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南朝方 河野家の武将 伊代佐衛門尉
〜伊田井左衛門太郎から伊代左衛門尉、伊代屋儀蔵、勝岡儀蔵、勝岡一族〜
「予章記」および「河野家譜築山本」によれば、河野通尭(徳王丸六郎通直刑部大輔讃岐守)の家臣に
南朝方の武将で伊代(伊田井?)左衛門太郎と云う名が見える。
「河野の太郎」の塚が西法寺近く(めのと)にあり、地元の言い伝えによれば河野家の武将の墓で、
昔から松岡修一氏(裏山に塚がある)の家では毎年11月28日に家族で供養していると言う。
「河野の太郎」が伊田井(伊代)左衛門太郎のことどうかは分からない。
河野通尭から六代目に当たる河野通直(予州風早郡高縄山城主 温泉郡湯月御在城故 湯築殿と呼ばれていた)の家臣団に
湯築殿直勤之御旗本近習和気郡衆 伊代佐衛門尉の名前が見える。
また、この地方に今も「勝岡」という地名が残っており、勝岡(かつかの)八幡宮がある。
この八幡宮で小千の祭神を八月七日に祭ると「予章記 長福寺本」にある。
「西法寺」に残る御位牌に「勝岡備前守・・・・」という名が見えるが詳細不明。河野家滅亡の後、
豊臣時代に伊台は七〇〇石の領地として「勝岡備前守・・・・」が治めた。
備前守は河野通直又は通茂かと言う説があるが、河野家は代々伊予守を継いでいるのではと思われるが、本当の事は分からない。
「伊代左衛門尉」一族はその後「伊代屋」と名乗り、時代を越えてその子孫は栄えている。
<伊代屋は屋号ではなく名字で屋号は別にあった「備前屋」>
(勝岡、河野、高塚、田村、萩野、越智、長谷川、伊臺 姓など)「勝岡」と名乗る家は全国に約200軒あると言われるが、その関係は不明。
御先祖 伊代屋 儀蔵 の名前が見える
松山市の電話帳にある勝岡昭、勝岡正敏は伊代屋一族で他は不明。
「越智」「長谷川」は多く、どの「越智」「長谷川」かは全く分からない。
高塚、田村、萩野などは一族の娘が嫁した先の名字。
伊臺稔(故人)の先祖に関する記録はない(ご本人の話です)。伊臺と伊代で関わり合いが・・・と薄墨賢衛和尚の話。
伊臺稔(故人)は愛媛師範付属小学校の教諭でした。(私の入学式の記念写真にいらっしゃいます)
故人の口伝では何の関わりもないとの事で子孫かどうか詳細不明(娘が南雲工房 西川隆一に嫁している)。
平成13年秋、南雲工房 西川隆一は新作 薄墨雛(うすずみーびな) を発表し、薄墨桜西法寺に奉納した。
平成14年年賀切手「申」に南雲工房 西川隆一の一刀彫が採用された。めでたし、めでたし。
越智家、長谷川家等々の消息は不明 (伊臺家については確たる資料なし)