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伊台のむかし昔の物語
伊台と呼ばれる由来 (薄墨賢衛住職の指導による)
@  西法寺にお祭りしてある薬師如来の別名を医王と呼び、お祭りしてある所を医王台と呼んでいた。
後に医王台(いおうだい)から転じて伊台(いだい)となった。
A 日本一古い温泉で有名な道後のすぐ近くにある伊台にも昔は温泉があったと思われる。
その頃は、道後を湯築(湯月)、湯山を湯の山と呼んだように、湯の台と呼んでいた。
転じて湯の台(ゆのだい)湯台(ゆだい)伊台(いだい)となった。
B 昔、この土地に伊代左衛門尉という、勝岡山(かつかさん)に城をもつ
河野家の武将が住んでいたので伊代、伊台.(いだい)と呼ぶようになった。
諸説あるが、あくまでも仮説であって、どの説が正しいかは不明です。
何れにしても伊台は大変古い歴史のある土地であることは明らかです。
昔、吉原郷と称した頃は一つの「保の木」であったかもしれないが、人口が漸増し文録の検地で郷、保、里を廃したときに上伊台村、
下伊台村したのだと思われるが、徳川時代の末期にはほとんど伊代と書かれているが、重要な文書にはやはり伊台と書いてある。
西法寺の寺伝には薬師如来の台、即ち医王台が医台となり、伊台となったのではないかと言われている。
又、伊代伊左衛門=伊代左衛門が住んでいて伊代となったとも言われている。
南北朝時代に河野通尭の家臣に伊田井左衛門太郎がいた記録があるが、昔は伊田井と書いて「いだい」と呼んだのかも知れない。
河野家の分限録には伊代左衛門尉の名前ががある。何れも文録の検地以前の事である。
 (伊代伊左衛門=伊代左衛門=伊田井左衛門太郎)
大昔、道後の湯が地震か何かで止まったとき、かわりに伊台に湯が湧いたかもしれない。
こんな時、湯の台「ゆだい」と呼んだかもしれない。
「ゆだい」から「いだい」と転化しても不思議ではない。
天正十三年九月、秀吉の四国征伐に依り河野通直、城を開いて野に下る。
このとき小早川隆景が伊予を領して湯築城に入って治めた。この天正年間伊台の地は河野家家臣「伊代左衛門尉」の領地であった。
故に伊代村と称するようになる。後に村の中央に「台の成」と言うところがあったので「伊台」となった。
(この節は多少擬いあり)伊台村の石高は、伊台村 五百四十四石二斗五合、上伊台村は百六十六石一斗で
秀吉の検地以来明治維新まで変わらなかった。
あわせて七百十石三斗五合であった。