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天平年間(729−716)伊予灘の孤島由利島に儀光上人が |
行基菩薩御作の十一面観音像を背負い来って一草庵を結んだのが開基と伝わる。 |
弘安年間(1278−1288)地震津波の天災に遭遇、島民は観音様の導きにより島を離れ、 |
当古三津に寺を再建し人々は苅屋(神田町、住吉町)新苅屋(高浜)に住んだ。 |
この間の事情は「由利千軒ゆり込んだ」と今に語り継がれている言葉からも伺い知る事が出来る。 |
以来七百年、香華灯明が絶えない。現在、本尊十一面観音像の背後に身の丈五寸の |
小さな観音像千躰が祀られている。 |
これは貞享年間に京都三十三間堂の千躰観音を勧請したもの。 |
この他本堂には焔魔像をはじめ多数の諸仏菩薩が祀られ、 |
境内には安産と子供の健康の祈りが込められた子育て大師(身の丈5m)が建ち人々の信仰を集めている。 |
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岡田十五郎翁(1790−1854)は寛政2年古三津村に生まれ安政元年に没した。享年六十三歳。 |
文政年間、用水不足に苦しむ村の窮状を救うため新池築造の必要性を力説。 |
藩を動かし人々の加勢を得て新池築造に挺身された。 |
この間三年。 |
遂に久万の台の地(現 松山西校西)に大池堤を竣工した。 |
しかし、池は出来たがこれを満たす養水の水源地がなく、村民の不平四方に広がった。 |
翁も百方計つきて久枝村の三島神社に七日間の断食祈願をかけた。 |
その結果「明朝未明山越え亀の甲から鷹飛び来たり止まり足るところに水門を開けよ」との霊夢を得る。 |
ただちに水門の掘削工事に着工。 |
私財を投げうち、艱難辛苦の末に遂に完成。水は溜々として流れ込み忽ちにして池は満々の様を呈した。 |
以来農業の振興成り、村民の生活は豊かになった。 |
村の窮状を救った翁の功績は今に語り継がれ、崇高な公共心は不滅の光を放っている。 |
平成四年四月盆月 三津土地改良区 記之 |