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石手寺大講堂の「襖絵 戦友」 (五百羅漢) 全8対(16枚)
画伯も元予科練の特攻隊員であったが出撃予定前日終戦となる。
彼はその心情を多く語らず。「無念」と「申し訳なし」のみ、察するに余りあり。
1987年3月、今は無き戦友の面影を絵筆に託して描いた力作「戦友」を石手寺に奉納した。
石手寺大講堂の
「襖絵 戦友」(五百羅漢) 
全8対(16枚)
海行かば 「海行かば水漬(ミヅ)く屍(カバネ) 山行かば草むす屍 大君の辺(ヘ)にこそ死なめ 顧みはせじ」
同期の桜 貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょ国のため
よか‐れん【予科練】 海軍飛行予科練習生の略称

1930年創設の飛行搭乗員養成制度で、旧制中学4年1学期修了者(甲種)、高等小学校卒業者(乙種)による志願制。
茨城県土浦の霞ヶ浦航空隊が殊に有名。
とっこう‐たい【特攻隊】 特別攻撃隊の略称

特に、太平洋戦争中、体当りの攻撃を行なった日本陸海軍の部隊。「神風―」
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中村俊夫画伯の略歴
武蔵野美術大学25期卒
元 サロン・ド・パリ委員
元武蔵野美術大学校外教授
元 愛媛美術研究所主宰
元 松山デザイン専門学校講師
特 別 攻 撃 隊
在りし日の中村俊夫画伯
昭和24年頃 市庁ホール屋上にて  
惜しくも平成8年?永眠されたと石手寺加藤住職に伺いました。・・・・・合掌 2002.08
昭和23~24年松山市庁ホール(洋画館)宣伝担当事務員時代に知り合いました。

 市庁ホールとは建て替わる以前の市役所南側に在った市議会ホール(ステージに銀幕「スクリー」が掛っていた)が議会が無い時は

(議会は殆ど無いので殆ど毎日が)外国映画専門館だった(映写室は4階)。

 私は当時、高校生でこの映画館で映写技師のアルバイトをしていました。

南側は旧市立図書館で進駐軍のクラブだった。パXパXガールの若いお姉さんが進駐軍の士官とダンスをしている姿が窓から見えました。

支配人「多賀 要氏」は陸軍中野学校出身でマレーシア方面でスパイ活動をしていた人物でした。スパイだった頃の話をよく聞きました。

洗面からSEXまでマレーシア人になり切る訓練をしたそうです。

 「中村さん」からは、映画の新聞広告デザインなどの指導を仰ぎました。


亡くなられる少し前、今にして思えば虫の知らせか、何故か急に会いたくなって電話番号を調べ、やっとの思いでお会いできました。

一番町のスナック「花梨」で(今は店じまいしています)一杯やりながら昔話に花を咲かせた事を今改めて思い返しています。


私も航空兵志願でしたから東温市見奈良の飛行場(学生の勤労奉仕で造った今は跡形もない)。

でグライダーに乗って訓練を受けていた時の話など、色々と尽きることのない楽しい歓談のひと時を過ごしました。


我々がやっていた訓練は、米軍が土佐湾に上陸した時、落下傘部隊をグライダーで輸送するパイロットの養成だったと聞きました。


特攻を立案した第343海軍航空隊司令 源田実の発案かな?


古くは見奈良ゴルフ場(我々学生が勤労奉仕で壊した)今にして思えばマッコト残念です。

 9ホールだったと聞いています。


余談になりますが、この見奈良飛行場にゼロ戦が飛んできたことがありました。

東の山影からです。訓練を中止して着陸を見守りました。物凄いエンジン音と巻き上がる砂ほこり。興奮しました。

飛行(非行)少年ですから。パイロットは白いマフラーに半長靴姿で降りてきました。機体に触った時の感激。

忘れません。

飛行少年ですから。飛び立つ時、エンジンを手動で始動しながら「接触」と叫んでプロペラが回りました。

忘れません。飛行少年ですから。
零式艦上戦闘機 (零戦)
343海軍航空隊で使用された「紫電改」 愛媛県愛南町 紫電改展示館

1945年3月19日米軍機飛来、吉田浜飛行場を襲撃、第343海軍航空隊これに応戦、双方に被害あり。味方16機米軍21機???


その年の( 昭和20年)7月26日 23:30、松山空襲で松山市は焼夷弾爆撃を受けました。

昭和20年(1945)8月6日広島、8月9日長崎に原爆。そして8月15日戦争は終わりました。・・・


広島の親戚(酒造家) 下東さん (稲荷町在住 原爆ドームから東に1.5km)は亡くなりました。

お袋が被爆直後に安否を尋ねて行きましたが跡形も無く西も東も分からない状態でした。


参考 源田実 


特攻隊戦術の考案者の一人。松山基地を根拠地とした第343海軍航空隊2代目司令。

何故か戦後は参議院議員

赤丸の辺りが飛行場あと
石手寺本坊 大講堂入り口 大講堂正面
(宝物殿横)
五百羅漢の説明看板 大講堂横の茶店
周りに大小様々な狸、狸、狸・・・
ぐんか
海行かば

歌詞は万葉集巻18の大伴家持(オオトモノヤカモチ)の長歌中の句。信時潔(ノブトキキヨシ)が1937年に作曲した日本歌曲。

別に、1880年(明治13)宮内省伶人東儀季芳が作曲した同名の海軍儀式歌がある。


海行かば 水漬く屍(かばね)  (海を行けば、水に漬かった屍となり)
山行かば 草生す屍(かばね) (山を行けば、草の生える屍となって)
大君の辺(へ)にこそ死ねめ (天皇のお足元にこそ死のう)
かへりみはせじ  (後ろを振り返ることはしない)
同期の桜

作詞:西條 八十 作曲:大村 能章 著作権:有(詞・曲)

 貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょ国のため

2 貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 血肉分けたる仲ではないが なぜか気が合うて別れられぬ

3 貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く 仰いだ夕焼け南の空に 今だ還らぬ一番機

4 貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く あれほど誓ったその日も待たず なぜに散ったか死んだのか

5 貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも 花の都の靖国神社 春の梢(こずえ)に咲いて会おう


昭和十九年頃流行

 ……昭和13年2月号の「少女倶楽部」(講談社)に、「二輪の桜」と題して西条八十が発表した詩が元になった。

君と僕とは二輪の桜 積んだ土のうの影に咲く どうせ花なら散らなきゃならぬ 見事散りましょ国のため
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