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花見や動物園で親しまれた道後公園埋蔵文化財調査 現地説明会から


配布されたパンフレットから
← 河野通尭(後に号して通直)から六代目に当たる湯築城城主 弾正少弼(だんじょうしょうひつ)河野通直(こうのみちなお)公の図(予州風早郡高縄山城主 温泉郡湯月御在城 弾正少弼 河野通直 河野伊予守越智朝臣通直卿、元亀3年8月26日淑)

実は河野通直は4人います。 リンク 河野氏

弾正少弼の6代前の河野通尭或は号して通直

弾正少弼の二代前の河野通直刑部少輔或は号して教通 称して冨春斎、明応9年正月20日淑

弾正少弼の二代後の河野伊予守通直号して長生院殿又の号天徳寺殿、天正15年淑(湯月城最後の城主)

(予章記・水里玄義 伊予史談会双書)

平成11年2月12日遺跡発掘現場で午後1時から行われた説明会には、予想を遥かに超える500人以上(主催者発表)の考古学フアンが集まりました。

河野家家臣団の住居跡が発掘され、その説明会開催のニュースをテレビで見て参加しました。

ご先祖は河野家流族18家の一つ湯築殿直勤之御旗本近習和気郡衆 伊代佐衛門尉ですので、その住居跡に立ってみたかったのです。


『文化財フォーラム愛媛(旧称:道後湯築城跡を守る県民の会)』

 現在の日本では、全国どこへ行っても同じような雑然とした町並が多くみられます。 いま、個性的な地域づくりをはかるためにはどうすればよいか、市民と行政が互いに英知を出し合い、プランを練り上げていく必要があります。 その際、それぞれの環境や歴史と結びついて生み出された文化遺産を地域づくりの核にしようという機運が全国的に巻き起こっています。 考古学ブームの中で古代のロマンを求める人々を引き付ける佐賀県の吉野ケ里遺跡、掘り出された戦国時代の城下町を整備・復元して有名になった福井県一乗谷の朝倉氏遺跡をはじめ、町づくりや観光地として成功したケースは少なくありません。 文化財は、「貴重な国民的財産」であり、「わが国の歴史、文化等の正しい理解のため欠くことのできないものであり」、「将来の文化の向上発展の基礎をなすもの」です(文化財保護法)。 これからの地域文化を生み育てていく拠点として、全国にも誇れる魅力的な観光地として、湯築城跡を本格的な史跡公園として整備していくことが望まれます。
 私たちは、1989年に「道後湯築城跡を守る県民の会」(略称:守る会)を結成して以来、湯築城跡の遺跡を保存し活用する運動を続けてきました。自分たちの住む地域の将来構想を行政に任せきりにするのではなく、市民自身が公園づくり・町づくりに積極的に発言していこうと考えたからです。 伊予の歴史を学習し河野氏の歩みを調べる中で、湯築城跡のもつ歴史的な重要性は一層はっきりしてきました。それは、継続中の発掘調査においても、ますます裏づけられつつあります。運動の高まりによって、愛媛県の公園整備プランも大きな修正がなされることになったのです。私たちの会は、湯築城跡のもつ歴史的価値を十分に解明し、それを積極的にアピールする方向で公園整備を進めるべきだと考えています。そのために必要なことは、まず国史跡の指定をうけることです。その上で、文化庁の指導も受けながらしっかりと基本構想を立てて調査に取り組むべきでしょう。専門調査員のいる研究所や資料館の設立も不可欠です。同時に、私たちは公園を広く市民や観光客の憩いの場として開放するため、できるところから整備を急ぐよう主張しています。国史跡の公園として多くの人々に親しまれている松山城や宇和島城に比べても、決して劣らない公園になるはずです。

『文化財フォーラム愛媛(旧称:道後湯築城跡を守る県民の会)』 入会のすすめ

私たちの会では、以上の趣旨に賛同される方に、1人でも多く会員になっていただきたいと考えています。年会費1500円を納付することで、どなたでも入会できます。また、会では運動の理解を深めるために、各種の出版物も刊行しています。

当会に関するご連絡・お問い合わせはこち


 会場での説明は非常に親切かつ丁寧でした。驚いた事はわずか3人の考古学者の方が10年かけて発掘されたことでした。正直言って説明会に出るまでは「何をとろとろ掘りよんじゃろか」と思っていましたが、今は関係者の苦労に頭が下がる思いです。また、発掘したのは、ほんの一部でまだまだ埋蔵物がある可能性が残されているにもかかわらず、予算の関係で発掘を終了したとのことです。国際文化都市と銘打った松山市の市民としてはちょっと腑に落ちないところです。

 私にとって新発見は、昔の大手門は今のグランド側にある東口で、搦め手門が道後公園電停前の位置だった事です。北側と南側にも入り口があったらしいのですが、未だ確認されていないそうです。湯築城の石が松山城築城のとき使われたと云うのは、あくまで口伝で事実かどうか分からない事(湯築城の石は自然石で切り石ではないので使われたとしても捨石として切り石の隙間に埋められたのでは?)、全部発掘したのではなくごく一部だと云う事などです。

昔の大手門は今の・・・・・は「道後湯築城跡を守る県民の会」運営委員 土居 敬之介 氏 の指導で 訂正’99.10.15
(説明会での私の聞き違いでした。お詫びして訂正いたします。)

追記(説明会会場での前説から)
 慶長7年廃墟となって以来荒れ放題のままだった。愛媛県は明治21年道後公園として整備され桜の名所として市民に親しまれました、昭和28年、ご存知のとおり子供たちに親しまれた道後動物園になりました。

個人的回想
 私の子供の頃は道後公園でしたが、お花見や遠足で良く遊びに連れてきてもらいました。道後の湯に入ったあともここに連れてきてもらいました。今にして思えばご先祖(湯築殿直勤・和気郡衆・伊代佐衛門尉)の居住した廓跡の上で遊んだ訳です)


@ 遺跡名称 道後蕩築城(ゆづきじょう)跡
A 所在地 松山市道後公園
B 事業主体 愛媛県
C 調歪主体 (財)愛媛県埋蔵文化財調査センター
D 調査期間 平成10年7用16日〜12用25日
E 調査面積 1,650m2
F城の規模 東西295m(外堀含)、南北350m
G城の特徹 二重の堀(外堀・内堀)と土塁(外堀土塁・内堀土塁)に囲まれた平山城

河野氏と湯築城

 中世伊予の守護として河野氏は有名です。しかし、それ以前の武士団としての発生段階はよくわかっていませんが、古代の豪族越智氏の末裔(まつえい)であるといわれています。
 平安時代では文献(『吾妻鏡(あづまかがみ)』)に河野通清(こうのみちきよ)が登場し、中予地域を軍事力をもって押領(おうりょう)していたことが記載されています。
 鎌倉時代の河野氏は、現在の北条市にあたる風早郡河野郷くかざはやぐんこ うのごう)を拠点とし勢力を拡大していきます。 湯築城という名が初めて文献(『忽那家文書(くつなけもんじょ)』)に登場 するのは、康永三年(1342年)に忽那氏が「湯築城責」を行なったとい うもので、この時期道後平野をおさえる拠点として湯築城が築かれて いたことがわかります。
 観応元年(1350年)には河野通盛(こうのみちもり)が守護職に補せられ、その 後一時的に細川氏との間で守護の奪い合いがありましたが、戦国末期 まで伊予国守護としてその地位を受け継いでいきます。しかし、近隣 諸国から幾度となく攻撃を受けたり、お家験動(惣領職の継承をめぐ る分裂)や内紛(家臣の反乱)を繰り返し、その地位は決して平穏で 安泰な時期ばかりではありませんでした。その証拠に湯築城が政(まつり ごと)を行なう本拠地として幾多の戦乱に巻き込まれていたことが文献 (『予陽本(よようぼん)』・『築山本(つきやまぼん)』)に記載されています。
 天正13年(1585年)、四国統一をめざす豊臣秀吉の命を受けた小早川 隆景が湯築城を包囲し、河野通直(こうのみちなお)は降伏します。ここに中 世伊予の名族河野氏の支配は最期をむかえます。
 湯築城には小早川隆景が入城しますが、2年で筑前(ちくぜん)に配置換 えとなり、次に福島正則が伊予を拝領し一時的に使用されましたが、 今治市国分に政務の中心を移したことにより、湯築城はまもなく廃城 となりました。


搦め手門跡付近 土塀と内堀跡の一部 上級家臣団の住居跡
(搦め手門付近は下級家臣団)
頂上からすこし下の家?跡
(この下には堀切跡がある)
発掘された土器類 発掘された古銭

花見や動物園で親しまれた道後公園埋蔵文化財調査 現地説明会から その2