寶厳寺にある坂村真民氏の寿墓 略地図で場所を紹介します。 |
現地に見る宗教史の風土 ■愛媛県■
一遍上人の生地、伊予 河野水軍の守り神、大山祇神社 17神社に本地仏信仰 化城喩品 王子の数に由来か
一遍上人の木像を安置する道後温泉の寶巌寺 |
大学に入った年の春、ある講義の冒頭に、講師の先生が自己紹介として「私は海賊の末商です」と誇らしげに語ったことを、どういうわけか今もよく覚えている。その先生の名は「河野」といった。
鎌倉御家人の河野氏を海賊と呼ぶのは適切なのか、海賊かそれとも水軍か。河野氏が氏神として崇めた大山祇神社(愛媛県越智郡大三島町)の三島喜徳宮司にうかがうと、「海族」と読み替えては、と教示された。伊予国一宮・大山祇神社の御祭神の大山積大神は本来「地神・海神兼備」だが、河野水軍ゆかりの神社のイメージが強く、今でも海上自衛隊が「訓練」の名目で参拝に来るという。境内には現在、国宝・重文に指定されている武具類のうちの八割を収める宝物館(紫陽殿・国宝館)の他に、昭和天皇の海洋生物研究に使われた葉山丸を保存する海事博物館があり、これも海神としての信仰と無縁ではないだろう。
源平の合戦でも活躍した河野氏の本家は十六世紀末に滅びるが、今も大山祇神社には河野氏との深い関係を示す信仰が伝わっている。大鳥居から神門に向かう道の左手にある十七神社がそれだ。
大山祇神社の史料によれば、保延元年に神供寺という寺号の神宮寺が建立され、大通智勝仏が本尊に祀られたという。これが大山祇神社(三島大明神)の本地仏ということになる。『河野家譜』によると、平家物語にも登場する河野道清は母が三島明神に参籠して授かつた子で、この大通智勝仏から「通」の一文字をとって通清と名乗った。そして「通」が最後の当主通直まで代々、河野の家の「通字」となる。
ところで三島宮司によると、大山祇神社の十七神社は十六王子社と諸山積神社が一体になったもので、前者の十六の御祭神の順序は県内に幾つかある十六王子社(その神社の主祭神はいずれも大山積大神)と一致しているという。つまり、十六柱の神に対する祭祀が大山積大神への信仰とともに受け継がれてきたと考えられるわけだが、この十六」という数字は一体どういう意味を含んでいるのか?
従来、越智郡の島嶼部に散在した神社を合祀した、と理解されてきたそうだが、三島宮司はそれを、法華経の化城喩品に出る大通智勝如来が出家前にもうけた十六人の王子と解釈する。
そういえば、『河野家譜』にも、三島明神が十六丈の大蛇になって出現した、とあり、十六はキーワードになっている。十七神社、十六王子の数字の謎の解答は、河野氏が深くかかわる大山積大神の本地仏への信仰にあつたのだ。
『聖絵』テキストに学ぶ 寶厳寺に集う一遍会員ら
本地仏大通智勝仏への信仰を物語る? |
大山祇神社の十七神社 |
この中世の名族河野氏が一人の有名な宗教者を生み出したことはよく知られている。一遍智真、時宗の祖である。
遊行の上人一遍の足跡は、北は岩手から南は鹿児島まで日本各地に残されているが、伊予は上人の面影を偲ぶのにやはり最もふさわしい土地だろう。上人ゆかりの遺跡も多い。地元には宗派・宗旨という枠を超えて、「一遍さん」と敬愛を込めて上人の名を呼ぶ人たちがいる。
生誕の地・松山道後温泉の時宗・寶厳寺で、そうした人たちが集う一遍会の世話人(理事)三好恭治さんにお話をうかがった。同寺の長岡隆祥住職の「ご先祖はこの辺りの庄屋さんですよ」という紹介に、なるほどと頷きたくなる温厚な知識人という印象だ。
一遍会が誕生したのは昭和四十五年。寶厳寺が会の活動の一つの拠点にはなっているが、寺の檀信徒組織ではなく、会員の宗旨もさまざま。町おこしや宗門の教化といった“上"からの発想とは無縁で、ただ、上人への敬愛の念で支えられている。
会員はおよそ百人。月例会では「一遍聖絵」をテキストとして読む“卓話“と、一遍上人に何らかの形でかかわる多様なテーマを採り上げる講話がある。社会のさまざまな分野で活躍してきたメンバーも多いだけに、年間の講師の半数は一遍会の内部でまかなえる。
三月十五日には寶厳寺で一遍主人誕生会、曼珠沙華の花が開くころの九月二十日前後には上人成道の地・窪寺遺跡(松山市窪野町)で窪寺・曼珠沙華祭を厳修するのも会の重要な行事だ。
ちなみに窪寺遺跡については、一遍会が幾つかの候補地の中から「一遍聖絵」の描写をもとに上人が修行した「閑室跡」の地を推定。一遍上人七百年遠忌、生誕七百五十年の平成元年に石碑を建立した。また同年、閑室跡から約三百bの場所に、地元有志の手によって窪寺念仏堂が建立されている。
こうした事業がなされるのも、「一遍さん」と親しまれる上人ならではのことだろう。この“呼びかけ“にはどこか二人称に近い響きも感じられなくはない。
「まず、ローカルな関心、つまり正岡子規とともに郷土が誇る人物として上人に関心を持ち始めたのですが、バブル崩壊後の混乱を経て、『捨ててこそ」(一遍上人が先達とした空也上人の言葉)が実感になりましたね」と三好さん。詩人・坂村真民氏の「念すれば花ひらく」に感じられる素朴だが熱烈な想いにも通うものがある、とも語る(坂村氏の寿墓が寶厳寺にあるという)。
縁続きの凝然大徳 一遍と同時代、東大寺に
今治市延命寺にある |
凝然大徳の供養塔 |
今回、一遍上人のことを少し調べているうちに、『八宗綱要」の著者で、東大寺の大学僧凝然大徳が上人と同郷、しかも同時代人であることを知った。一遍上人は延応元(一二三九)年、凝然大徳はその翌年の生まれであり、系図上では、凝然大徳(新居氏)から九代、一遍上人から十代遡れば、越智為世という共通の祖先につながる。
凝然大徳の生誕地は越智郡高橋郷、現在は今治市内であり、真言宗醍醐派泰山寺(四国八十八ヵ所五十六番札所)の近傍と推定されている。
また凝然大徳は八十二年の生涯のほとんどを東大寺で過ごした人だが、千二百余巻という膨大な著述の中でも最もよく知られる『八宗綱要』を著わした場所が「予州允圓明寺西谷」であることは、凝然大徳自ら奥書に記している。
そこで、大山祇神社で一遍上人の宝篋印塔を拝し、上人生誕の地・松山へ向かう途中、今治に立ち寄り、凝然大徳の遺跡を巡った。しかし、泰山寺の近傍の生誕地を示す木札があった場所は宅地となっていた。かろうじて圓明寺が改号・移転した同じ今治市内の延命寺(真言宗豊山派、五十四番札所)にはまだ新しい「至徳凝然国師供養塔」を見いだすことができた。
「沙門凝然」の著者、故・越智通敏氏(氏は一遍会の代表でもあった)は鎌倉新仏教を代表する一人である一遍上人と、いわゆる「旧仏教」の有数の大学僧凝然大徳との間に、何らかの交渉があったことをうかがわせる史料・伝説が全くないことを指摘。臨終を前に所持の書籍を焼き、「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」と語った前者に『一遍聖絵」など多くの伝記資料があるのに対し、膨大な著述を残した凝然大徳にかえってその生涯を知る資料が乏しいことを特に記している。
越智氏によれば、文献に「佐保山に葬り、鷲尾山に塔す」とある鷲尾山は現在の京都東山・高台寺だが、その鷲尾山の凝然大徳墓塔も今は所在が知れない、という。
中世の伊予に生まれた二人の偉大な僧侶は、まことに対照的な生涯を歩み、没後の運命もまた際だったコントラストを示しているのである。
(津村恵史)