JA5DLGの宿貸しマウス・ホームページ
宮前文化遺跡を守る会 久枝神社 熟田津の里 橘遠保 平将門の乱 藤原純友の乱 地図でご案内
久枝神社鳥居 大明神が丘 境内にある純友公
奥に「十五郎神社 公が殺害された館跡 駒止め岩
【藤原純友】ふじわら‐の‐すみとも
平安中期の武将。伊予掾<いよ の じょう>。(したやく。属官。令制で、国司の第三等官。)
瀬戸内海横行の海賊の棟梁となり略奪・放火を行い、追討軍に殺された。(―941)
平安中期の貴族。父は藤原良範(ふじわら-の-よしのり)太宰小弐(だざい-の-しょうに)曾祖父は藤原長良(ふじわら-の-ながら)
藤原北家の出であったが中央に志しを得ず、瀬戸内海の海賊の首領となり、
平将門(たいら-の-まさかど)と時を同じくして、腐敗した政治に抗して西国で乱を起こす。
天慶三年平将門の乱が鎮圧されて住友討伐が始まる。天慶四年六月伊予国警固使橘遠保(たちばなのとおやす)に捕らえられ殺される。
(この地で殺害されたか、国府の今治に移され処刑されたか、京都で処刑されたか定かでない。ここではこの地で橘遠保に殺害された説をとる。)
武士階級台頭の一つの転機となる。
藤原純友の乱 ふじわらのすみとものらん
 平安中期、瀬戸内海を中心に前伊予掾(じょう)藤原純友がおこした反乱。
東国の平将門の乱とともに承平・天慶(しょうへい・てんぎょう)の乱ともよばれる。純友は大宰少弐(しょうに)藤原良範(よしのり)の子で、
中下級貴族の出身とされる。
「本朝世紀」その他の史料によれば、瀬戸内海は9世紀後半から官物租税などの物資運送の重要な海上路となり、海賊が多く出没していた。
朝廷は936年(承平6)、伊予国日振島(ひぶりじま)を拠点とする海賊の首領だった純友らに海賊制圧をおこなわせ、その沈静化をはかったという。
純友を通じて配下の海賊たちを統制させたのである。
939年(天慶2)末に東国で平将門の乱がおこると、純友はこれに応じるかのように本格的な反乱を開始した。
朝廷はまず東国の兵乱を制圧するため純友に従五位下の位階をさずけて懐柔し、反乱は一時沈静化する。しかし940年5月、
将門の乱を鎮圧した軍が帰京すると同時に、朝廷は純友追討を本格化させる。
8月になって純友は讃岐(さぬき)の国衙(こくが:国の役所)を攻撃し、備前・備後を襲撃するが、
朝廷側は小野好古(よしふる)・源経基らを追捕使に任じて制圧にむかわせた。
純友軍は瀬戸内沿岸諸国をおそい、941年5月には大宰府を攻略しようとしたが追討軍に敗退、
翌6月、本拠地の伊予にのがれたところを警固使橘遠保(とおやす)によってうたれた。
その後、純友の残党による反乱もあったが、同年末までにほぼ鎮圧された。
Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2003. (C) 1993-2002 Microsoft Corporation. All rights reserved.
【平将門の乱】 たいらのまさかどのらん
 平安中期、関東で平将門がおこした反乱。瀬戸内海での藤原純友の乱とあわせ、承平・天慶(しょうへい・てんぎょう)の乱ともいう。
平将門は桓武平氏の高望(たかもち)王の孫にあたり、9世紀末以降、
下総(しもうさ)国豊田・猿島(さしま)郡(茨城県結城・猿島郡地域)方面に土着した軍事貴族だった。
本格的な反乱がはじまる前の承平年間(931〜938)には、伯父の平良兼と争いをおこし、常陸大掾(ひたちだいじょう)の源護(まもる)や
、その娘婿(むこ)でもあった国香・良正・良兼らの同族と合戦をくりかえしていた。
936年(承平6)10月、これらの戦いで将門は源護にうったえられ、中央に召喚されるが、
朱雀(すざく)天皇元服の大赦でゆるされて、その罪は不問とされた。しかし帰郷後も一族との紛争はおさまらず、
939年(天慶2)に将門は武蔵国の郡司武芝と権守興世王(ごんのかみおきよおう)・源経基(つねもと)との間におきた紛争に介入する。
このころから抗争は次第に一族の内紛から国家への反抗の様相をみせはじめる。
その数カ月後、将門は常陸(ひたち)の国衙(こくが:国の役所)をおそい、国守藤原維幾(これちか)をとらえて、国家への反乱を開始する。
以後、下野(しもつけ)・上野(こうずけ)・相模(さがみ)などの諸国を制圧、国司を追放し、
弟たちや従者を国司に任じて自らは新皇と称し、関東独立の姿勢をしめした。
同じころ、瀬戸内海では純友の反乱もおこり、東西の兵乱に直面した政府は、西の純友に対してはとりあえず位階をあたえて懐柔策をとった。
いっぽう、関東に対しては将門と敵対関係にある平貞盛らの同族の武力をかり、
さらに下野国の藤原秀郷ら関東の群党的領主たちを地元の鎮圧軍に編制、940年2月初旬に藤原忠文を征東大将軍、
源経基らを副将軍に任命して京都を出征させた。
2月14日、将門は追討軍到着の前に、貞盛・秀郷の連合軍にせめられて敗北、下総の猿島でうたれ、乱は3カ月で平定された。
乱の鎮圧に功があった貞盛や秀郷たちは、国家から恩賞として四位、五位の位階に叙せられ、関東の国司に任命された。
彼らはこれをもとに、中央・地方を問わず武門として発展する基盤をきずいていく。
のちの鎌倉幕府の有力御家人の多くは、この乱の功労者たちの末裔(まつえい)でもあった。
将門によって芽ばえた東国政権への夢は、2世紀半後の源頼朝の鎌倉幕府の成立によって実現することになる。
将門の乱の模様を細部にわたって描写した「将門記」は、文学作品の枠をこえた軍記史料としての側面をもち、部分的には信頼度も高い。
Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2003. (C) 1993-2002 Microsoft Corporation. All rights reserved
参考: 清和源氏 桓武平氏 関連リンク 平将門1 平将門2 平将門3 平将門4
橘之遠保たちばなのとおやす
(?-941?) 平安時代の天慶3年(940)、瀬戸内海の海賊を率いて日振島を根拠地に乱を起こし,
瀬戸内全域と九州の一部を支配した藤原純友を誅した警固使。(参考:三省堂 『ハイブリッド新辞林』)
「神戸歴史物語(小部・鈴蘭台)」(*20)によれば、朱雀天皇から命ぜられた右大臣橘遠保は、天慶4年(941)、
藤原純友征伐に向ったが、途中で純友が部下に殺害された連絡を受けた。
乱の後始末をした帰路、白川で倒れ、小部の地で没した。
その後、橘遠保の身内・従者が小部の地に留まり、荘園を作った。
岡田十五郎神社がある久枝神社の境内には藤原純友公の遺跡案内と遺跡があります。
所在地 愛媛県松山市山西町明神丘 宮前文化遺跡を守る会
熟田津の里句碑 純友公使用の井戸跡 純友公の駒繋ぎの松
藤原純友公
貴族政治の腐敗と庶民生活への圧迫に抗して政治の革命を目指した時代の先駆者。
駒立岩
純友公が駒を立て沖を見たと伝えられている。
駒立岩は現在地より西北30メートルの田の中にあったが土地造成中に埋没されていたのを、
有志の努力で掘り出され昭和五十一年三月にこの地へ移し復元されたものである。
孀塚(やもめずか)
当所より東北約400メートルの孀塚山山頂にあった。
純友公の乳母の墓と伝えられている。
純友公の館跡
久枝神社の南「大明神が丘」にあったが今はその跡をとどめない。
純友公は天慶四年六月二十日、この館で殺害さる。(西暦941)
井戸跡
久枝神社境内にあり純友公が使用されたと伝えられる。
石枠は今もその名残をとどめている。
鬼塚
東仙台西麓畑の中に在り、純友重臣の墓と伝えられている。

JA5DLGの宿貸しマウス・ホームページ