西法寺住職 薄墨賢衞 |
西法寺と河野家の関係は、弘安年間(1280)前後の河野通有から河野家滅亡の天正十三年(1585)河野通直までの、約300年間に集中している。 |
河野家ゆかりの事物は、 |
地域に伝わる伝説及び地名・城跡・西法寺に現存する仏像・河野家首領三名の位牌・本尊厨子の扉に有る河野家の家紋などかなり多い。 |
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<西法寺の再興> |
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西法寺は、延暦11年(792)桓武天皇の頃、一条院宮によって開基される。一説には貞観前後の開基とも言われている。 |
天台宗に属し、大楽山東光院西方寺と号す。 |
伝教大師御作の薬師如来を本尊とし、七堂伽藍を備え、二十二坊の子院を持つ一大精舎であった。 |
しかし、治承年間(1180)七堂伽藍が全焼する。弘安年間(1280)前後、河野対馬守通有が西法寺の再興に寄与する。 |
この地は河野家の居城(湯築城)より艮(うし‐とら【丑寅・艮】十二支で表した方位で、丑と寅の間 北東の方角 東北 鬼門キモン)の方角に当たるを以て、 |
鬼門鎮護の道場とした。 |
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愛媛県指定有形文化財(彫刻)木造釈迦如来座像、河野通有の寄進といわれている。釈迦如来座像は、象高63・6p、座張り71・2pの象である。 |
面相は豊かな表情をたたえ、全体の容姿はよく均整が採れ、螺髪に古い手法がみられるが、衣文の刀方などから鎌倉時代中期の作とみられる。 |
(「愛媛の文化財」愛媛県教育委員会平成5年3月31日発行より) |
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<勝岡城と西法寺> |
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河野通有の次男九郎通茂を居館を栢谷(カヤダニ)殿と称した。現在の上伊台町萱谷(カヤダニ)に住み、農耕しつつ、いざ戦となれば、城に立て籠もった。 |
勝岡山に城砦として築いたものが梅子城(勝岡城)である。梅子城を築く際に、西法寺の位置を勝岡山に約200メートルほど近づけて再興したのも、 |
西法寺を陣屋として利用したのではないかと思われる。 |
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<伝説「鯉のぼりを立てない伊台の里」> |
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大永年間(1521)頃、梅子城(勝岡城)を居城としていた河野通篤が湊山城との戦いで形勢悪く、伊台の入口「オオマツリ」まで逃げ帰った。 |
時に伊台の里では菖蒲の節句で鯉のぼりや幟を立てていた。 |
それに驚いた馬が立ち上がって前進せず、通篤は討ち取られた。それ以来伊台の里では鯉のぼりを立てなくなったと言う。 |
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<河野家の滅亡と西法寺の関わり> |
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西法寺は再三消失しているが、天正13年(1585)に豊臣秀吉の四国攻めの際、勝岡城が落城し、時を同じくして西法寺も炎上した。 |
それまで西法寺の「法」は「方」を使ったが、以後西法寺は旧西方寺から1km下った現在地に移り今日に至る。 |
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<河野家と伊台村> |
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天正年間(1580)頃に伊台は、河野家の家臣伊代左衛門の領地であった。 |
また、村の中央に「台の成(ダイノナル)」という所が有ることより伊台村と称されるようになったと伝えられる。 |
江戸時代に西法寺の檀家に伊代屋を名乗る者が数軒住んでいたことは、西法寺の過去帳に拠れば確かである。 |
この伊代屋が伊代左衛門の子孫で有るとは断定できないが、江戸時代中期から後期にかけて松山へ転出した。 |
松山へ転出後も檀家であり、天保14年(1843)西法寺の本堂改築に当たり各伊代屋から応分の寄進があった。 |
また文久3年(1863)薄墨桜の周囲に石の玉垣を作るに当たり、伊代屋儀蔵と伊代平次兵衛が世話人となり |
他の伊代屋も寄進者として記録に明記されている。 |
明治を迎え伊代屋は、勝岡家・伊台家・長谷川家・越智家等々と改姓した。その内の勝岡家は現在も西法寺の檀家である。 |
下伊台町に「屋敷」という地名があり、現在は十数軒の民家があり、その辺りは「ヤシキ」と呼ばれている。 |
伊代屋の屋敷跡という名残りではないかと思われる。「ヤシキ」の中央辺りに河野姓を名乗る家が一軒有り、西法寺伊台地区では |
只一軒の河野姓であるが、なぜ河野家を名乗ったのか不明である。 |
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<西法寺に現存する河野家の位牌> |
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@霊常院殿勝岡備前守心一大居士 河野通茂か? |
勝岡大権現社に霊常院殿とあるところから河野通茂ではないか考証中。 |
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A西法寺殿前豫州大守道賢秀嶺大居士 河野通智か? |
嘉吉三年九月二十三日(1443年)没。 |
河野伊予守通智が嘉吉の乱当時比叡山に於いて金蔵王を奉じて戦い、共に討死にすという。 |
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B詔光院殿故近州大守迦亨宰典清晃大居士 河野通篤か? |
亨録三年三月三十一日(1530年)没。 |
詳しいことは不明。 |
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