河野家家紋の由来 |
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治承4年(1180)4月9日、源頼政(清和源氏だが頼朝らとは遠く離れた血筋)が |
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以仁王(後白河上皇の皇子)の平家追討の宣旨を得て挙兵。 |
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この兵は制圧されてしまうものの、8月17日頼朝もそれに呼応して立ちあがった。 |
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「いざ鎌倉」を合言葉に、全国の源氏方の武将も立ち上がった。 |
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その時、伊予河野家は三番目に駆けつけたので、三の字を家紋に許された。と言う話もある。 |
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「折敷(おしき)に三の字」 |
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これはあくまでも俗説でこれとは別の説と言うより正しくは以下の通り |
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「折敷(おしき)に三の字」は大三島神社の神紋で大三島神社を信奉する河野氏は |
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これを自家の紋としたと思われる。 |
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、『予章記』に、「三並の船ノ紋は一(一ツ鱗)ニテアリシカ(伊予ノ皇子御下向時ノ例ナリ)、 |
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御方ノ紋ニ其類余多アリケレハ、別ニ傍折敷ヲ角違ヘニ挿ムテ舷に立ラル。 |
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其影高ク海水ニ浮ヒ、波ニ漂ヒクタケケルカ三文字ニ見タリ。 |
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其後夷国帰朝ノ嘉列トシテ傍折敷ニ三文字ヲ家ノ紋トシテ定メ玉フ。」 |
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異説是多し。之。重て正 |
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三並 ミツナミ ミナミ (河野家の大将の名前) 神功皇后新羅退治のとき大将十人を渡さる。 |
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三並第三の将となる。 |
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のち和議をもって無為に属するゆへに帰朝す。 |
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幕の紋もとは一つウロコなり。 |
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三並異敵を征するとき、異国にをいて似たる紋あるにより、 |
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三並が船は折鋪を角違いはさみ舳さきに立る。 |
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そのかげ浩々として海水にうつり、三文字をあらはす。これよりあらためて幕紋とす。 |
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三並 「みなみ」と読む。仲哀天皇の熊襲征伐のときの功績により家紋を改める。 |
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● 大三島の系図では大きく2つの流れがみえる。 |
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@にぎはやひ‐の‐みこと【饒速日命】・・・伊香色雄ー物部大新川(物部連)− |
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大小市−小致(小市国造)−若伊香加−栗鹿−三並 ・・・安元(大三嶋大祝初代) |
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A孝霊天皇−伊予皇子−小千御子−天狭貫−天狭介−栗鹿−三並 ・・・安国(三島大祝祖) |
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小致命は姓氏録に応神の時、小市国造と載る。 |
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小市・越智・河野氏系図・三島大祝、各々ずれが見える。 |
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多氏・紀氏・景行−佐伯氏の流れが各系図に入り影響をあたえているのだろう。 |
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越智 小千御子 家紋 銀杏葉三枚 出
典 姓氏家系辞書 |
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詳しくは http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kono_k.html |
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家紋 「折敷に三の字」 http://www.harimaya.com/kamon/column/osiki.html |
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折敷は「隅切角」であります。神聖な図形として重んじられており、 |
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大三島様ゆかりの一族の家紋の外枠としてもしられます。 |
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三の字のバリエーションが多く特に「縮み」系が要注意であります |
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