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南朝方 河野家の武将 伊代佐衛門尉
「丸に蔦」
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林原 美術館所蔵
(重文)紺糸威胴丸兜・大袖付
南朝方 河野家の武将 伊代佐衛門尉
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勝岡城城主位牌(左)
伊代屋一族位牌(中)
歴代西法寺住職位牌(右)
(伊代屋先祖代々各霊位位牌 裏書より)
伊代屋は伊豫の豪族河野家一族
勝岡備前守の武将伊代左衛門尉
を祖先とする。河野家滅亡後は屋号
を伊代屋と称し伊台にすむ。
その後代々栄え数軒に増える。
江戸時代に松山の城下町に転出した。
薄墨桜の玉垣にも
伊代屋として記載されている。
明治になり
勝岡家、伊台家、越智家、長谷川家
等々の名字を名乗り今日に及ぶ。
伊代屋子孫縁者
が毎年回向するものとする。
平成七年六月吉日
西法寺第十五世住職 薄墨賢衛 代
(代表 勝岡 昭
南朝方 河野家の武将 伊代佐衛門尉

河野家家紋の由来

河野家家紋の由来
治承4年(1180)4月9日、源頼政(清和源氏だが頼朝らとは遠く離れた血筋)が以仁王(後白河上皇の皇子)の平家追討の宣旨を得て挙兵。この兵は制圧されてしまうものの、8月17日頼朝もそれに呼応して立ちあがった。「いざ鎌倉」を合言葉に、全国の源氏方の武将も立ち上がった。その時、伊予河野家は三番目に駆けつけたので、三の字を家紋に許された。と言う話もある。「折敷(おしき)に三の字」
これはあくまでも俗説でこれとは別の説と言うより正しくは以下の通り
「折敷(おしき)に三の字」は大三島神社の神紋で大三島神社を信奉する河野氏はこれを自家の紋としたと思われる。
、『予章記』に、「三並の船ノ紋は一(一ツ鱗)ニテアリシカ(伊予ノ皇子御下向時ノ例ナリ)、御方ノ紋ニ其類余多アリケレハ、別ニ傍折敷ヲ角違ヘニ挿ムテ舷に立ラル。其影高ク海水ニ浮ヒ、波ニ漂ヒクタケケルカ三文字ニ見タリ。其後夷国帰朝ノ嘉列トシテ傍折敷ニ三文字ヲ家ノ紋トシテ定メ玉フ。」 異説是多し。重て正之。
三並 ミツナミ ミナミ (河野家の大将の名前) 神功皇后新羅退治のとき大将十人を渡さる。三並第三の将となる。のち和議をもって無為に属するゆへに帰朝す。幕の紋もとは一つウロコなり。三並異敵を征するとき、異国にをいて似たる紋あるにより、三並が船は折鋪を角違いはさみ舳さきに立る。そのかげ浩々として海水にうつり、三文字をあらはす。これよりあらためて幕紋とす。
三並 「みなみ」と読む。仲哀天皇の熊襲征伐のときの功績により家紋を改める。
● 大三島の系図では大きく2つの流れがみえる。

@にぎはやひ‐の‐みこと【饒速日命】・・・伊香色雄ー物部大新川(物部連)−

大小市−小致(小市国造)−若伊香加−栗鹿−三並 ・・・安元(大三嶋大祝初代)

A孝霊天皇−伊予皇子−小千御子−天狭貫−天狭介−栗鹿−三並 ・・・安国(三島大祝祖)

 小致命は姓氏録に応神の時、小市国造と載る。
 小市・越智・河野氏系図・三島大祝、各々ずれが見える。
 多氏・紀氏・景行−佐伯氏の流れが各系図に入り影響をあたえているのだろう。

越智  小千御子   家紋  銀杏葉三枚  出 典 姓氏家系辞書
一つ鱗
三つ銀杏
丸に一つ鱗
詳しくは http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kono_k.html
家紋 「折敷に三の字」 http://www.harimaya.com/kamon/column/osiki.html
折敷は「隅切角」であります。神聖な図形として重んじられており、大三島様ゆかりの一族の家紋の外枠としてもしられます。三の字のバリエーションが多く特に「縮み」系が要注意であります
大山祇神社
大三島神社 宮司
大祝(三島)氏
時宗総本山遊行寺
薄墨桜西法寺
河野家家紋
河野家家紋
「折敷に三の字」
または
「折敷に三つ」
道後湯月町宝巌寺
河野家家紋