松山市 古三津 郷土の偉人  伝記 岡田 十五郎翁
古三津・儀光寺に残る「岡田十五郎翁」の記録、「古老」からの聞き伝えにより制作しました。
これ以前の系図は戦災で焼失してありません。(記録によれば450年前までの系図があったそうです。大正十年(1921)の記録)
古三津では「岡田十五郎翁」の徳をたたえ、約150年の昔から毎年8月7日・地元の人たちが集まり慰霊祭を行っている。


岡田十五郎翁の家系図


「岡田利衛」
岡田十五郎翁の父
久枝神社」の「縁起」にある、
この地の豪族岡田氏の末裔
「五三の桐」
「岡田十五郎」
松山市古三津で
「郷土の偉人」と崇められている
岡田十五郎神社」の祭神
松山藩十四代 松山城主 松平 定昭の正室
邦姫様」の乳母で権勢を誇った
菅の婆(ばあ)様 阿梅の方 梅女(うめじょ) 別式女(べつしきめ)?
岡田十五郎翁の姉 阿梅の方 梅女(うめじょ)
家老「菅五郎左衛門」に仕える
新池工事では
家老「菅五郎左衛門」とのパイプ役として影の力になった
邦姫の事
十三代 松山城主 松平 勝善(島津斉宣(なりのぶ)の子)の娘
十四代 松山城主 松平 定昭(藤堂高猷(たかゆき)の子)の正室
松山城
夭逝した十五郎翁の子供たち 十太郎(詳しくは判明せず)
九郎次(九歳にて夭逝)
森太郎(二歳にて夭逝)
福太郎(七歳にて夭逝)
岡玄磧
「おしん」 十五郎翁の娘 梶原家に嫁す

伊予史談会叢書「松山藩役禄」より

梶原 平助 馬回役

・明暦4年(1658)と記録あり
(1657 明暦3 水戸の徳川光圀「大日本史」編纂)
(明暦 めいれき 1655〜1658 )

幕末松山藩御役録

御小姓 百五十石 梶原 小源太(サゲンタ)
祖母 はる の話
維新後も丁髷を切らず 侍のシンボル
祖母は膝に抱いて貰った
祖母の口癖 
御維新 さえ無ければ 
侍の子は人前で
涙を見せない ・・・

その後、梶原家についてはまったく消息不明
岡玄磧 十五郎翁の息子
お女中と恋中となり・・・武家御法度・・・6歳年上の姉さん女房
おばに当たる管の婆様のお陰で切腹を免れる
松山藩の医者だったが「岡家」に婿入り
中島で医業を営む・子なし
松山市中島に墓あり
明治35年(1902)壬寅(みずのえとら)
旧2月20日
新暦3月29日
土曜 先負 辛亥(かのとい)  成
行年73才 齢樹義勸居士
妻 イヨ 明治33年(1900)庚子(かのえね)
舊12月13日
新暦明治34年(1901)年2月1日
金曜 赤口 庚戌(かのえいぬ) 納
行年77才 本空自覚大姉
「宗次郎」 「おしん」の息子
福田家に養子
今は絶えたけれど「福新印刷」で有名な
紙屋町の「福田家」
「秀太郎」 「宗次郎」の次男
新浜(今の三津の近く)「白木家」より嫁す?
詳しくは分からない
白木家の消息不明
福田亀太郎 「宗次郎」の長男
岡田家の家宝「大黒様」を保管していたが
現在・所在不明
中島「小立(おたち)家」より嫁す
「勝岡はる」 福田家より嫁す
「秀太郎」の一人娘
岡田家の500年に及ぶ家系図を受け継いで
いたはずだが戦災により焼失?
福田善次郎 「亀太郎」の次男 妻 福田スミエ
亀太郎の長男 正一 サンフランシスコにて花屋を営む
独身のまま病死 遺骨は神戸領事館に
(昭の母 竹代 受け取りに神戸へ)
「勝岡竹代」 はる」の一人娘 福田順一 「善次郎」の長男
「勝岡昭」 竹代」の一人息子 竹代 はる とみ(戸籍:にろう) 初子(茶道:号 宗初)
勝岡竹代 長男
勝岡 昭 妻 節子→長女 加代子→裕人、統也、敦也
勝岡 昭 妻 節子→長男 眞