四国霊場八十八ヶ所 第51番札所 熊野山 虚空蔵院 石手寺 |
中村俊夫画伯 海の藻屑と消えた特攻隊員を描く |
地元の呼び名 通称 「お大師さん」 愛媛県松山市石手2-9-21 石手寺寺務所 TEL 089(977)−0870 |
ビルマ(ミャンマー)戦線戦没者慰霊塔 パゴダ 地図でご案内 |
軍歌 |
与謝野晶子 歌碑「伊予の秋・・・」 中村俊夫画伯 海の藻屑と消えた特攻隊員を描く 「襖絵」 大講堂前庭の群狸 |
「南無」は南無阿弥陀仏の「南無」で、「・・・に帰依する」こと。「大師」「遍照金剛」は空海の尊称。俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお(まな))。 |
「南無大師遍照金剛」とは「空海」即「弘法大師」に帰依する、仰せのままに、という事です。 |
【遍照金剛】 光明があまねく照らし、その本体の不壊(フエ)であることを表す語。大日如来の密号。空海の金剛号。 |
早く病気が治るようにと願う時 薬師如来の 御真言 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか |
生麦大豆二升五合(なまむぎだいずにしょうごんごう) 災難除け御呪い 御宝号「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」が転訛したもの |
石手寺の裏山 大師像に沈む夕日 2008/01/08〜10 17頃 南無大師遍照金剛 |
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国宝に指定されている 楼門・二王門 | ||||||
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本堂の左にある 薬師如来および薬師経を信仰する者を守護するとされる 十二神将(じゅうにしんしょう) 中央は薬師如来像 | ||||||||||||||||||
十二夜叉大将(じゅうに・やしゃたいしょう)、十二神明王(じゅうに・しんみょうおう)とも云われっる 干支に置き換え | ||||||||||||||||||
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薬師如来 薬師瑠璃光如来 やくしるりこうにょらい 東方薬師瑠璃光如来 別名 医王 |
薬師如来は両脇に日光と月光の2菩薩と、さらにこれらを守る12の武将・十二神将を従えています。 |
十二神将とは、薬師如来の世界とそれを信仰する人々を守る大将で、一体に7.000人の眷族(けんぞく・部下)を率いているといわれます。 |
大晦日の万灯会(2003.12.31 21時ころ) | NIKON COOLPIX 8800 |
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・・・・・東京を立つ際に虚子先生から教えられた通りに、 松山市に泊まらないで道後温泉の「鮒屋旅館」(現在の「ふなや」)に泊まった。・・・・・ | |||||||||||||||||||||||||
・・・昭和6(1931)年11月3日(火)明治節の夜、道後温泉にて 「ふなや」詳細地図 | |||||||||||||||||||||||||
紀行『四國遍路の記』 昭和6(1931)年11月3日(火) 『優勝者となれ』に所収された四国旅行の紀行文より | |||||||||||||||||||||||||
付記 晶子は堺の老舗菓子商・駿河屋の娘・・一泉堂の玉饅頭を買う・・・一泉堂ホームページ | |||||||||||||||||||||||||
堺市立文化館の与謝野晶子文芸館 と 愛媛県立図書館 の御協力に謝辞 |
正面三叉路 | 仁王門 | 仁王門の大わらじ | 大わらじ |
伊台村誌によれば |
和銅五年二月(元明天皇の頃)伊予の大領越智玉興(越智姓は河野家の祖)が安養寺を建立されたとある。 |
又、石手寺縁起では神亀五年(聖武天皇)伊予の太守越智玉純が霊夢を蒙り十二社権現、天人、二十五菩薩が来臨せらるるを見て |
この地を浄域として十二社権現を祠り勅願所としたことに始まります。 |
(何れにしても今から千二百年以上昔の古い時代の建立です)爾来千二百有余年その状を古式により毎年四月四日に再現して諸仏菩薩を供養している。 |
これが練供養の由来です。 |
式典に使用する古面、装束のうち菩薩、天人、獅子などは平安、奈良、鎌倉の諸代にわたる傑作で寺宝として宝物館におさめられています。 |
本尊は薬師如来で天平元年行基菩薩の開眼されたものです。 |
平安期より室町期に至る間が最も隆盛期で寺域東西数十町七堂伽藍六十六坊を有しておりましたが、 |
永録九年長宗我部氏の兵火のために十二間四面重層の金堂を初め堂宇の大半を焼失してしまいましたが、 |
今も尚四国霊場第五十一番の札所で地方名刹の随一として松山地方大師信仰の中心であり霊験あらたかなところから善男善女の参詣はあとをたちません。 |
当山奉祀の弘法大師ご自作ご尊像は寛治三年堀川院のご下賜せられたもので、建造物の大半は国宝、重要文化財となっており、 |
四国霊場の中でも由緒ある寺の代表的な一つです。 |
裏山の大師像 | 願掛け草鞋 | 境内に立つ大師像 | 正面に立つ大師像 |
寺の案内パンフレットによれば |
七百二十八年(神亀五)聖武天皇の勅使によって創建され、当時は安養寺と称していましたが、八百十三年(弘仁四)に石手寺と改められました。 |
寺名にまつわる伝説は有名で、領主河野伊予守息利の長子息方は衛門三郎の生まれ変わりといわれ、 |
出生後三歳まで、弘法大師筆の「衛門三郎再来」とか書かれた小石を左手に握っていたと伝えられ、その小石が今も寺宝として残っています。 |
又、この寺には、国宝の仁王門、重要文化財の本堂、三重の塔(塔婆)、鐘楼、護摩堂、五輪塔などのほか、数多くの貴重な文化財があります。 |
願掛け草鞋 | 裏山の大師像 | 節分スナップ | 曼荼羅の洞窟内部 |
衛門三郎縁起 |
昔伊予の国浮穴郡荏原の郷に「衛門三郎」という非常に慾の深い長者がいました。 |
ある日門前に一人のみすぼらしい托鉢の僧が訪れましたが衛門三郎はこの僧が弘法大師である事も知らず |
僧の持っていた托鉢をとりあげて投げ捨ててしまいました。 |
ところがその後八人の男の子がことごとく死んでしまいました。 |
これには強欲非常な衛門三郎も恐ろしくなり、邪見をひるがえし、家をすて身を忘れて四国巡拝に旅立ちました。 |
然しいくら四国をまわっても大師にお会いする事が出来ず遂に二十一回目天町八年阿波の国焼山寺の麓で病に倒れ明日をも知れぬ身となりました。 |
その時突然弘法大師が枕元に現れ彼の手に一寸八分の石に衛門三郎と刻み授けますと衛門三郎も安心して息を引き取りました。 |
この衛門三郎の生まれ変わりが河野息利の長子、河野息方と言われています。 |
本堂 | 本堂 | 三重の塔 | 鐘楼 |
裏門(外から) | 安養閣 | 裏門(内から) |
仁王門 | お札堂 | お札堂 | 無縁佛地蔵 |
2004.02.03 節分スナップ |
石手寺 |
道後温泉の東一km、四国霊場五一番の札所。聖武天皇神亀五年(七二八)勅願により越智玉純が建てたというから歴史は古い。 |
市内でこの寺ほど多く見るべきものを持つ所は他に例を見ない。 |
国宝一つ、重要文化財建造物六つ、工芸品(鐘)一つ。 |
県指定の有形文化財工芸品三つ、彫刻五つ、絵画一つ、市指定の物件工芸品二つ、歴史資料三つ、考古資料三つ、古文書一つ、天然記念物一つと誠に豊富である。 |
建造物について |
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石手寺の金剛力士像 | |
仁王門は国宝。文保二年(一三一八)の創建といわれ、三間一戸楼門、屋根入母屋造り本瓦葺の重層で、 | |
全体の容姿はよく均整がとれ全国屈指の楼門といえる。 | |
大体の手法は和様であって、一部天竺様の手法を加味しており、虹梁、斗組、蛙股など | |
いずれも鎌倉時代建築の特色を示しており、蛙股の手法は鎌倉時代の代表作といわれる。 | |
特に建築の細部は国宝太山寺本堂と、その技法に共通のものがみられ、すぐれたその時代の遺構として全国に誇り得るものである。 | |
金剛力士は運慶派の名作(県指定)、鐘楼は重層袴腰、入母屋造、桧皮葺。楼上の梵鐘(重文)には建長三年(一二五一 )の銘がある。 | |
塔婆(とうば)は三重塔で三間四方の和様建物で、容姿はよく均斉のとれた清楚な感じをうける。 | |
その構造、局部の表現技法からみて、国宝の楼門と期を同じくし、規模雄壮な建物である。 | |
本堂は桁行五間梁間五間、屋根は深い入母屋造り本瓦葺、柱はすべてが円柱が使用されている。 | |
に‐おう【仁王・二王】 ワウ | |
伽藍守護の神で、寺門または須弥壇シユミダンの両脇に安置した1対の半裸形の金剛力士。 | |
普通、口を開けた阿形アギヨウと、口を閉じた吽形ウンギヨウに作られ、一方を密迹ミツシヤク金剛、他方を | |
那羅延金剛と分けるなど諸説がある。ともに勇猛・威嚇の相をとる。仁王尊。 |
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訶梨帝母天堂(かりていもてんどう)=鬼子母神 | |
護摩堂は宝形造、和様の簡素な建物であり、柱には面とり角柱が使われた特異な構造をもっている。 | |
訶梨(かり)帝母天堂は桁行一間、梁間一間、桧皮葺きの一間流れ造りの小祠である。 | |
正面にただ一 つある蟇股は国宝の楼門のそれと同じく優秀な技法がうかがえる。 | |
安産祈願のお堂として親しまれ、産婦がここの石を持ち帰って安産を祈り、 | |
無事出産すれば借りた石と別の石を持参して感謝する風習がある。 | |
かりていも【訶梨帝母】 | |
(梵語 青色の意) 鬼子母神キシモジンのこと。 |
五輪塔 |
高さ二七三cm、花崗岩の大きいもので、損傷をまぬがれ、当初の姿を残すもので地水火風空まことに均整がよく整い、堂々たるもの。 |
手法から鎌倉時代のものと認められる。 |
重要文化財 その他講堂の庭のしだれ桜は「みかえり桜」といい市指定の天然記念物と豊富である。 |
宝物館内の展示品 |
四月四日のお練供養に用いる獅子頭、菩薩面(二五面)のうち六面は室町期の逸品だ。 |
制札(市指定)は温泉利用者に対し石手寺一山の僧の入浴日を定め一般人を禁止したもので、 |
石手寺のもっていた権力が知られ面白い。棟札は国宝はじめ時代を語る貴重なもの。 |
そのほか掛仏(市指定)出土品(布目瓦、弥生土器、石剣など)古文書、衛門三郎伝説の『玉の石」も宝物館内にある。 |
衛門三郎のこと |
遠い遠い千年も昔、伊予国浮穴郡荏原の郷(恵原町)に衛門三郎という強欲非道な長者がいた。 |
うだるような夏のある日、弘法大師がこの男の邸に托鉢に来た。 |
快よい昼寝の夢をやぶられて三郎は立腹した。「乞食坊主奴、うるさい立去れ」大師は目をとじたまま読経をつづけた。 |
「去れというにわからぬのか」三郎は杖をひったくって手の鉢をはっしと打った。鉢は八つに割れて飛散る。 |
「誠に非道な男ではある、心を改めぬと何か不幸が起るであろう」大師はつぶやいた。 |
「乞食坊主のくせに生意気をいう、早く去らぬと犬にくわせるぞ・・・」大師は静かに遠ざかった。 三郎の八人の子が次々と変死してゆく。 |
三郎ははじめて己の罪を悟り弘法大師の姿を求め四国巡礼の旅に出た。 |
「一目あの僧にあって、ざんげしたい、このままでは死にきれない・・・」こう言いつづけ二十何回目かの巡礼で十二番焼山寺へたどりついた。 |
余命もないとき、こつ然と大師があらわれ「お前の罪は許された、河野一族の子に生れ変るであろう・・・南無阿弥陀仏・・・」 |
三郎は「衛門三郎再来」と書いた小石と経文一巻を手に大師を伏し拝みつつ世を去った。 |
天長八年(八三一 )の出来ごとであった。 |
城主の子が手を開かぬ。 |
安養寺に祈念したところ手を開き、この石が出た。石を寺に納め寺号を安養寺から石手寺と改めたという。 |
この伝説の裏付 |
本堂前の春日燈篭の台座に嘉元四年(一三〇六)、安養寺と鋳造したものがある。毎年八月二十日は永代せがきで善男善女でにきわう。 |
文学的な遺跡 |
花入塚は本堂正面石段の東にある。天明年間(一七八一 )発行の「全国芭蕉塚銘鑑」に名をつらねる古い「芭蕉塚」句碑である。 |
万葉仮名で「宇知与利氏波奈以礼左久戻牟女津波几』とあるのが面白い。 |
句碑はこの他、鐘楼の東に『身上や御(みくじ)を引けば秋の風・・・子規(極堂筆)と回廊入口に、南無大師右手の寺よ稲の花・・・子規筆」。 |
変ったのでは川柳人前田伍健の句碑もある。 |
「鎌倉のむかしを今に寺の鐘』 明治二八年九月二〇日、子規は極堂と二人で石手寺に散策して、 |
以後二一日、一 ○月二日、六日、七日と五回の散策を試み、その記録を散策集と名づけた。 |
その抜萃「山門の前の茶店に憩ひて一椀の渋茶に労れを慰む・・・駄菓子売る茶店の門の柿青し・・・大師堂の縁端に腰うちかけて息をつけば、 |
其側に落ち散りし白紙、何ぞと開くに・・・」これが「おみくじ二四番凶」であり中に「病事長引かん命にはさわりなし」などとあり、 |
身の上や御(みくじ)を引けば秋の風 |
この句は病後の子規の心情にてらし、身のしまるような思いである。この日子規の吟行句は四十六句に達した。 |
護摩堂にさしこむ秋の日脚哉 子 規 |