古三津・儀光寺に残る「岡田十五郎翁」の記録、「古老」からの聞き伝えにより制作しました。 |
これ以前の系図は戦災で焼失してありません。(記録によれば450年前までの系図があったそうです。大正十年(1921)の記録) |
古三津では「岡田十五郎翁」の徳をたたえ、約150年の昔から毎年8月7日・地元の人たちが集まり慰霊祭を行っている。 |
「岡田利衛」 |
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「岡田十五郎」 |
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岡玄磧 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「おしん」 | 十五郎翁の娘 梶原家に嫁す 伊予史談会叢書「松山藩役禄」より 梶原 平助 馬回役 ・明暦4年(1658)と記録あり (1657 明暦3 水戸の徳川光圀「大日本史」編纂) (明暦 めいれき 1655〜1658 ) 幕末松山藩御役録 御小姓 百五十石 梶原 小源太(サゲンタ) 祖母 はる の話 維新後も丁髷を切らず 侍のシンボル 祖母は膝に抱いて貰った 祖母の口癖 御維新 さえ無ければ 侍の子は人前で 涙を見せない ・・・ その後、梶原家についてはまったく消息不明 |
岡玄磧 十五郎翁の息子 お女中と恋中となり・・・武家御法度・・・6歳年上の姉さん女房 おばに当たる管の婆様のお陰で切腹を免れる 松山藩の医者だったが「岡家」に婿入り 中島で医業を営む・子なし 松山市中島に墓あり 明治35年(1902)壬寅(みずのえとら) 旧2月20日 新暦3月29日 土曜 先負 辛亥(かのとい) 成 行年73才 齢樹義勸居士 妻 イヨ 明治33年(1900)庚子(かのえね) 舊12月13日 新暦明治34年(1901)年2月1日 金曜 赤口 庚戌(かのえいぬ) 納 行年77才 本空自覚大姉 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
「宗次郎」 | 「おしん」の息子 福田家に養子 今は絶えたけれど「福新印刷」で有名な 紙屋町の「福田家」 |
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「秀太郎」 | 「宗次郎」の次男 新浜(今の三津の近く)「白木家」より嫁す? 詳しくは分からない 白木家の消息不明 |
福田亀太郎 「宗次郎」の長男 岡田家の家宝「大黒様」を保管していたが 現在・所在不明 中島「小立(おたち)家」より嫁す | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
「勝岡はる」 | 福田家より嫁す 「秀太郎」の一人娘 岡田家の500年に及ぶ家系図を受け継いで いたはずだが戦災により焼失? |
福田善次郎 「亀太郎」の次男 妻 福田スミエ 亀太郎の長男 正一 サンフランシスコにて花屋を営む 独身のまま病死 遺骨は神戸領事館に (昭の母 竹代 受け取りに神戸へ) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
「勝岡竹代」 | 「はる」の一人娘 | 福田順一 「善次郎」の長男 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
「勝岡昭」 | 「竹代」の一人息子 | 「竹代 はる とみ(戸籍:にろう) 初子(茶道:号 宗初)」 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
勝岡竹代 長男 勝岡 昭 妻 節子→長女 加代子→裕人、統也、敦也 勝岡 昭 妻 節子→長男 眞 |