仮説 超個人的な話
仮説 むかし話を思いつくままに・・・
明治に入ってから「伊代屋」から「勝岡」に改名したころ、屋号を「備前屋」と称し商いをしていたそうです。勝岡家と「勝岡備前守」との関係ははっきりは判りませんが、どうして「勝岡」と改名し「備前屋」と屋号を付けたのかは今となっては解き明かせません。
明治3年国民挙って苗字を付けられることになり、落語に出てくる笑い話のような命名もあったでしょうが、伊代屋はやっとの思いで勝岡姓を名乗る事が出来る世になりました。越智、長谷川姓を名乗ったものもいました。なぜか判りません。ただこの人達は伊代屋で働いていて、伊代屋の・・・と名乗っていた人達かも知れません。つまり、血はつながって居ないという事です。もし血縁なら必ず勝岡姓を名乗ったと思います。薄墨賢衛住職には申し訳ありませんが。
 勝岡家つまり伊代屋一族の墓は勝岡山の麓、今の西法寺より5〜60メートル位山手にあったそうです。昔の西法寺の近くです。小字で「勝岡」という所がありましたが、その辺りかも知れません。何時の頃か木屋町の景徳寺に移しました。昭和になって正一郎が墓石をまとめて現在のものにしたそうです。有縁の墓石も残っていましたが、景徳寺の駐車場工事で消えました。無縁佛になったようです。南無阿弥陀仏。
 景徳寺の伊藤住職の話では、さる御人が「私が勝岡家の本家です」と名乗り、色々物申して困っているそうです。祖母から聞いていた話では「孤児だった男の子をお寺さんに頼まれて育て、御維新のあと「勝岡」の苗字を付け与えたことがある」そうなので、その御仁かも知れません。世の中、色々あるものです。
 本家のお墓に、叔父伯母がお参りする前にお花が綺麗に生けられている事があったそうです。私どもかと問われた事がありますが、大抵、叔父伯母の後でしたので、誰かお参りしている人がいるらしい。部屋の鍵が忘れられていましたが、そのままでした。世の中、不思議な事があるものです。
 岡田家は古三津の庄屋さんだったとも、士族のはしくれだった、とも色々云われています。古い古い500年も昔からの系図が伝わっていたそうですが、今は全く分かりません。池を造った功績で50石加増されたとも聞きました。伊予の歴史、云いかえれば河野家の歴史書をひもどいて調べていますが、岡田氏の詳細が判りません。久枝神社の縁起には岡田、田房、曾根、河野、松山城主などが尊崇したと記録されているのですが。
久枝神社由緒大要 御祭伸  足仲彦命 譽田別命 息長足姫命 須佐之男命 表筒男命 中筒男命 底筒男命
当社は 以前当村字大明神に住吉神社あり 同字南条に祇園社あり同字東山に岩崎神社ありいづれも河野家 松山城主の尊崇浅からざりしのみならず 曽根氏 田房氏 岡田氏等の名門厚く崇敬ありっしが明治三年郷社厳島神社合杞せり その後明治十二年七月村民の要望によりその筋の許を得て現在地に奉遷し社名を久枝神社と称し奉れり
 姉が松山藩家老「菅五郎佐衛門」に仕え、故久松定武氏の祖母・邦姫の乳母だったのは事実です。お宿下がりで古三津村に帰ったときには村人は土下座し「顔を見たら目がはれる」とばかりに恐れ入っていたそうです。如何に権勢を張っていたか、昔の話ですが想像出来ます。御維新頃まで長命で、大薙刀を欄間には掛けて板間で寝ていたそうです。薙刀の使い手だった事は言うまでもありません。お姫様の警護が仕事でしたから。(別式女?)一生独身で子なし。この故かどうか、親戚に松山藩家老の竹内家に嫁いだ伯母さんは薙刀の名手で、数年前まで東京九段にある靖国神社の奉納式で「形」を取っていました。背丈が高く子供心に怖い伯母さんでした。
 乗松敏男氏の親戚に乗松和太郎と言う人がいて、十五郎翁のことを語り継いでいたそうですが、話に依れば岡田家はかなりの分限者であって上級武士の出入りも多かったそうです。能狂言にも精通していて自家の能楽堂で舞っていたそうです。当時、松山の武家の間で流行していたのは事実です。また、能衣装をかなり所持していたそうですが、東雲神社に奉納もしたそうです。東雲神社宮司問い合わせると、神社の衣装はすべて松平家のものだそうです。いずれが真か分かりません。とにかく結構、派手な生活振りだったようです。
 古三津には岡田姓が多いのですが、蒲生家と共に近江の国から来た岡田氏と十五郎の岡田氏と明治になって付けた岡田氏の三つあるようです。友人の岡田隆雄は近江の商人の末裔と言っています。土地改良区のメンバーや、神社建立のとき玉垣寄贈の方々にも岡田姓の人が大勢います。いずれにしても数ある岡田姓の中には十五郎翁の血を引く人は居ないようです。
 十五郎翁の娘「おしん」が嫁いだ梶原家は松山藩の下級武士だったようです。伊予史談会叢書「松山藩役禄」に梶原姓が一人居て梶原平助馬回役・明暦4年(1658)とあります。江戸末期の梶原家には跡目が亡くなり絶えたそうです。つまり、私の曽曽祖父の兄に子が無く、私の曽曽祖父は養子で福田家に出ていてたため「梶原家」の姓が絶えたわけです。新浜村の「白木家」から養子したけれど早死にしたそうです。しかし、曽祖父にはその「白木家」から嫁が来ています。「白木家」の消息は、三津土地改良区の理事長乗松敏男氏の調査では不明だそうです。
 祖母がよく「世が世であれば」とか「御維新さえなければ」と言っていましたが、今ではその意味が十分には判りません。源平盛衰記にある石橋山の合戦で源頼朝を救い後に頼朝の家来となった梶原平三景時は、源九郎判官義経を諌言した悪人とされているが、祖母はそれを否定し、哀れんでいました。先祖の苗字が同じだから、まさに逆判官びいきでしょうか。歌舞伎を好んだ祖母の思いで話です。
祖母はるの話 御維新で松山藩は旧幕臣に同情的だった土佐藩に占領された。長州の田舎侍が攻めて来るデマが飛び乱暴狼藉を働く恐れがあると云われた。何しろ百姓や町人で出来た部隊ですから(奇兵隊)・・・。然し三津口(関所)で土佐藩の部隊が此れを止めてくれたそうです。福田家勝岡家には美人が多かったそうです。で仲田銀行今の伊予銀行の前身の仲田家(当時の両替商)の蔵に安全?という事でみんなが隠れたそうです。福田家勝岡家にも蔵があった筈ですが?