鴉と烏命名の後先は別として、鴉渓(烏谷)は道後十六谷中もっとも有名な景勝地であった。湯上りの納涼は格別であり、近くの義安寺蛍を見にそぞろ歩きをして楽しんだのだろうか。           
記録では天保年中に松山藩士大高坂舎人(号天山)が亭(五清浄室)を造ったが没後荒廃した。明治十七年に二十余の亭を設け「花月楼」ほか五、六の割烹店が列を並べた。安芸の宮島の紅葉の茶店に倣って「新紅葉」とも呼ばれた。      (続く)