|
|
坂村真民--詩集 念ずれば花開く より 「タンポポ魂」 「このひと」 |
|
|
|
|
念ずれば花ひらく |
|
苦しいとき 母がいつも口にしていた |
|
このことばを わたしも いつのころからか となえるようになった |
|
そうして そのたび わたしの花が |
|
ふしぎと ひとつ ひとつ ひらいていった |
|
|
|
|
|
真民氏が 自ら生前に付けた 夫妻の戒名 |
|
|
|
詩 国 院 蒲 公 英 朴 真 民 |
|
徳 光 院 愛 真 華 久 代 |
不要 居士号 |
|
不要 大姉号 |
|
|
|
|
|
|
|
蒲 公 英 (タ ン ポ ポ) |
冠毛は白色、風によって四散する |
|
|
朴: うわべを飾らない自然なさま |
朴 僕 ほおのき 素朴 純朴 |
|
|
宝厳寺 住職 長岡 興隆師が付けた戒名 |
平成26年10月11日ご逝去 |
|
|
詩 国 院 朴 阿 真 民 居 士 |
南 無 阿 弥 陀 仏 |
|
|
|
坂村 真民 (さかむら しんみん) 本名 昂(たかし) 明治42年1月6日 熊本県に生まれる。 |
|
8歳の時に、父親の急逝によりどん底の生活に落ちる。 5人兄弟の長男として母親を助け、幾多の困難と立ち向かう。 |
|
昭和6年、神宮皇学館(現皇學館大學)を卒業。 25歳の時、朝鮮にて教職につき、36歳全州師範学校勤務中に終戦を迎える。 |
|
昭和21年から愛媛県で高校の国語教師を勤め、65歳で退職、以後詩作に専念する。 始めは短歌を志し、昭和12年『与謝野寛評伝』を著している。 |
|
与謝野寛(よさの ひろし)=与謝野 鉄幹(よさの てっかん)鉄幹は号。四国に移住後、一遍上人の信仰に随順して仏教精神を基調とした詩の創作に転じる。 |
|
昭和37年、月刊詩誌「詩国」を創刊、以後毎月、一回も休むことなく発刊し1200部を無償で配布している。 |
|
また詩の愛好者によって建てられる真民詩碑は日本全国47都道府県に分布し、その数は現在,海外の20基と合わせると約660基を超えている。 |
|
たんぽぽ【蒲公英】ほこうえい |
キク科タンポポ属の多年草の総称。全世界に広く分布。日本にはカンサイタンポポ・エゾタンポポ・シロバナタンポポ、また帰化植物のセイヨウタンポポなど10種以上あり、普通にはカントウタンポポをいう。根はゴボウ状。葉は土際にロゼットを作り、倒披針形で縁は羽裂。春、花茎を出し、舌状花だけから成る黄色の頭花をつける。痩果は褐色で、冠毛は白色、風によって四散する。若葉は食用、根は生薬の蒲公英ホコウエイで健胃・泌乳剤。たな。
春 。文明本節用集「蒲公草、タンホホ」 |
|
ほお【朴・厚朴】ホホ |
モクレン科の落葉高木。山地に自生し、高さ15〜25メートル。葉は大形で有柄長楕円形。5月頃、直径15センチメートルもの帯黄白色で香気の強い9弁の花を開く。果実は長さ約15センチメートル、熟すと糸を引いて赤色の種子を垂らす。材は細工しやすく、版木・建築・器具・木炭に用いる。樹皮は生薬の厚朴コウボクの代用品として風邪などに用いる。ホオノキ。ホオガシワ。「朴の花」は
夏 。 |
|
電子 広辞苑第5版より引用 |
tanpopo |
タ ン ポ ポ 魂 tanpopo tamashii
踏みにじられても 食いちぎられても 死にもしない 枯れもしない
その明るさ その根強さ そしてつねに 太陽に向かって咲く
わたしはそれをわたしの魂とする
坂村真民--詩集 「念ずれば花開く」 より
|
|
「朴のことば」 |
|
すっかり葉を落としてしまった朴が ある朝言いました なんでもないようなことに 深い意義がこもっているのです |
|
世尊は蝶に出会うと いつも合掌されたと言いますが 脱皮の見事さに感動されたのですね わたしたちが葉を落すのも 一つの脱落ですよ |
|
脱皮も脱落も言いかえれば別離ですね 昨日が今日に変わってゆく そのなんでもないことに 深い意義を見出した時 真に生きるとは何であるかを知るでしょう |
|
さあ日が昇ったようです 充実した一日をお送り下さい |
|
|