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岡田十五郎翁
筆 二神 一舟(いっしゅう) : 現住職のご尊父 
昭和18年5月2日古三津儀光寺に於いて、松山市三津浜普通水利組合主催で郷土の先覚者岡田十五郎翁墓塔除幕式と、
その百年忌法要を巌修、頗る盛大であった。 
翁は今から約百五十年前、寛政二年に古三津に生まれる。
三十歳のとき村の組頭なってその自治に参与した。
性豪遇、実行力に富んでいた。当時古三津村は百数十町歩の耕地を有し、戸数二百戸に足らざる一小村であったが、灌漑の便を欠いでいた。
長谷池綛池の二養水池のみでは到底充分に生産を挙げる事が出来なかった。
時に田植えの水に不足し、その全収穫を上納するも尚不足すると云った窮状であり、村民は之が為に小売商〜俗にいう〜荷籠商いを副業としていた。
その侭で推移すれば結局村は衰え村民は離散の外はなかった。
茲に於いて、岡田翁は、如何にもして此の悲境を打開し、村民をして永遠に安堵せしめんと決意した。
それには是非共この百数十町歩の田をして充分に収穫ある様に、その灌漑を便にするが急務であると考えた。
早速、この事を村民に計ったのであるが、此の案たるや、昨日今日の話し合いではなく、村民の中にも既に早くから云われていることでありながら、
年々の負債の上に甚大な築造経費を考えるときに、それは一層窮乏の淵に陥ることであり、
岡田翁の熱論にも係らず村民の関心は余りにも冷ややかで、寧ろ現状に甘んずるをもって賢明なりとした。
然し、岡田翁の持前の豪気と、その憂村の至情はやがてそうした衆論を圧倒し、
敢然として自ら起きて養水池築造の計画を立て時の家老菅五郎左衛門に懇願、
それを許されて普請奉行大川渡の指揮によって、遂にこれに着手することが出来ることになったのである。
その工事は文政五午の年より同七申の年に至る三ヵ年間にわたり、旧和気郡二十三ヶ村の百姓もこれに参加し、
なほ村では十四才以上男女別なくこれに労役、亀の甲(七〜八貫匁位の石の周囲に二十四〜五本の綱をつけて地をつきかたむ)
十六組の外に、時々千人雇ひて一日に千人の人夫を使役し、一人役として玄米7合半宛を夫食 賃銭として支給したといふ。
かくて三年の後には、池堤の基部幅廿五間、高さ五間、上部幅五間、長さ約百間の大養水池を竣成したのであった。
然し、かくして養水池は出来たものの、これに注ぎ満たす水源を得ず、一面この事業の為に村の負債は忽ち千俵余りにものぼり、
その竣成の喜びは束の間、村全村民の不平はやがて四方に挙がった。
さしも豪気の十五郎翁も、冷静に冷静にと種々研究はして見たが、終にはその力及ばず、百計つきて、この上は只神仏の御加護を仰ぐの外はないと、
さうして密かに、久万の氏神三島神社に七日間の断食の祈願をかけたのであった。
その前後の岡田翁の顔色の消衰、その形容枯稿恰も病者の如きものがあった。
ところがその満願なる七日目の暁に方つて遂に神明の示顕あり「善哉々々そちの労は千載の効を招く、やがて夜明けの頃合い、
山越亀の甲泉から一羽の鷹飛び来るべし、その下り止まりたるところこそ水門を開くべき所なり」とかくて霊夢は覚めた。
その岡田翁の喜び曰はん方なく直ちに出でて東天に合唱、これを凝視していると果たして一羽の鷹飛び来たって綛池の東北隅の丘の上に止まった。
翁は早やる心を押し静めつ、これに近づいてみると、意外にも、そこは岩石突起して甚だしく工事の困難なところであった。
少なくも之れが掘り下げ工事には莫大な費用を要することは明らかであった。
ハタと困惑した翁は、之を若し村民に計ればさらだな負債に苦しんでいることで反対されるは必定、
そこで翁の一大責任感は結局自己の全私財をこれに投ずるのほか道なしとこれを決意、直ちにその工事に着手したのである。
かくて着手して見ると案の定予想以上のそれは難工事で、岩片一升米一升と量り換へる程であった。
村民はそのらちの明かぬ工事を見ては秘かにこれを嘲り、また露骨にこれを蔑視もした。
だが豪遇なる翁の信念は微動もしなかった。その翁の鉄の如き意志のもと、翁が殆ど無一物になった頃やっと、その工事は完成した。
さうして待望の水は滔々とこれに流れ込み、忽焉として池に満々たる養水を溢れるほど湛えた。
家老菅五郎左衛門はその功を賞し若し満一に亀の甲泉の水量で不足することあるならば、寺井の水(石手川岩堰から来る水路)を引くも差し支えなしとの
便宜をこれに與えた。その上に村の負債に就いても横山代官に命じてそれを郡流れとなし、全部これを免除させた。
その菅家老がこれ程までに翁を援助したといふのは、一面翁の姉さんが同家老に仕え松山藩主の正室邦姫様
乳母となって上がっていたからによるものといはれている。
かくて、村の負債は忽ちに解消し、如何なる旱魃もまた意とするに足らざることになり村民は茲に全く安堵の胸を撫でおろし
日々感謝の生活をつづけつつ百年を経過して来たのである。
明治三十一年四月には、その菩提寺儀光寺境内に徳碑建設更に大正十年には、その池畔に之を移し同時に感謝記念の法要を厳修した。
この時臨席した温泉郡長倉根是翼氏は、翁の事蹟の余りにも偉大であり、しかもそれの世に表れざるを慨かれ、当時の校長土屋繁嘉氏に嘱し、
その記録を綴らしめられたのがここに録した梗概のそれである。
今まで伊予の十二景、久万の台に突っ立て、その眼下に欝蒼たる松樹に包まれ、時に夕映えには、伊予の小富士を倒さに写す、
その満々たる池水の景観に心打たれる人は、その大池によって古三津百数十町歩の広き耕地を灌漑、これに旱魃を知らしめぬ、
永劫不滅の岡田十五郎翁の偉大なる農村魂にその頭を垂れざるを得ないであろう。
本年は恰も安政元年七月十四日翁没して九十一年目に当たるが、その池床の旧久枝村所有に属していたのを漸く買収したその翌年に当たり、
其の翁の墓石を菩提寺境内に新たに建設し、併せてその百年忌法要を厳修したので、ここにその感激の事蹟を記述しその翁の遺徳を顕彰する次第である。