目次
□ マークをクリックすると目次に戻ります 表紙に戻る
- 比叡山と伝教大師
- 西法寺と薄墨桜の由来
- 西法寺沿革史
- 記念写真
- 薄墨の論旨かしこき桜かな 極堂
- 編集後記
□ 比叡山と伝教大師
京都とびわ湖を眼下に見おろしてそびえる比叡山は、昔から霊山として知られてきた。延暦4年785年御年19歳でこの山に登られた伝教大師は、当時盛んだった南郡仏教の諸宗派にきぴしい批判をくだし、みずから法華経による新しい一宗をたてようと志された。かくて延暦7年一乗止観院今の根本中堂を創立、また唐へ渡って天台の法門を伝え、延暦25年桓武天皇から天台宗を開くことをこ許された。以来、比叡山は、仏道修行の道場として、また国家鎮護を祈る霊峯として幾多の宗教的偉人を育ててきた。伝教大師の弟子慈覚大師・智證大師は、それぞれ天台教学の樹立をはかり、第18代の天台座主となった慈恵大師のときに至って延暦寺の勢力は頂点に達した。平安時代の後期から鎌倉時代にかけて、恵心僧都をはじめ法然・親鸞・栄西・道元及び日蓮等の偉オが続出した。元亀2年1571年織田信長の焼打ちにあって全山の堂塔が灰燼に帰したが、豊臣秀吉や徳川家康・家光等の力添えによって、寛永年間には諸堂すべての復興再建が行なわれた。つねに日本文化の中心となり、日本仏教の母山として親しまれてきた比叡山は、近時交通網の発達とともに、ドライブウェーが開通し、新しい息吹の
中で、新しい精神指導者の姿勢を確立しようとしている。伝教大師は一乗止観院を建てた時、ご自作の薬師如来像を祀り、ご宝前に三つの燈明をかかげて、この歌を作って祈られたのである。伝教大師は神護景雲元年近江国滋賀郡に生まれる。弘仁13年6月4日寂年56才貞観8年勅命によって伝教大師の号を受ける。わが国大師号として初めてのものであった。
天台宗 宗歌 「あきらけく後の仏のみ代までも、光りつたへよ法のともし火」
□ 西法寺と薄墨桜の由来 □ 西法寺
当寺は天台宗に属し、もとは伊予国和気郡下伊台村勝岡山の麓にあった。平安朝時代の開基であると伝えられ、伝教大師の作、薬師瑠璃光如来を以って本尊とし、七堂伽藍を備え、さらに子院二十二坊を持ち、大楽山東光院西方寺と号し、一大精舎であった。治承中、堂塔伽藍悉く燒失する。後年備中国命金山の弁辨豪上人が来て国主河野通有に謀り、その援助を得て再興する。ここにおいて通有この寺を以って祈願道場とした。しかも上人はなおその本尊がないのを心配し、親しく比叡山に登り、恵心僧都作の薬師立像を請い得て帰りまさに入仏供養をしようとした時、たまたま、庭前の桜の梢にさんさんと光輝を放つものがあった。これを見れば、前の本尊の半ば焼けた座像であった。一同大いにおどろき喜び、これを奉じて、新しく得た立像と共に安置する。当山に二躯の本尊のあるゆえんである。永徳3年豊後の鋳工、正悦をして梵鐘を作らせた。これは国宝的な名鐘であったが、後年故あって大山寺に移った。 戦国時代に戦いのために焼け、堂塔子院皆すべて焼失する。そこで寺を塔中二十二坊の一つであった十蔵坊を修築してここに移す。現在地この時寺号の西方寺を改めて西法寺とした。そ
の後多くの年月を経て文政2年本堂を改築したが、室内の設備が整わないうちに文政3年に焼失してしまった。このようにして、天保14年に至ってやっと再建をすることができた。これが現存する本堂である。たびたぴの焼失があったため財力も乏しくなり、旧時の盛んな様子に復元することはとてもできなかったのである。歴史も古く多くの宝物も多かったが、ほとんど炊けてしまったことは大変遺憾なことである。
□ うすずみ桜の由来
西法寺本堂の庭前に薄墨桜という桜がある。この桜は旧寺庭にあったものを移植し、後連々と植継ぎして今日に至れるものである。その由来については火災のために焼失し、今は正しく伝える記録がない。しかし伝承するところに依れば甲、乙、丙の三説がある。即ち甲説によると、往昔某皇后不予のおりかしこくも勅命を受け、一寺を挙げて修法祈請を行なった。そうすると、しばらくして皇后の沈痾全く平癒された。天皇勅使を西法寺へ下し、いわゆる薄墨の綸旨を賜わった。この綸旨の中で名桜の事が書いてあった。そこで薄墨桜と称するようになった。乙説に依れば、この桜花淡墨の綸旨の様に淡墨の色をしている。依ってこのように命名したのだと。甲説が今は定説となった。また、丙説には次のように伝わっている。即ち、忠伝公藤原良基かの遺体を荼毘にした時その煙が桜に当たり淡墨色の桜となった。当寺の桜はその種を移植したものであると・・‥。薄墨桜は良野桜より少しおくれて咲き4月10日〜15日ごろが見頃である。花は八重で炎紅の色をしていて、美しいというよりかむしろ崇高といえる。日本にも数少ないまことにめずらしい桜である。伊台の薄
墨桜と、山越の十六日桜と西山の姥桜とを併せて松山の三名花といわれている。
□ 植物学からみた薄墨桜
学名を「イヨノウスズミザクラ」という。若芽はこ茶色で重鋸歯がある。花期は4月上旬で葉と同時に開く。花弁は20〜25枚で淡紅色。花軸、花梗、がく筒、がく片は紅色が多く、無毛である。ヤマザクラ系のものであろうと思われる。岐阜県にウスズミザクラと同名の名桜、五弁、花梗、がく筒有毛で緑芽があるので、「イヨノ」の文字を頭に付けることになっている。郷土の植物学者八木栄一氏の研究論文より引用
□ 西法寺桜
サイホウジ桜は、西法寺の参道を登りつめたところの左手にある。若芽は赤茶色で花と共に出る。この点はウスズミ桜とよく似ている。花弁が5枚で淡紅色、おしべは35本あり花軸、花梗、がく筒、がく片などは有毛である・この点ソメイヨシノ桜とよく似ている。このサイホウジ桜は、ウスズミ桜の石囲いの中に実生でできた桜である。ウスズミ桜とソメイヨシノ桜との自然交配でできた全くの新品種である。最近、愛媛大学の植木教授によってこのサイホウジ桜が学会に発表され新品種として登録された。東京の国立遺伝学研究所の竹中博士がきっそく西法寺へかけつけて研究調査された。また、浦和市の桜の研究家川崎氏も続いておとずれ、全図に一本しかない貴重なサイホウジ桜を研究した。
□ 伊予節
伊予の松山名物名所 三津の朝市 道後の湯 音に名高き五色そうめん 十六日の初桜 吉田さし桃 小かきつばた 高井の里のていれぎや 紫井戸や片目鮒 薄墨桜や緋のかぶら チョイト伊予絣
□ 伊予万才「松山名所・づくし」
東西、あい務めまするは松山名所づくしのはじまり、さよんに。
さてめでたいは松山城、こおりとけなん山越の、じせい桜も咲きそめて、かおりも吉田のさし桃や、
道後平野を見渡せばはるかに伊予の小富士山、波に浮ぶや風早の、腰折山や善応寺、さて大山寺のおん寺は真野の長者が建てたもの、
さて又伊台のおん寺は、薄墨桜これ名所、古跡といいし江戸山の、うば桜とて今もなお、枝葉栄えし松の色 佐々木の宮や保免の、名も天満つる勅使橋、ここに今出と残されて、建立されしおん寺は、玉の御殿の金蓮寺、光を残す燈籠の松の枝葉が栄えける。
まことにめでとう候いける。
伝説を秘める薄墨桜
明治三年奉納 |
西法寺桜
イヨウスズミザクラ |
西法寺参道 |
薄墨の綸旨かしこき桜かな |
□ 西法寺沿革史 ―著者 西園寺 源透― 見出し符号 ◎
西法寺の事項 ○ 伊台に関する事項 ● 国の事項
□ ○泰古伊台は湖沼であった。幾万年経過する間に地盤の弱い、宇土居方面の地峡自然の堤防が漸次低下して水路を通し遂に干涸してしまった。その上に四方から土砂、或いは崩れまた流れ込んでいわゆる沖積層を形成し今日の伊台盆地ができたのであろう。地質学者の説
○ 上古、この地に先住民族出雲民族か栖息する。この民族は農業を営まず、牧畜をなさず、自然の果物・禽獣・魚介を食べて生活をしていた。また金属器もなく、石器や土器を使用していた。この地より石器及び弥生式土器が出土するゆえんである。考古学
○伊台には古墳が多い。今、完全に存在するものは無いが墳跡及び古墳に使っていた石は今だに残っている。1500年前の古墳と認められるものもあり、古くより文化が進んでいたことを証明することができる。
□ ○養老中、この地方条理制が行なわれた。下伊台字一の坪というところがあることによって証明できる。歴史大辞典 保乃木調
□ ○延暦11年792年桓武天皇の御宇、一条院宮この寺を開基される。浄刹を勝賀山の麓に設け、七堂伽藍を備え、子院二十二坊を置き、大楽山東光院、西法寺と号し天台宗に属した。二名集 俚諺集 塵芥集 温故録 古跡志 天明調帳
「叡山根本中堂の創建は延暦10年であり、落慶供養は13年であった。当寺の開基を延暦11年とするのは不当である。案ずるに貞観前後の開基ではなかろうか」……編者与水記
当寺の塔中二十二坊及び境外末寺と思われるものは次の通りである。
奥之坊 北之坊 十蔵坊 持仏坊 中蔵坊 津留坊 金蔵坊 大徳坊 妙行坊 古坊 佐幸坊 黒坊 御堂 焼御堂 黒御堂 鏡御堂 春寺 大窪寺 木渡寺 西福寺 願誓寺 丈六寺 永能寺 多聞院 小谷院 尼が谷坊 荒神坊 八頭八塔か法頭か 中替地坊 地蔵坊……等があり、これによって二十二坊があったことは事実である保乃木調
□ ○ 平安朝時代、上下伊台は吉原郷に属していた。伊予温故録
□ ◎治承中1177〜1180年頃堂塔伽藍ことごとく炎上する。古跡志
◎ 寿永元年、当伽藍を再興する。1182年温故録
◎弘安前後、河野対馬守通有、辨豪上人と謀り当寺を再興する。入仏供養の時、薄墨桜の梢より半焼の本尊薬師像が発見されたのもこの時のことである。二名集、俚諺集、塵芥集、古跡志
□ ◎ 永徳3年1383年4月3日梵鐘を鋳造する。 口径一尺八寸高き二尺九寸豊後丹生荘正悦の作である。編者の談、「此の鐘佳作にして国宝的なものなり。而るに幕末時代に大砲鋳造の為一旦藩に買い上げられたるも不用となり交付の際誤って大山寺に移りたるものなり」と。其の銘見開
◎応永16年1409年6月3日三千仏の絵像三幅を調整する。或る時代に高垣谷今の梅組金蔵坊覚阿法印之を求め同坊に保管していたが、後当寺に移り、享保3年1718年4月23日住持憲盛が之を修治する。今は破損している。見聞
○勝岡から八頭に越す峠の附近に500年前の板碑がある。寛政6年1465年のもので「為了妙禅尼七回忌也」と記入があり、昔本堂が平の横に尼が谷というところがあり、そこの尼僧の供養塔ではないかといわれている。
○大永中、河野通篤、上伊台梅子城に居るという。伊予二名集
編者の談「一書に勝賀城の一名を梅子城としたるものあり、何れか正しき」‥……
○戦国時代、勝賀城の一名を横山城と称す。伊予二名集
□ ◎某年天文乃至天正1532〜1591年頃当寺火災にあい焼失する。其の時二十二坊の一つであった十蔵坊へ築き移転した。以前は今の仁王門より18町約1・5
kmの奥、勝賀山の麓にあったものである。二名集 編者与水の談「勝賀山は戦国時代、城砦となり河野氏の一族が守っていたところである。山麓にあった西法寺は自然陣屋に用いられ兵火に罹ったものであろうか。」
◎天正中、当寺炎上する。明治32年調書
□ ●天正13年9月、秀吉の四国征伐に依り河野通直、域を開いて野に下る。このとき小早川隆景が伊予を領して湯築域に入って治めた。見聞
□ ○天正年間この地は河野家の家臣伊代左衛門(勝岡備前守の武将 伊代佐衛門尉)の領地であった。これによって伊代村と称していたのであるが、後になって村の中央に「台の成」という所があったため伊台村と改める。新編温泉郡誌 編者与水の談「この説何を根拠としてこの様に言ったのか大いに疑いあり」。
◎正保2年1645年7月権現社再建、別当智湛法印棟札 編者与水の談「勝賀権現のことだろう」
◎寛文13年1673年8月本堂前に石燈籠一対を建立した。其の銘による現在一つが残って当寺内庭の築山にある。
◎延宝2年16748月28日中輿開山、戒善院大阿闍梨法印盛円示寂す。天保改帳
貞亨年間に建てられたという
西法寺の庫裏
昭和41年の改築まで残っていた |
西法寺本堂と薄墨桜 |
本堂が平旧西法寺跡 |
本尊薬師瑠璃光如来 |
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□ ◎貞亨3年1686年本堂を再建、松山領内より寄附あり、この時の住職は智湛であった。
◎貞享3年9月客殿庫裡を再造する。得能調
◎貞享3年に伊予二名集が編集された。此の書は松山領内の社寺、古跡等が記録きれた最初のものであり、その中に当寺に関する記事がある。
◎元禄10年1697年12月勝加権現本殿拝殿を再興する。時の別当憲盛法印であった。庄屋玉井助九郎、組頭長兵衛、加左衛門、半右衛門、大工彦左衛門棟札
○元禄13年6月地方の草高は下記の通りである。下伊台村 五百四十四石二斗五合 上伊台村 百六十六右一斗編者与水の談「この石高は、太閤秀吉の検地以来明治維新まで変わっていないようだ。」
□ ●元禄15年12月14日赤穂の浪士、江戸において吉良義央を殺し旧主の仇を報じた。16年2月4日義士に切腹を命ぜられた。見聞
○宝永2年1705年客王神社の改築再建をする。天明調
◎享保3年1718年3月17日 中輿三世大教院法印権大僧都憲栄逝く。天保改帳
◎享保9年9月23日 中輿二世慈光院法印権大僧都憲盛逝く。天保改帳
◎享保16年、叡山の総持坊の末寺を離れ、祝谷山常信寺の末寺となる。常信寺は、和気郡祝谷村にあって松平候の菩提所である。天明改帳
□ ●享保17年、稲田にウンカ発生し.収穫皆無であった。義農作兵衛の餓死したのもこの年である。これを享保の大飢饉といっている。
◎元文4年1739年1月9日、四世玉照院法印権大僧都智湛化を示す。天保改帳
◎宝暦12年1762年7月勝家大権現社を修復する。時の別当西法寺兼務見明院住持、輿雲、庄屋玉井十左衛門であった。見明院は常信寺の塔中である。棟札
◎明和9年1772年、薬医門大破により取り除く。天明改帳
◎天明5年1785年、寺社改帳を録上する。当寺に関係するものは次の通りであった。一本堂四間四面篠葺 二客殿庫裡十間に三間半藁葺 三鎮守山王権現社三尺五寸に四尺五寸 四木部屋四間に二間半、但し大破に付き、16年前取り除く。五 地蔵堂四尺に四尺五寸 六仁王門三間に一丈瓦葺 七境内東西二十五間南北四十五間、反別三反七畝十五歩無高 八寺領田畑九反三畝二十九歩 以上
◎天明5年調べ、当寺の別当であった神社堂庵は次の通りである。
一 高垣十二社権現四間二尺に三間二かっか山勝家権現社五尺四面三勝家谷荒神社四尺に四尺五寸四高垣地蔵堂四尺五寸四方五なせど地蔵堂三尺五寸に四尺六高垣観音堂方七尺五寸七勝家谷虚空蔵堂方七尺五寸八同所観音堂方七尺九大松里地蔵堂方六尺十小谷阿弥陀堂方六尺十一土居の構 地蔵堂方五尺五寸十二三反地観音堂方四尺五寸十三北の坊薬師堂方四尺五寸十四ゆきのぶ地蔵堂方四尺五 以上
○天明6年1786年ほうづき池を廃しどうどう池どんど池のことかを築造する。
◎寛政13年1801年1月13日、六世心願院大僧都法印真韻寂す。
◎某年、七世権大僧都法印善明他所へ転住する。天保改帳
◎文化4年1807年5月、十世亮存代、大般若経600巻を購入したが不幸にして文政3年12月4日燒失する。新大般奥書
□ ◎文化、文政の頃、胎金両部曼荼羅を購入する。極彩色の密画で誠に優美である。唐画と伝えられているが室町時代の能画のようである。寛文11年修治、寛政11年に再修した。裡書
◎某年九世権大僧都法印泰通正観寺智典の弟子当寺の住職となったが、後小野谷梅元寺に遷り、そこで寂した。
◎化政の頃、八世権大僧都法印智真が当山に晋山する。
◎文政元年1817年9月現住亮存、涅槃像の大幅を修繕する。この幅は唐画といい伝えられるが確かではない。大変優秀善美の画である。明治3年松山の絵師遠藤広宗が巨勢采女正弘高の真筆と鑑定している。裡書、鑑定書見聞
◎文政3年1820年4月仁王門を再建した。住持亮存代
□ ◎文政3年12月4日回禄の災にあう。促しこの時は本堂のみ焼けたらしい。大般若奥書
◎天保元年1829年、十世冷照院権大僧都法印亮存寂滅する。
●天保7年稲田に害虫多く発生し、不作であったため天保の飢饉となった。
◎天保11年2月庫裡を修補する。得能調べ※ 昭和41年庫裡を取りこわしの際、書院の板に「天保九戊戌年九月吉祥日当寺造作仕上」という記録が出て来た。
◎天保14年1843年2月、本堂の改築が完成した。時の住職は亮栄で、これは文政3年亮存代に起工したものであった。
◎安政3年1856年5月叡山横川円衆院より来迎の弥陀三尊画像を当寺亮栄に交付され持ち帰った。裡書
◎文久3年1863年11月、薄墨桜の周囲に玉垣を作った。 この時住職亮栄、世話人松山玉水町伊代屋儀蔵、新町の伊代屋平次兵衛で竣工したのはその翌年であった。其共寄附帳
□ ●明治維新
●明治3年5月15日、平民に苗字が許されたが実行したのは4、5年の後であったという。見聞
◎明治3年1870年11月20日、第十一世権大僧都法印亮栄円寂する。
◎明治7年8月10日初めて小学校を設立し西法寺を以って校舎とする。 この時の学校名は勝岡学校という。今の伊台小学校のはじまりである。新温泉郡誌
◎明治12年10月寺院明細帳を録上する。それによると、次の通りである。一由緒略す。二本堂四間四方三小教院簿裡十間に四間四境内四百八十三坪で官有地五檀徒千二百五十八人六管轄庁までの距離一里十六町 以上
◎明治22年小学校を西法寺から旧村倉に移した。時の校長は白石熊太郎であった。
◎明治22年7月10日賦第389号を以て下伊台村共有地を西法寺所有地とする件許可せられた。 その土地は田畑、山林、墓地、三十七筆あって二町九反六畝六歩であった。
□ ○明治23年4月1日上下伊台を合併して伊台村と称した。役場を小谷院美濃部の家に設けた。見聞
撞く鐘の余韻の中をほととぎす 薄墨 美紗
三輪田米山の書
明治35年に改築された仁王門
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現在の鐘楼
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□ ◎明治25年三輪田米山が西法寺へ来て「薄墨桜」と書を残す。米山日記
◎明治35年1902年仁王門を改築する。これが今の仁王門である。住職十二世薄墨良朝の代であつた。其の寄附帳
●明治37年〜38年、日露戦争となる。
◎明治42年9月20日、下伊台内にあった地蔵堂、虚空蔵堂、観音堂、金毘羅堂、熊野堂、和田霊堂を寺内に移転した。
◎大正5年1916年4月小僧都薄墨栄達当寺に入り第十三世をつぐ。大正11年8月常信寺に転住する。師は明治23年3月5日岡山県吉備郡福谷村に生まれる。川崎卯平の第二子である。少年の頃、常信寺の加地栄照の法子となり、後に西法寺の薄墨良朝の法嗣なった。つづいて西法寺の住職となったが、常信寺の師、栄照寂後その職をつぎ現在に至っている。
◎大正九年住職薄墨栄達、西法寺の参道を改修し、石垣七十坪を築き境内の面目を一新する。
◎大正7年に薄墨桜の保勝会を設け、当寺に事務所を置いた。この時藤岡勘左衛門より吉野桜300本が寄贈されたので境内外に植えた。
◎大正10年4月28日十二世義照院大阿闍梨僧都法印良朝寂す。年八十二歳であった。師は天保11年美濃の国の生まれで五明の仏性寺に住職していたが、後明治4年10月当山に転住し薄墨氏と称した。
◎大正12年9月13日、権少僧都賢浄、岡山県八塔寺より当寺に転住し第十四世となる。 師は明治31年2月28日岡山県吉備郡福谷村大字真星七百七十六番地に、川崎卯平の第三子として生まれる。
◎大正15年秋、庭前の薄墨桜が枯れた。これより先、接木した幼樹が枯株の付近で育っていたのでこれを継嗣と定め元の玉垣をその周囲に移設した。
◎昭和3年1928年5月9日梵鐘を鋳造する。大工京都市高橋才次郎、工費六百十四円を要した。時の住職は薄墨賢浄であった。
◎同年11月10日鐘楼を建立する。大工三好銀次郎、門田丑太郎、工費金一千六百八十一円を要し、外に金三百円の修繕準備金を積み立てた。
□ ●昭和12年7月7日北支事変がはしまる。
○昭和12年6月17日朝香宮鳩彦殿下が下伊台へご台臨、経済更生の状況を視察され更生館で休息された。時に名村長白石積太郎氏の時代であった。村民は、更生踊りを台覧に供した。その時いっしょに来た人は愛媛県知事、第十一師団長、外数名であった。
□ ●昭和16年12月8日、大東亜戦争はじまる。
◎昭和17年3月、境内官有地四百八十三坪払下願に対し許可が下った。この時の価額四百八十三円也。
◎昭和17年5月15日、西園寺源透、玉井助四郎、相原千慧等太山寺を禎察し、西法寺の銘ある鐘銘を拓本にする。これが動機となって西法寺史を作ることになった。同年6月23日、西園寺源透与水西法寺沿革史の稿を完成する。
◎昭和20年2月太平洋戦争の未期西法寺の梵鐘が、供出代金301円69銭で買収された。
□ ●昭和20年8月15日終戦となる。
◎戦後・西法寺供出の梵鐘の行先について住職薄墨腎浄は入方手を尽し苦心の結軋香川県高松市の供出金属品滞貨の中にあるかも知れないことを鞠き・恵ちに高松に行き山積された供出金属の中に西法寺銘入りの想鐘が無きずで存在することをつきとめた0昭和21年10月山内福三郎氏をともない現場に行った。終戦後無秩序極まる管理者に交渉して、代金供出時に受け取った金額は愛媛県庁に支払う約束書を手液し交渉ができた。運搬者を頼むのに人がなく困ったが、持参の白米三升を見せると直ちに高松駅まで運んでくれた。かくて無事梵鐘は西法寺に帰還した。
◎昭和22年より農地改革が実施された。西法寺の所有する田畑、山林のほとんどが県からの買収令書によって次々と買収された。買収前の西法寺の所有財産は1田 一町一反三畝十二歩2畑 三反一畝二十歩3山林 一町三反三畝六歩 買収後の寺有財産は1宅地 三畝十五歩当時非農家の宅地であったもの2 雑地 一反十四歩当時、竹薮、草地、荒廃地であったもの3山林 九反五畝二十人歩 農地改革による寺有地代金は 計 14、973円95銭也
□ ◎昭和25年、西法寺本堂の修繕を行なう。経費 合計23・800円也 奉仕作業延52人役
◎昭和25年、宗教法人「西法寺」となる。本寺 常信寺 法願 常信寺、正観寺 佛性寺 組寺 医座寺、円福寺、吉祥寺
□ ◎昭和29年「釈迦如来坐像」が11月
24日、県重要文化財として指定された。
◎昭和33年11月6日に第十四世至誠院大僧都賢浄遷化する。帥は、13才にして岡山寺で得度した。大正8年3月岡山県岡山中学校卒業後、八塔寺の住職となり、大正12年9月13日西法寺の住職となった。その間、昭和15年伊台村の役場の書記、厚生援護会主事を兼ねる。昭和13年より愛媛県方面委員として8年間その任につく。昭和17年より司法保護委員として、また昭和21年より愛媛県民生委員として、方面委員の仕事をつく。昭和22年天台宗四国教区主事となる。昭和30年松山市に合併されるや引きつづき松山市の主事として60才まで勤務する。西法寺の住職37年間に及び60才で寂す。
庫裏改築工事現場写真
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完成した庫裏
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◎昭和33年12月16日、薄墨賢衛第十五世西法寺住職となる。
◎昭和34年11月、本堂、仁王門、屋根大修繕及び庫裡修繕、屋根換、座板修繕など西法寺の大修繕をする。総経費77万8000円也。経費はすべて檀信徒による浄財寄付による。
◎昭和36年8月西法寺資産台帳を完成する。
□ ◎昭和37年11月、薄墨桜が松山市の天然記念物として文化財に指定きれた。
◎昭和38年12月の末、第一同庫裡対策委員会を開き、老朽した庫裡を細部にわたり視察点検し、改築の必要を認めた。地区内には、温泉開発、プール建設、保育園移転等公共物の事業が目前に追っているので改築の時期は決定せず、研究をすることになった。
◎昭和39年5月の大雨で庫裡が全面的に雨もりした。
◎昭和40年3月3日寺総代会を開き庫裡対策につき協議する。つづいて3月6日円福寺の庫裡修繕の様子を視察する。住職及び総代
◎昭和40年4月23日郷土顕彰会が西法寺で開かれた。振興委員・部落総代・檀徒総代の一行30名が大雨の中を西法寺に集まり、庫裡の現状を再び視察し、庫裡改築の件を満場一一致で認めた。
◎昭和40年5月1日庫裡設計図を住職が提案し、檀徒総代これを承認する。つづいて松山市の夷子技師に実際の設計を依頼した。
◎昭和41年、寺有地山林の一部及び松、杉の立木を改築費用の一部として売却する。
◎昭和41年1月30日入札の結果、勝岡組が落札し施工者と決定する。2975、000円 工事施工者 神野 勧 大工頁任者 川本 貞夫 大工 岡宮 寿郎、杉浦 義光
◎寺有地山林売却代金及び檀徒寄附金、特別寄附金等合計5889、686円也。庫裡改築の他に、本堂の修理、参道の修理等も同時に施工した。
□ ◎昭和41年9月17日、西法寺庫裡の落慶式を行なう。工事関係者、多額寄附者、改築委員、来賓各位、部内寺院住職等多数参加。
◎昭和42年4月9日、薄墨桜満開時に、庫裡客殿改築記念、本尊薬師如来お開帳大法要を行なう。
◎昭和45年9月、「一隅を照らす運動」西法寺支部を結成する。会員152名
□ ◎昭和47年7月17日、本誌薄墨桜と西法寺を刊行する。
薄墨の論旨かしこき桜かな
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振り返り見る故里の山粧う
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なる鐘の音よき日なり初桜
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□ 薄墨の論旨かしこき桜かな 極堂
昭和27年4月西法寺の山門前に、柳原極堂翁の直筆による極堂の句碑が建立きれた。
振り返り見る故里の山粧う 立城
昭和46年10月24日、西法寺の入口、地蔵尊前の庭に、伊台出身中野甚三郎俳号 立城氏の直筆による句碑が建立された。東京都、高砂建設kk社長
なる鐘の音よき日なり初桜 春甫
昭和41年9月に西法寺の本堂の西がわに衆松春甫氏の句砕が建立きれた。この句の作者乗松救氏は、明治32年〜36年頃の伊台村長であった。晩年は、俳句に心を傾けて、春甫と号した。
□ 記念写真
◎由緒ある薄墨桜に因んだ薄墨羊羹は,風味・栄養・容姿保存などにも特に優れ ていることから、松山近在の人々や道後温泉を訪れる旅人に古くから親しまれて きた。
◎(明治27〜28年)日清戦争の頃,大本営が広島に移されている時、薄墨羊羹の創始者中野歌二郎氏(号松雲)は召されて16才にして御用菓子の製造に伺候した。時の伊台村長松本紋次氏は,薄墨桜の一技を献上せしめ天覧に供した。 これに感激して,松雲の帰松後始めたのが薄墨羊羹である。(昭和27年極堂の句碑を西法寺に建立、除幕式当日来寺された松雲翁の実話より)
◎ 明治7年初代、中野元三郎氏が現在地,松山市大街道一丁目「中野本舗」で独特の製法により創始し,既に百年になる。歴代社長 初代 中野元三郎、二代 中野歌二郎、三代 中野 英幸(現社長)
□ 編集後記
今を去ること、30年前、時昭和17年6月、松山在住の郷土史家の西園寺源透氏によって西法寺沿革史が完成された。 これは、西法寺にとってまさに画期的な大事業であった。西法寺の開基は非常に古く、千年以上も法燈が連錦として継承され今日に及んでいる。今後更に発展を期するためには、太平洋戦争から終戦後、また今日に至るまでの西法寺に関する事実の記録を残し、多くの人々に由緒ある西法寺と名桜うすずみざくらの由来を知っていただきたいものである。 そこでこの度、「薄墨桜と西法寺」を編集し、単行本として発行することを発起したわけである。この発行、企画には、松山市小栗町の巨ツ葉図書の社長村上勉氏が、西法寺入檀記念として、編集はもとより印刷・製本のすべてを奉仕的に引き受けてくださった。且また、上向治郎氏には編集その他についてご奉仕を煩わした。両氏の善意に対して衷心より感謝の敬意を表するものである。
賢衛合掌
「薄墨桜と西法寺」は非売品です。
昭和47年7月17日 初版発行
発行所 愛媛県松山市下伊台町969番地 西法寺 089 977-0037
発行者 薄 墨 賢 衛
印刷所 愛媛県松山市小栗町340-3 巨ツ 葉 図 書 089 943-1165 |
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