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伊代屋は伊豫の豪族河野家一族勝岡備前守の武将伊代左衛門尉を祖先とする。 |
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河野家滅亡後は屋号を伊代屋と称し伊台にすむ。 |
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その後代々栄え数軒に増える。 |
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江戸時代に松山の城下町に転出した。薄墨桜の玉垣にも伊代屋として記載されている。 |
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明治になり勝岡家、伊台家、越智家、長谷川家等々の名字を名乗り今日に及ぶ。 |
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伊代屋子孫縁者が毎年回向するものとする。 |
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平成七年六月吉日 西法寺第十五世住職 薄墨賢衛 代 (代表 勝岡 昭) |
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(伊代屋先祖代々各霊位位牌 裏書より) |
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位牌堂 |
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薄墨桜の図 |
(左)勝岡城城主、(中)伊代屋一族 |
薄墨桜玉垣 |
本堂の欄間に奉納されている |
(右)歴代西法寺住職の各位牌 |
(左角の石垣 伊代屋儀蔵 銘) |
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西法寺殿前豫州大守道賢秀嶺大居士霊 |
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嘉吉3年9月23日(1443)室町時代 |
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嘉吉の乱に関係しているのでは? |
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昭光院殿故近州守迦亨宰典清晃大居士位 |
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亨録3年3月31日(1530)戦国時代 |
*2 |
河野通篤? 伊予守?九郎? |
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霊常院殿勝岡備前守心一大居士尊位 |
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享保元年6月9日改(1716)江戸時代 |
*3 |
勝岡大権現社に霊常院殿とあるが? |
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嘉吉(かきつ or かきち)の乱*1 |
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嘉吉元年(1441)嘉吉元年6月24日、将軍 足利義教(あしかがよしのり
応永元年〜嘉吉元年 |
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西暦1394-1441)が播磨、美作、備前の守護職赤松満祐の勢力削減を謀ろうとした為、 |
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逆に赤松満祐父子が将軍足利義教を自宅での宴席で、諸将の目の前で将軍を殺害した。 |
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嘉吉元年9月10日、山名持豊、細川持之、河野教通らの幕府軍に攻められ満祐(69)など自殺。 |
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南朝遣裔(なんちょう いえい)の乱 嘉吉3年(1443)*1 |
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嘉吉3年という年と、南朝ということからすると、同年9月23日の日野有光らの乱ではないかと思います。 |
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前の権大納言・日野有光と、後亀山天皇の曾孫・尊秀王が共謀し内裏に侵入して放火、神璽・宝剣を奪って延暦寺に逃げ込みました。 |
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後花園天皇は危うく難を逃れ(伏見天皇の時のように女装で脱出したとの説も)、近衛忠嗣の家に駆け込んでいます。 |
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しかし今更南朝に呼応するものはおらず、翌日天皇が討伐の詔を出すと、26日には延暦寺の衆徒が有光と尊秀王を殺害。 |
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乱は終結しました。 |
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事件に関する追求は極めて厳しく、有光の子の日野資親はじめ50人ほどが斬罪。 |
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連座して多くの者が罪に問われています。 |
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ただこの時期は南朝も弱いですが、北朝や幕府も同様に弱体化していて、 |
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翌年7月にも今度は後村上天皇の孫・円胤が挙兵するなどの騒ぎを起こしています。 |
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なお、日野有光・資親と、日野富子との関係はよく分かりません。 |
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富子の家系に名前が見えないので、同族でも少し遠い親戚なのかも知れません。 |
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PS |
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事件関連で逮捕された人として、日野資親と共に六条河原で処刑された50人以外に |
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後亀山天皇の皇孫・権僧正勧修寺教尊、 相国寺の僧・類蔵主の名前があげられています。 |
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他にも石清水八幡の中にいた人を逮捕したりしたとのことです。 |
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以上の「南朝遣裔の乱」については Lumi さんのご指導で掲載させて頂きました。*1 |
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応仁(おうにん)の乱<文明の乱>*4 |
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応仁元年(1467)―文明9年(1477) *4 8代将軍足利義政の継嗣をめぐる養子義視と実子義尚の争い、 |
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それに斯波、畠山両管領家の争いが絡んで天下を二分する11年の長期にわたる大乱が勃発した。 |
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細川勝元(東軍 足利義視、斯波義敏、畠山政長) VS 山名持豊(西軍 足利義尚、斯波義廉、畠山義就) の激戦。 |
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足利義視は伊勢に逃れる。この後は戦国時代となる。 |
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*1 西法寺殿前豫州大守道賢秀嶺大居士の没年(嘉吉3年9月23日(1443))には、嘉吉の乱は終わっている。 |
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この年は南朝遣裔の乱 嘉吉3年(1443)が起きている。 |
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*2 河野通篤は通春の子、河野教通と河野通春は祖父が兄弟で従兄弟?同士です。 |
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河野教通は惣領職継承者だが河野通春は惣領職継承者に成っていない。 |
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*3 勝岡大権現社は何時頃建てられたのか?誰を祭っているのか?河野通茂ではないかとも言われる。 |
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彼は惣領職を継承していない。 |
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その子通治が惣領職継承者となっている。 |
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父通有は対馬守であり、息子通治も対馬守で通茂には官位はない。 |
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河野九郎通茂は栢谷殿と呼ばれていた。栢谷は伊台にある地名。とすれば・・・???。 |
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享保元年6月9日改とあるが、その意味は・・・西暦1716年は江戸時代で、その頃の領主は? |
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*4 応仁の乱では河野家は二分して参戦した。即ち、河野教通は西軍に、河野通春は東軍に分かれて戦った。 |
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以後、両者の争いは河野家滅亡の悲劇へと発展する。 |
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豊臣秀吉は全国統一のため、命に従わぬ伊予の国を征服しようと小早川隆景、吉川元長らに攻撃を命じた。 |
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河野勢の敗戦につぐ敗戦の末、河野通直は小早川隆景に湯築城を調略され軍門に下る。 |
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兵部少輔伊予守河野四郎通直(幼名 牛福丸)は天正15年7月14日?安芸の国竹原郷長生寺にて逝去と記録されている。 |
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出典河野家文書 (伊予史料集成刊行会 景浦勉編) 河野家譜 築竹山 |
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(伊予史料集成刊行会 景浦勉編) 標準日本歴史年表 |
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(出典 吉川弘文舘) 日本史辞典(旺文社) ほか別出参考資料 |