所在地:松山市勝岡町 |
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「予章記 長福寺本」より |
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伊予河野のルーツ「小千命 乎致命」ゆかりの神社 「勝岡八幡神宮」の祭神は、河野(越智)一族の遠い御先祖を神代にたどり小千(おち)とする説がある。 |
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小舟で流れついた所は和気郡の堀江と言われている。この地方に今も「勝岡」という地名が残っており、勝岡(かつかの)八幡宮である。 |
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この八幡宮で小千の祭神を八月七日に祭る。 |
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勝岡町(かつおかちょう) 勝ち戦にあやかった恐れおおい呼び名 |
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勝岡町の町名は、当村にある勝岡八幡神社に由来する。 |
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勝岡八幡神社はもともとは太山寺村の中野山にあったが、永享年間(1429〜1441)の頃に焼失したため、現在の場所に再建された。 |
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その時から勝岡八幡神社と呼ぶようになったといわれている。 |
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「勝岡」の名は、孝霊天皇の孫にあたる小千命(おちのみこ)が国造として在任している時に、 |
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賊を平定した勝ち戦にあやかって命名されたと伝えられている。 |
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かつて、町名と神社名が同じというのは恐れおおいということで、 |
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勝岡町の辺りを「片岡」(かとか)と呼んでいた時期もあったが、昭和17年の町名変更の際に再び町名となった。 |
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大鳥居 右へ行くと自動車免許センター |
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本殿全景 |
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本殿 |
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勝岡八幡神社由来 |
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今から壱千五百有余年前応神天皇の御代に当地を襲った兇賊を小千命 乎致命がここ白人(うらと)城に拠って討ちとり里人(さとびと)の危急を救った為 |
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この地を勝岡と名づけると共に命(みこと)を敬慕の余り後に祭神として大山寺字小山の中野山に社を創り白人の宮と称え祀っていたが |
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五百数十年前の永享年間戦火で悉く焼失の後も霊験あらたかな故命の縁の城跡戦場の地、 |
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勝岡に構想を大にして遷宮と同時に宇佐八幡を勧請し名を勝岡八幡宮と改称した。 |
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建碑の趣旨 |
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斯様に貴い祭神を祀った由緒深い当神社の沿革と当社に代々厚い崇敬の誠を捧げた先人の偉業を偲びこの碑に刻み併せて伝統の美風を継承して |
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更に里の繁栄平和と松並木の再現を心から期待するものである。 昭和四十七年三月吉日 氏子総代一同 |
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祭神 |
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○小千命 別名 孝霊天皇 御孫 小千御子 |
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○応神天皇 別名 品陀和気命(ほんだわけのみこと) |
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○仲哀天皇 別名 帯中日子命(たらしなかつひこのみこと) |
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○神宮皇后 |
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○息長帯日賣命(おきながたらしひめのみこと) |
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○日賣大神 別名 多岐津姫命(たきつひめのみこと) |
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○多岐理姫命(たぎりひめのみこと) |
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○市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の三女神 |
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○厳島神社の(いつくしま)は市杵島が変じたもの |
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古事記の中の神々の系譜 |
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付記 現在、下伊台の西法寺は勝岡山の麓にあるが、昔はその中腹の「本堂ガ平」にあった。 |
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この「勝岡」と和気の「勝岡」との関係は不明である。和気の「勝岡」の由来は昔、この地で賊軍との戦で勝利した時、 |
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時の天皇より「勝岡」と命名された言われているが「賀津岡」とも言われている。 |
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下伊台の「勝岡」も同じように昔は「賀津岡」と書かれていたと言う。また、伊代佐衛門尉は河野家に仕え、和気郡を治めていた。 |
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これと何か関係が有りそうだが、憶測の域を出ない。 |
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勝岡家口伝によれば「勝岡」は天子さまから頂いた由緒ある苗字と云が、どこまで本当か?。 |
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いずれにしても和気か伊台の「勝岡」には違いない事は事実である。一時、この地を片岡と書いて「かとか」と呼んだ。 |
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「勝岡」は天子様から戴いた名前ゆえ勿体ないと言い、「かとか」と呼んだとか。 |
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松山市勝岡町勝岡神社の秋祭に、祭神小千命は荒神様であり、氏子はその意を体し、 |
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お旅所までの参道約100bの直線コースを、安城寺、和気、太山寺など、 |
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旧和気郡の各部落の青年が神輿を一体づつかつぎ、疾走する行事である。 |
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神輿一体に青年九〜十人、裸にタスキ、フンドシ姿で四人で神輿をかき五、六人がこれをひきささえ、 |
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神輿は左右の揺れも見せず、上下の動揺もなく、一直線に疾く走ることが賞美される。 |
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祭礼前の連日の練習によって、ぴったりと一致した呼吸、 |
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スピーディーな直線美とすばらしい迫力に、見物人は喝采し、 |
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みごとな出来栄えを自慢するという風習を残している。 |
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その由来については、「和気郡代官所日記」の宝暦四年(一七五四年)八月の条に |
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「勝岡八幡宮宮出走込みにつき村順につき出入あり 村役人罷出才許する」とある。 |
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今から200年前には「走込み」といわれ、神輿を出し走る順序について、 |
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部落間で喧嘩しており、神事を重視するためその序列を問題にしたことが明らかである。 |
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したがって、その風習はずいぶん古いものであることが推察される。 |
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松山市指定無形民俗文化財 出典 昭和40年 編著者 松山市教育委員会 「伊予路の文化」 |
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二番目の大鳥居手前と |
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社殿までの石段の途中にある |
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「勝岡」の「勝」で |
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一番目の鳥居の間に |
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「たぎりかみさま」 |
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「受験戦争に勝つ」 |
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有名な松並木があった |
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に通じ入学祈願に人気がある |
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勝岡の象徴 馬場の松 |
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遷宮の際社殿境内の整備と共に長い馬場の両側に数十本の松を植え、これが後に天下に類なき雄大な松並木の馬場として永く景観の美を誇ると共に |
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勝岡を象徴して居るが大正、昭和になり樹齢尽きて勢い衰え或いは幹に空洞を生じ災害時万一の危険を慮り人命優先の見地から涙と共に数回に渉って伐り払い |
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今では僅かに残る数個の切り株に昔の俤を偲ぶとは洵に断腸の思いである。 |
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勝岡八幡神社の由来の碑 |
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本殿内部 |
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入り口にある句碑 |
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