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郷土の先駆者 岡田十五郎翁 伝記 古三津土地改良区 編
岡田十五郎翁は寛政二年古三津村に生まれ安政元年に没した。享年六十三才であった。
翁は文政年間に久万の台新池の築造のため挺身して農業の振興を図りよって村民を困窮の底から救出し
繁栄に導いた郷土の先覚者である。
その広徳は夙に村民のひとしく敬仰するところとなり明治三十一年には頌徳碑を建設して翁の大徳に感謝の誠を表し
次いで大正十年には築堤百周年を記念して盛大な祭典を挙行併せて翁の伝記を編集してその功績を今日に伝えた。
時代の進運とともに農業は今や昔日の面影を失ったが私財を投じて工事を完成し一村の窮状を救った
翁の崇高な公共心は不滅の光を万世に放つであろう。
築堤百七十周年に当たり翁の功績に思いを馳せ翁が身をもって示された教えを後世に語り継ぐため
三津土地改良区役員一同相諮ってここに社を建立し謹んで奉祀するものである。
平成四年十月吉日
近藤 昇吉 書
おことわり
本書は原文を忠実に転写しましたが当用漢字、年数等一部現代風に修正しております。
原文作成者小学校長土屋繁嘉氏並びに関係者に敬意を表しますと共に資料提供を頂き厚く感謝します。
平成三年九月吉日
三津土地改良区 理事長 乗松 敏男
西高校横の新池
今はゴルフの練習場としても使われている
大明神の久枝神社横の
岡田十五郎神社側面
三津土地改良区役員一同
相諮って建立した社殿
末裔 5代目故福田善次郎と
6代目福田順一寄贈のベンチ
緒言
今日鬱蒼たる松樹洋々たる池水に倒影するの美観に触れ、
且つ灌漑至便なる久万の台新池を見て誰かその恩恵の偉大なるを感謝せん者が有ろうか、
日やけ村の古三津を日やけ知らずの古三津と化し衰頽に傾く農村から救済した偉人は実に岡田十五郎氏である。
大正十年は氏が久万の台新池築造後百年に相当するというので、村長岡田徳蔵氏村民と謀り天長節の佳日を卜して
菩提寺儀光寺に建設してあった頌徳記念碑を久万の台新池堤に移転し、
且つ百年祭の祭典を挙行した。来賓人温泉郡長倉根是翼殿及び遺族福田氏等の臨席があって盛大であった。
其の節郡長斯かる偉人の記録に見るべきもの、なきを遺憾とせられ私に調査編集の事を託された。
不尚幸に本村に職を奉ずるの故を以って偉大なる功労者の事跡調査の任に当たるを得たる光栄を思い本村の長老立石勇蔵
(天保五年七月三十日生当時八十八歳で岡田十五郎氏とは面談をしたることのある人、
明治三十一年頌徳記念碑建設の際の世話人の一人)、立川徳五郎(嘉永元年九月八日生、当時七十四歳)、
乗松和太郎(嘉永四年五月五日生当時七十一歳以前戸長をしていた人)の三氏遺族福田氏、
菩提寺儀光寺住職増田晴城氏等の資料提供の賜により茲に略歴を編纂し偉人を追慕し其の功績を表彰し永劫に伝えたいと思う。
茲に資料を提供してくださった諸士の好意を深く感謝します。
大正十年十二月二十八日(1921)
古三津尋常高等小学校校長 土屋繁嘉
岡田十五郎神社縁起 末裔 寄贈の灯篭2基
背面からの岡田十五郎神社 世話人代表乗松敏男氏
寄贈の玉垣が見える
岡田十五郎氏略歴 現代文はこちら

岡田十五郎氏父を利衛(文化十二年(1815)九月十一日六十八才で死去) 

母をおしげ(文化四年(1807)三月二十七日四十五才で死亡)といふ。

寛政2年古三津に呱々の声をあげた。年三十才で選ばれて組頭となる。

当時本村は百数十町歩の耕地に對して僅かに長谷池綛池の二養水池(慶長年間加藤嘉明の築造したものと傳う)あるのみで

毎年田植時期には忽ち養水の不足を来し

為に収穫高全部を上納するも尚不足を告げ村の負債年と共に増加するばかりで村民の窮状筆舌に盡くし得ぬ次第であった。

村民は農業を専業としては生活の安定を期するに由なく副業として塩小売商(俗に一荷篭商ひ)を兼営するものが多い。

現今この村に行商人の多いのも茲に起因するものであらふ。

十五郎氏謂らく現状のまま推移せんか本村は遂に衰亡の悲運い陥らねばならん。

唯此の難関を救済するは養水池を築造し潅漑を便にするの一途あるのみと村民に築池の急務を力説した。

村民養水池築造は願ふ所なるも此の負債に加うるに築造の経費を以てしたら何に依って之を償却する事が出来様か

却て村の滅亡を促進するものであるとして衆議之の企てに反した。

十五郎氏憤然として衆論を排して築造の計画をなし当時三千五百石菅五郎左衛門(十五郎氏の姉邦姫様の乳母)に懇願し聴許された。

普請奉行大川渡の指揮に従い直ちに着手した。

文政午年から申年まで3年間春毎に旧和気郡二十三ヶ村の百姓加勢役として来る。

當村に於いても年齢十四才以上は男女の論なく亀の甲(7、8貫目くらいの石の周囲に24、5本の綱をつけて地を突きかたむ)

十六組(凡四百人)外に時々千人雇ひて一日に千人の人夫を使役す。一人役として玄米7合半宛夫食(賃銭)として支給された。

之が為工事は老若男女を問わず家に座食するもの無き故各戸の生計は豊かになった。

3年の後池堤の基部幅二五間高さ五間上部幅五間長さ約百間の大池堤も遂に竣成した。

村民ゆうことには「池は出来たが四年目の春をどうしてぬけようか」と。

村民は此の工事が一方に於いて如何に生活を容易なものならしめたかは想像するに難くない。

 さて池は出来上がったがこれに満たす養水の水源地なく村の負債は千表以上となった。

村民の不平の声四方に起こった。さしも剛謄なる十五郎氏も苦心惨憺粉骨砕身研究した。

しかし力及ばず百方計つきて久枝村久万の氏神三島神社に七日間断食の祈願をかく。顔色消衰恰も病者の様であった。

一夜神殿に霊夢を見る。「明朝未明山越亀の甲泉から鷹飛び来たり止まりたる所に水門を開けよ」と覺めて欣喜措くところを知らず。

翌朝未明天を凝視すれば果して一羽の鷹飛び来たり綛池の東北隅の丘上に止まる。直ちに水門の開鑿工事を起こした。

岩石突起せる所とて約百間の間を深さ一丈五尺の掘り下げは實は容易な業でない。謂所岩片一升米一升と量り換えの有様であった。

十五郎氏私財を投じてこれを完成した。茲に於て水は滔滔として流れ込み忽にして池水洋々たる様を呈した。

菅家老十五郎氏の功を賞し萬一亀の甲泉の水量にて不足することあれば寺井の水(石手岩堰からくる水路)を引くも差し支えなしと。

而して當村の負債は横山代官に命じて郡流として全部免除された。茲に於て村の負債は免除となり如何なる旱魃も意とするに足らず、

生活状態も楽となった。先の不平の声も歓呼の声に変わった。その功績を賞せない者はない。

安政元年七月十四日(今を去る六十七年前)を以っ溘焉として逝去した。

享年六十三才。村民哀歎措せぬものは無かったといふ。 

明治三十一年本村有志相謀って賞徳記念碑を儀光寺に建設した。

後大正十年新池築造百年に當るといふので天長節の佳日に記念碑を久万臺新池池堤に移転した。

永遠に恩人の功を表彰し且つは其の恩に報ゆる為に。
7代目勝岡昭寄贈 8代目勝岡眞寄贈
亀の甲泉跡も今は渡辺泌尿器科・内科の駐車場 亀の甲泉の石碑
備考(一) 岡田十五郎氏家系

岡田十五郎氏の秘蔵していた過去帳に依るに、

大永(1521)元和(1615)寛永(1623)元禄(1688)、正徳(1711)享保(1716)明和(1764)

天明(1780)寛政(1789)享和(1801)文化(1803)・・・

と年代順に祖先の記録あり、大永年間は室町(足利)戦国時代で今から約四百八十二年前の昔である。

(2003年現在)この様に昔から歴然と続いているのは家系としても珍しい。

注 この過去帳は私の祖母「はる」に受け継がれたと聞いているが残念ながら第二次世界大戦の戦災で消失した。

参考世界の歴史年表西暦&年号比較表
岡田利衛(母しげ) 十五郎
岡田十五郎 十太郎(不明)

九郎次(九歳にて死去)

森太郎(二歳にて死去)

福太郎(七歳にて死去)

松山藩医師「玄碩」(東中島にて医を業となす、子なし)

おしん(梶原家・松山藩馬廻り役・に嫁す)
梶原おしん 梶原宗次郎(福田家に養子)
福田宗次郎 亀太郎 (東中島)十五郎氏位牌祭主

秀太郎(新浜村)十五郎氏秘蔵の過去帳並びに観世音の木像を祭る
福田亀太郎 正一(サンフランシスコにて死去)

善次郎(平成7年84歳にて死去)
福田秀太郎 はる(文化帯の実用新案特許発明者)(「はる」は私の祖母
(二) 十五郎氏秘蔵の観世音

 高さ約5寸(15cm)幅約三寸(9cm)余の木像 木像の裏面に○宝七年 深寿福  霜月吉日 敬白 と墨書してあるが

文字不明瞭で殊に一字は分からない。

像を入れてある箱は表面は黒塗りの観音開きの扉で内面は金箔であるが剥げている。然し金色は非常に美しい。

福田氏の言に依れば祖先から聖徳太子様の御作だとの言い伝えだそうだ。○宝七年を延宝七年(1680)とすれば今から三百十年前である。

敬白とあるから其の年に彫んだものか又はそれ以前の作かは疑問である。

(三) 亀の甲石

 十五郎氏の用いた亀の甲石十六個の内一個は現存している。

(四) 新池築堤法大要

 基底二十五間(約25m)、上部五間(約9m)、高さ五間(約9m)(高さ一間(約1.8m)増すごとに

両端から二間(約3.6m)ずつよせて仕上げた)

えんぽう【延宝】(エンホウとも)[隋書音楽志]江戸前期、霊元天皇朝の年号。(1673.9.21~1681.9.29)

(五)十五郎夫妻の墓と法名(儀光寺の翁の墓の後ろにある)  躰學如雲居士  躰譽妙寿大姉
松山市が建立した
十五郎翁の墓
松山市古三津儀光寺
左画面 翁の墓 背面にある
翁夫妻の古い墓
寛永7年 (1630) 寅 壬 7月14日
約400年前 (今の暦で8月7日)
躰學如雲居士  躰譽妙寿大姉
祖母 85歳のとき
高知市播磨屋橋(はりまやばし)にて
左 親戚の 松子叔母さん 母 竹代
松山市 道後公園にて 
新居浜で没 90歳 春光妙融大姉 高知で没 55歳 慈恩妙芳大姉
祖母は松山藩の武士 梶原家 (馬回衆)の孫 奇しくも NHK放送記念日 没
昭和35年頃 高知  表彰を受けた日 
自分でカラー現像 一般にはナシ 為 死に目に会えず
岡田十五郎 五代目 「はる」 私の祖母 岡田十五郎 六代目 「竹代」 私の母
明治8(1875) 乙亥 生 明治41(1908) 戊申 10月10日 生
昭和40(1965)年2月2日没 昭和38(1963)年3月22日没
祖母は松山藩の武士 梶原家の孫 松山 道後公園にて
戦後に建てたバラック住宅にて 左から (長崎在住)美人の徳子
左から福田 とみ 祖母 はる 福田 初子 母 竹代 文子(文子の子) 初子 松子 
福田 初子は 宇和島藩 伊達家の末裔  オンナ手一つで私を育ててくれた 母 竹代
昭ちゃんアキちゃんとかわいがってくれた 松山 道後公園にて
大好きだった美人の初子ネエさん 左から 徳子(長崎在住) 姉 文子(文子の子
お抹茶の先生(裏千家
福田 初子は宇和島藩 伊達家の末裔 以上 敬称 略させて頂きました
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