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私は 岡田十五郎翁 の七代目になります |
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岡田十五郎神社縁起 |
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岡田十五郎翁は寛政二年古三津村に生まれ 安政元年に没した 享年六十三であった
翁は文政年間に 久万の台新池の築造のため挺身して 農業の振興を図りよって村民を困窮の底から救出し 繁栄に導いた郷土の先駆者である
その公徳は夙に 村民のひとしく敬仰するところとなり 明治三十一年には頌徳碑を建設して翁の大恩に感謝の誠を表し
次いで大正十年には 築堤百周年を記念して盛大な祭典を挙行 併せて翁の伝記を編集して その功績を今日に伝えた
時代の進運とともに 農業は今や昔日の面影を失ったが 私財を投じて工事を完成し 一村の窮状を救った翁の崇高な公共心は 不滅の光を万世に放つであろう
築堤百七十周年に当たり 翁の功業に思いを馳せ 翁が身をもって示された教を後世に語り継ぐため三津土地改良区役員一同相諮ってここに社を建立し謹んで奉祀するものである
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平成四年十月吉日 (1992) |
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近藤 昇吉 書 |
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久枝神社 ヒダエダジンジャ |
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大斎原 おおゆのはら |
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八咫烏について
八咫烏とは、当社の主祭神である家津美御子大神(素盞鳴尊)のお仕えです。日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したという神武東征の故事に習い、導きの神として篤い信仰があります。
八咫烏の「八咫」とは大きく広いという意味です。八咫烏は太陽の化身で三本の足があります。この三本の足はそれぞれ天・地・人をあらわす、といわれています。
天とは天神地祇、すなわち神様のことです。地とは大地のことで我々の住む自然環境を指します。つまり太陽の下に神様と自然と人が血を分けた兄弟であるということを、二千年前に示されていたのです。
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邇芸速日命(にぎはやひのみこと、饒速日命) |
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八咫烏(やたがらす)は、饒速日尊(にぎはやひのみこと)に随行して下った32神の一神 |
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全ての道はここを目指した、日本中の人々が行きたいと憧れた聖地 大斎原 (おおゆのはら) 八 咫 烏 神 社 (やたがらすじんじゃ ) |
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八 咫 烏 ( や た が ら す )と は 神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったという伝説上の大カラスである。
三本足とされる。 |
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久枝神社 久枝神社2 ヒダエダ ジンジャ 久 枝 神 社 と 八 咫 烏 |
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右手奥が我が家のご先祖 |
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岡田十五郎翁を祭る |
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岡田十五郎神社 |
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八 咫 烏 (やたがらす) は誰なの?その正体とは? |
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ヤ タ ガ ラ ス 天 神 魂 命 (あま の かむ むすひ の みこと) 別 名 三 統 彦 命: (み むね ひこ の みこと) 実は 八 咫 烏 |
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久枝神社 由緒 |
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建武年間(1334ー6)河野 通盛が高縄山を背にした広大な河野郷を去って、本拠を道後湯築城に移した頃 |
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河野家の武将、久枝肥前守宣盛の所領であった此の地へ、明治十二年、古三津の村民達が厳島神社より |
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住吉神社、岩崎神社、祇園社の三社を合祀して現在地に奉遦し、社名を久枝神社と称し奉る。 |
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御祭伸 |
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古事記の中の神々の系譜 |
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足仲彦命 |
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たるなかひこ の みこと |
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表筒男命 |
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うわづつのお の みこと |
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譽田別命 |
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よだのわき の みこと |
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中筒男命 |
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なかづつのお の みこと |
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息長足姫命 |
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おきながたらしひめ の みこと |
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底筒男命 |
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そこづつのお の みこと |
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素戔嗚尊・須佐之男命 |
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すさのお の みこと |
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久枝 肥前守 宣盛 |
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久枝宣盛【ひさまつのぶもり(15??~15??)】 和気郡花見山城主。官途は肥前守。 |
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久枝宣盛家臣団【ひさまつのぶもりけかしんだん】 |
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宮前文化遺産を守る会 |
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往古、古三津村の大明神地区に住吉神社、南条地区に祇園社、東山地区に岩崎八幡社とそれぞれ鎮座し、 |
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地元住民の尊崇篤いものがあったが、明治3年嚴島神社へ一旦合祀の後、同12年7月村民の要望により現在地に奉遷、
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この神社は、伊予鉄道高浜線・山西駅の東300m程の辺り、松山市の住宅街に鎮座しております。 宮前文化遺産を守る会
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社名を久枝神社と称する。 |
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