南朝方 河野家の武将 伊代佐衛門尉
薄墨桜西法寺十五世薄墨賢衛住職に作成して頂いた系図(大正・昭和・平成の一部を追加・改定)平成8年4月
南北朝時代
1336年 - 1392年
伊代の太郎
南朝方の武士「伊代(伊田井)の太郎
伊台に伝わる昔話の「蟹退治」をした人
太郎塚」が今に残っている
「蟹退治」の話は私の子供のころから
勝岡家の口伝として語り継がれている
「勝岡家」の先祖は蟹退治をした豪傑
昔話に語り伝えられている
室町時代
1336年 - 1573年
伊代左衛門尉
河野家18将の一人
河野家流族和気郡衆の武将
伊台・勝岡山の麓の住人
屋敷」という地名が残っている
馬印は「鍵の型
勝岡八幡神社

1429年から1441年
(永享年間)に
松山市太山寺町から
移転したと伝える。
「丸に蔦」
西法寺が戦火に遭い詳しい資料焼失
安土桃山時代
1568年 - 1603年
伊代左衛門
河野家滅亡ののち豊臣家により
伊台の地を安堵され750石で治めている
勝岡備前守?
徳川家により豊臣家滅亡
usuzumi
西法寺が戦火に遭い詳しい資料焼失
江戸時代
初代
伊代屋儀蔵
「薄墨桜」を守り続けた伊代屋一族
徳川家の世となり「伊代屋」を名乗る
文化、文政の頃、
次第に松山の城下に転出
天保14年(1843)、西法寺本堂改築のとき
玉水町「伊代屋儀蔵」多額の寄進
伊代屋一族
長左衛門・新右衛門
平次兵衛・三左衛門
七衛門・茂八・和七
tamagaki
江戸時代
二代目
儀蔵
文久3年(1863)
西法寺薄墨桜玉垣造成の世話人
(玉垣に伊代屋一族の名前が見える)
伊代屋一族
伝蔵・藤蔵・平次平
平助
平助 改め 半助
明治時代
三代目
儀蔵
玉水町、新町(鉄砲町)から木屋町を経て
魚町に住む
伊代屋儀蔵 改め 勝岡儀蔵
伊代屋一族
半助 改め 長谷川 光太郎
平次平 改め 越智 平次平
大正時代
長男 要太郎
次男 寅次郎
三男 茂市郎
要太郎 隠居
三男 茂市郎 家督を継ぐ
昭和時代
勝岡久夫
勝岡竹代
勝岡正一郎
勝岡竹代 虎次郎 長女
平成の御代
勝岡智彦
勝岡昭
勝岡正敏
勝岡竹代 長男
勝岡 昭 妻 節子→長男 眞
勝岡 昭 妻 節子→長女 加代子
長女 加代子 →裕人、統也、敦也