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天台宗  薄墨桜西法寺 伊予薄墨櫻
伊予薄墨櫻で有名な  天台宗 薄墨桜西法寺
本堂を再建した我が先祖
伊代屋(勝岡)儀蔵
松山藩 古三津に 灌漑用の池を造っつた
郷土の偉人と崇められる岡田十五郎 
私は 岡田十五郎翁 の七代目になります
伊予河野家の統領  河野通有 が建立した薄墨 西法寺 本堂
のちに 我が先祖 伊代屋(勝岡)儀蔵 これお再建し現在に至る
松 山 市 下 伊 台 伊予 薄墨櫻で有名な 天台宗 薄 墨 桜 西 法 寺
所在地 〒791-0112 愛媛県松山市下伊台町969 西法寺 住職 薄墨 賢祥

  電話番号 089-977-0037 E-mail : usuzumi@shikoku.ne.jp 
薄墨桜西法寺
施主 松山城下玉水町 伊代屋儀蔵
伊代屋儀蔵は我が家の先祖
伊代  伊代屋  勝岡
伊予薄墨櫻
蒙古襲来 将軍 北条時宗 の時代 活躍した武将
松山市 石手寺横の 大山積神社 河野 通有 建立
勝岡家は 武将伊代左衛門尉 (勝岡備前守)を祖先とする
1300年前建立の薄墨桜西法寺本堂の襖に彫られた御先祖の名前
御先祖が薄墨桜西法寺本堂建立の証
薄墨桜西法寺本堂の襖に彫られた御先祖の名前
天保14年1843、西法寺本堂改築のとき
施主 松山城下玉水町 伊代屋(勝岡)儀蔵
多額の建築費 寄進の記録
松山城下玉水町は現在の木屋町2丁目界隈 
わが先祖 の住んでいた玉水町は何処か






 



 






 



 















2008.09.03
松山市文化財課の方々に調べて頂き
大変お世話になりました。
この場を借りて 心からお礼を申し上げます。
有り難う御座いました。
文化財課 〒790-0003
愛媛県松山市三番町六丁目6-1
第4別館2階
TEL 089-948-6603
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松山藩 古三津に 灌漑用の池を造っつた
私は 岡田十五郎翁 の七代目になります
郷土の偉人と崇められる岡田十五郎 
岡田十五郎神社縁起

岡田十五郎翁は寛政二年古三津村に生まれ 安政元年に没した 享年六十三であった

翁は文政年間に 久万の台新池の築造のため挺身して 農業の振興を図りよって村民を困窮の底から救出し 繁栄に導いた郷土の先駆者である

その公徳は
夙に 村民のひとしく敬仰するところとなり 明治三十一年には頌徳碑を建設して翁の大恩に感謝の誠を表し

次いで大正十年には 築堤百周年を記念して盛大な祭典を挙行 併せて翁の伝記を編集して その功績を今日に伝えた

時代の進運とともに 農業は今や昔日の面影を失ったが 私財を投じて工事を完成し 一村の窮状を救った翁の崇高な公共心は 不滅の光を万世に放つであろう

築堤百七十周年に当たり 翁の功業に思いを馳せ 翁が身をもって示された教を後世に語り継ぐため三津土地改良区役員一同相諮ってここに社を建立し謹んで奉祀するものである

平成四年十月吉日 (1992)
近藤 昇吉 
久枝神社 ヒダエダジンジャ 
 大斎原  おおゆのはら
  

八咫烏について

八咫烏とは、当社の主祭神である家津美御子大神(素盞鳴尊)のお仕えです。日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したという神武東征の故事に習い、導きの神として篤い信仰があります。

八咫烏の「八咫」とは大きく広いという意味です。八咫烏は太陽の化身で三本の足があります。この三本の足はそれぞれ天・地・人をあらわす、といわれています。

天とは天神地祇、すなわち神様のことです。地とは大地のことで我々の住む自然環境を指します。つまり太陽の下に神様と自然と人が血を分けた兄弟であるということを、二千年前に示されていたのです。

邇芸速日命(にぎはやひのみこと、饒速日命)
八咫烏(やたがらす)は、饒速日尊(にぎはやひのみこと)に随行して下った32神の一神
 全ての道はここを目指した、日本中の人々が行きたいと憧れた聖地   大斎原   (おおゆのはら)    八 咫 烏 神 社  (やたがらすじんじゃ
八 咫 烏  ( や た が ら す )と は   神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったという伝説上の大カラスである。 三本足とされる。
久枝神社 久枝神社2 ヒダエダ ジンジャ   久 枝 神 社 と 八 咫 烏
右手奥が我が家のご先祖 岡田十五郎翁を祭る 岡田十五郎神社
             
古 代 史 日 和


古代史を”歴史”として学ぶ人のための古代史サイト
               
八 咫 烏 (やたがらす) は誰なの?その正体とは?
  ヤ タ ガ ラ ス  天 神 魂 命  (あま の かむ むすひ の みこと) 別 名 三 統 彦 命: (み むね ひこ の みこと) 実は 八 咫 烏  
久枝神社   由緒
建武年間(1334ー6)河野 通盛が高縄山を背にした広大な河野郷を去って、本拠を道後湯築城に移した頃
河野家の武将久枝肥前守宣盛の所領であった此の地へ、明治十二年、古三津の村民達が厳島神社よ
住吉神社、岩崎神社、祇園社の三社を合祀して現在地に奉遦し、社名を久枝神社と称し奉る
御祭伸 古事記の中の神々の系譜
足仲彦命 たるなかひこ の みこと 表筒男命 うわづつのお の みこと
譽田別命 よだのわき の みこと 中筒男命 なかづつのお の みこと
息長足姫命 おきながたらしひめ の みこと 底筒男命 そこづつのお の みこと
素戔嗚尊・須佐之男命 すさのお の みこと
久枝 肥前守 宣盛
久枝宣盛【ひさまつのぶもり(15??~15??)】   和気郡花見山城主。官途は肥前守。
久枝宣盛家臣団【ひさまつのぶもりけかしんだん】
東但馬入道、久保、西畑、小渕、前川、北川和助。
 宮前文化遺産を守る会
往古、古三津村の大明神地区に住吉神社、南条地区に祇園社、東山地区に岩崎八幡社とそれぞれ鎮座し、

地元住民の尊崇篤いものがあったが、明治3年嚴島神社へ一旦合祀の後、同12年7月村民の要望により現在地に奉遷、

この神社は、伊予鉄道高浜線・山西駅の東300m程の辺り、松山市の住宅街に鎮座しております。          宮前文化遺産を守る会

平/藤原 平 将門   

  藤原純友  駒立岩
社名を久枝神社と称する。
久枝神社 奥 儀光寺
岡田 十五郎 神社 岡田 十五郎 墓
〒791-8067 松山市古三津町1257 〒791-8067 愛媛県松山市古三津1−2−33
伊予史談会会報 岡田十五郎  電話089-951-0576
H04(西暦1992).10.22 岡田 十五郎 神社 祭典
平成四年十月吉日
近藤 昇吉 書
に社を建立し謹んで奉祀するものである ぐため三津土地改良区役員一同相諮
ってここ
せ翁が身をも
って示された教を後世に語り継
築堤百七十周年に当たり翁の功業に思いを馳 光を万世に放つであろう 村の窮状を救
った翁の崇高な公共心は不滅の
面影を失
ったが私財を投じて工事を完成し一
えた
 時代の進運とともに農業は今や昔日の
せて翁の伝記を編集してその功績を今日に伝 は築堤百周年を記念して盛大な祭典を挙行併 翁の大恩に感謝の誠を表し次いで大正十年に ろとなり明治三十一年には頌徳碑を建設して その公徳は夙に村民のひとしく敬仰するとこ ら救出し繁栄に導いた郷土の先駆者である て農業の振興を図りよ
って村民を困窮の底か
文政年間に久万の台新池の築造のため挺身し 政元年に没した
 享年六十三であ
った
 翁は
 岡田十五郎翁は寛政二年古三津村に生れ安 岡田十五郎神社縁起
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