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「うぐいすや」のマドンナ
坊っちゃんのターナー島(四十島)
独断と偏見 勝手な中豫の方言
赤穂浪士縁の櫨(ハゼ)の木
バス操車場横のお稲荷さん
湯月稲荷大明神
伊豫国風土記
温泉煎餅 老舗「玉泉堂」本舗
道後温泉のマークは宝珠か湯玉か
中豫の方言
中豫の方言
方言で語る伝説 三光田
伊予弁 丸出し メール集
一遍上人の宝厳寺
湯祈祷 湯神社 湯神社 初音祭り 湯釜
一泉堂の「玉饅頭」
手焼き煎餅ぞなもし「たまつばき」
玉の石神話
幻の石灯篭
名物 坊っちゃん団子
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伊予鉄 道後温泉駅 道後温泉 本館
つきぬ郷愁
伊予ぶし
誇らしき伊予の方言
伊予人気質
松山人の好みと流行
ねらう松山名物俳句料理
松山名物
音に名高さ「五色ぞうめん」
狸のれん ー俳面と句文
狸通の道後温泉の観光ポスター
道楽院風来狸通居士の全貌
川柳界の大恩人 -前田伍健-
伍健さんと椿
緋のカブラ
ていれぎ タルト
三津浜の魚の朝市
珍品・もぶりずし
銘菓「タルト」の記
「坊っちゃん団子」考
前田伍健の本家野球拳
前田伍健の本家野球拳Ⅱ
温泉 と お城 と 狸 の 町
おいでや おいでや 伊予の松山 お城の中にゃ 今じゃお月さん 住むとかヨ 正面右 道後温泉本館
逢いにいかんせ あのロープウェイ 語り明かそか 語り明かそか しみじみと
振鷺閣 (しんろかく) の太鼓櫓の屋根の上で羽ばたく伝説の 白鷺像
鷺の親子 石手川 市之井手 浄水場 〒横 湯築城跡堀南側 などで撮影
道後温泉駅前のカラクリ時計 道後駅を出た 「坊っちゃん列車」
坊っちゃん と おかしな仲間たち  by16 マドンナ と 坊っちゃん 風 何故か 懐かしい人力車
よ も や ま 昔?? 話tubaki
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伊予弁は柔らこうて、上品で、古風で・・・ほんでも小説「坊ちゃん」で使われたみたいな伊予弁は、今はもう使いよらせんがな。
とにかく、ええとこじゃけん。一回だけでも きとーおみや。また、きとなるけん。
お城へいて、東雲から大街道、ほてから港町を歩いて、市駅からチンチン電車に乗って、道後のゆーにでもはいって・・・ほーよほーよ。
市駅前 始発 チンチン電車 道後温泉 行き
市駅からならボーギーがええわい。梅津寺へいて四十島(ターナー島)でもみといでや。景色がええぞな。
正岡子規がこの町で生まれたんで俳句の町じゃ言われとるけん、一句よむんもえーなー。
俳句だけじゃのーて、野球も盛んなんよ。「野球」の名付け親が正岡子規じゃ云うて、煩いけんど、本当は中馬庚(ちゅうまんかなえ)たら云う人じゃと言われとらいな。鹿児島の人らしい。人間が大きい。西郷どんじゃ。細か事は言いもうはん。
松山は町中が句碑だらけぞな。一回まわってみたらどうじゃろか。
椿湯の湯釜には子規の句が書いてあって
慶応3年 (明治元年) <1867> 10月14日 (秋) 誕生
女湯 「巡(禮)礼の 杓に汲みたる 椿かな」 明治28年 1895 28才
男湯 「十年の 汗を道後の 温泉(湯)に洗え」 明治29年 1896 29才
明治35年 <1902> 9月19日 35歳 (秋) (糸瓜忌)
とあるそうじゃが、女湯は見ていてないけん、ほんとかどうかは知らんぞな。
この句が子規のもんじゃないたらいうて、困らされた。子規記念博物館にいて聞いたら「間違いない」言われたわい。tokyou
ほれから「松山には・・よもだ・・が多いけん俳句が盛んじゃ」たらいうお人がおるけんど、その人こそ・・よもだ・・よ。
それもあんたその人は、子規記念博物館の館長たらになったんじゃと。(今は名誉館長)えかげんなこと言うたらいかんぞな。
彼が若い頃にNHK松山の劇団員じゃったんを知っとるんよ。たしかラジオドラマじゃけど、やりよったんを覚えとるんよ。
子規記念博物館 名誉館長
天野祐吉(あまの・ゆうきち)さんが平成25年(2013)20日午前10時38分、間質性肺炎のため死去した。80歳
露口茂、佐伯徹、正田百合子、河村孝子・・・水戸宗理PD、仙波PD、関根PD、眞鍋光子PD、・・・。
仙波PD云うたら前田伍健さんの「川柳相撲」よ。
ノコッタ ノコッタ ○○寄り切って勝負あり。元気のいい伍健さんの声。だいぶ忘れかけとらい。すまん。
この頃、小栗のNHKで立ったまんまでミキサーしよった。四角い箱みたいな器械じゃった。もう半世紀も前の事じゃけん忘れたがな。
作家、美術評論家 洲之内 徹(すのうちとおる)先生じゃったと思うが、ドラマを書きよった人よ。
髪を長う伸ばして、格好いい、おとなしい物静かな先生じゃった。憧れのインテリよ。
大正2年(1913)、松山市大街道1丁目の陶器店に生る。 松山東高校(当時松山中学)の校歌を作詞。・・・・・
こんな偉い人とは知らずに、よー色んな事を話しよったんよ。
終戦頃から1952年上京までの5,6年の間は、松山に居られたと思うが・・・。
NHKのラジオドラマを書いたりして。題は忘れたが先生のドラマがあったと記憶しとるが、正確には忘れた。
ほれからあれよ シナリオ作家 坂本忠士先生・・・
故・坂本忠士氏(1918~93)は松山市出身で、映画界で、シナリオライターや劇作家、
また、戦後はNHK松山放送局のライターとして活躍し、晩年は松山市大街道で田都画廊を経営されていた人物です。
もー古いんでその頃の人の名前をだーぶ忘れたかい。
ほーよほーよ、岡田のあきさんよ。あとでPDになった言う人が居ったがな。
わしゃー、その頃駆け出しのミキサーよ。歳は二十歳過ぎよ。今で言うAUじゃがな。マイクで拾ろた声を音楽や効果音と混ぜるんで、ミキサー言いよったんよ。
結構センスが要る仕事で勉強になったわい。いま思い出した。
ラジオドラマのリハーサルで、露口茂と誰じゃったか忘れたが、劇団の女の子が、効果に回ってSEを付けよったときじゃった。
男が女に抱きつくシーンよ。足音で表現するんじゃが、音が真に迫ってないんで、わしがクレームつけての。
なかなか上手くいかんので、実演して見せた事があったワイ。何しろ全部生(なま)の時代じゃけん、大事よ。
なんでか、よー思い出したワイ。
何の話しよったんじゃったかなー。これもはや忘れたよ。ボケたんじゃろか。何処ぞのコマーシャルで聞いた事あらい。
「皇国ノ興廃此一戦ニ在、各員一層奮励努力セヨ」の秋山の眞さんが聞いたら怒らい。「よもだ」がバルチック艦隊は破れんぞな。
正岡子規も友達じゃけん、一緒になって怒ると思わい。
ほてから偉い坊さんの一遍上人も愛媛県松山の出身じゃ。昔の事じゃけん伊予の国の道後よ。
河野家の出じゃけん、私とこも河野家流属で縁があるみたいじゃが、遠い遠い昔の親戚よ
司馬遼太郎の長編小説「坂の上の雲」で話題になった、秋山好古(よしふる)、真之(さねゆき)兄弟も松山出身ぞな。
ほなら、この後、伊予弁丸出しの話でもよんどーみや。
西岡千頭云う近所においでる「星」のことにえらい詳しい先生の話しじゃけん為にならい。
外題は「方言で語る伊予の伝説」云うんよ。おまけじゃけんど道後界隈の写真を付けとくけん、まー見と―みや。
ほじゃけど、正岡子規や一遍上人も伊予弁でいよったんじゃろか。だれぞ、知っとたら教えてや。頼のまい。
一遍さんが生まれた愛媛県の松山市道後湯月町にある時宗「宝巌寺」と「一遍上人」も見てみてみてや
伊予弁丸出しのメールの公開もやっとるけん。面白いと思もとるけんど、どーじゃろか。好かったらメールでも頼まい。
uguisu
最近の話題は、やっぱり「足湯」じゃろ。ちょっとだけ紹介しとるけん、見てみて。
足湯巡りは、下駄のコースと桶のコースを御用意しとるけんな。
道後湯の町界隈 noren
謎の石灯篭の行方 捨て聖 一遍上人 老舗 狸のれん
「うぐいすや」のマドンナ達
「うぐいすや」 「うぐいすや」 「うぐいすや」
伊予の国は道後湯の町 古代 温泉に舞い降り脚の傷を癒したと謂われる 白鷺像
 道後温泉本館の振鷺閣 (しんろかく)太鼓櫓の屋根
レトロな伊予鉄 道後駅終点 商店街入り口 道後温泉本館
坊っちゃん列車 人形が踊る仕掛け時計 「湯の元」足湯
松平隠岐守に仕えた河野家の大将村上喜助(因島水軍の大将村上義光の子孫)が日光社のお参りのお供をした際に、伏見稲荷神社より御神像を奉戴しお祀りしたのが始まりという。
温泉稲荷界隈 宝珠マーク 稲荷神社のお狐さま 付属小同級佃善則「つくだや」
(稲生イネナリの転か)五穀をつかさどる倉稲魂(ウカノミタマ)を祀ったもの。
枕草子158 「―に思ひおこしてまうでたるに」(御食津神(ミケツカミ)を三狐神(ミケツカミ)と付会して、稲荷の神の使いとする俗信から) 狐の俗称。
(狐の好物であるということから) 「油揚げ」の異称。
また、稲荷鮨の略。
(盗人仲間の隠語) 豆腐。
また、あずきめし。
(芸人仲間のことば) 旅芸人が町まわりの時に立てる細長い旗。稲荷町の略。
稲荷信仰
道後公園にある石造湯釜 石造湯釜①
愛媛県指定有形文化財 宝珠型蓋六字一遍上人筆 南無阿弥陀仏が一周している
宝珠型の蓋に書かれた「南無阿弥陀仏」の「阿」が読みとれる
石造湯釜(せきぞう ゆがま) 一基    愛媛県指定有形文化財(建造物)   昭和29年11月24日指定
湯釜は、浴槽内の温泉の湧出ロに設置するもので、これは現在の道後温泉本館ができた明治27(1894)年まで使用されていたものであるo
直径166.7センチメートル、高さ157.6センチメートル、花崗岩製である。奈良時代の天平勝宝年間(749~757)につくられたと伝えられる。
湯釜上部に置かれた宝珠の「南無阿弥陀仏」の6字名号は、河野通有の依頼により一遍上人が刻んだものといわれている。
湯釜本体に刻まれた温泉の効験に関する文は、天徳寺の徳応禅師の撰文になるもので、享禄4(1531)年、河野通直が石工を尾道から招いて刻ませたものである。
松山市      松山市教育姿質会
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湯神社 【道後湯之町4-7】 電話:089-921-0480 湯神社のリンク紹介
ご利益 開運、家内安全、商売繁盛
交通 市内電車道後温泉駅下車徒歩3分
祭神 大己貴命(大国主命) 少彦名命 大黒 恵比須
湯之町の中央に冠山があり、その頂上に温泉の守護神である大国主命と少彦名命の二神を祀る湯神社がある。
湯神社は社殿創立の詳細は不明であるが、「湯神社由来考証略記」に景行天皇が建造したとも、また舒明天皇の勅建とも云う。
創建当時は鷺谷(今の祝谷)の大禅寺の前に在ったという。ここには二神のほのぎが残っている。(詳細不明)
道後なる 湯の大神(おおかみ)の御社(みやしろ)の もとにぬる(寝る)夜と なりにけるかな  与謝野晶子 鮒屋旅館にて
昭和6年11月3日(火)明治節の夜、宿泊した旅館は「鮒屋旅館」今の「ふなや」 「ふなや」詳細地図 参考石手寺の歌碑
中嶋神社 ; 四国四県の製菓業者によって建設奉讃会を組織し、昭和32年3月に但馬国出石郡神美村三宅なる延喜式内社中嶋神社の御分神を迎え、菓祖中嶋神社の四国分社として創祀した。
色里や 十歩はなれて 秋の風  正 岡 子 規   今は昔 宝厳寺の門の向こうが 色里 松ヶ枝町だった  宝 厳 寺 境内から
お菓子の「中嶋神社」 湯神社 伊佐爾波神社
当社は、延喜式内社で、その由緒は古く、もとは鷺谷に祀られていた。地震で温泉が埋没した際に、現在の冠山の出雲岡神社の祭神、須佐之男命と稲田姫命が祀られている境内に移され、いつしか合祀して四社大明神と呼ばれるようになったという。
社伝によれば、舒明天皇行幸のとき、勅命により神殿を新築したと旧記に記されているという。その後、国司、領主の尊崇を受け、神田や幣帛の奉献があったと伝えられる。
温泉は、地震などで、今までに十数回、湧出が止まったといわれ、その度に神楽を奉納して祈願したり感謝の祭礼をしたりしたといわれている。今も「湯祈祷」という例祭があり、正月の初子の神事も世に知られている。
松山市、松山市教育委員会
偶然お目にかかった湯神社の宮司烏谷氏の奥様にお聞きしました。烏谷家は伊予河野家の家来で21代目の末裔にあたるそうです。(河野家家臣末裔同士の対面と相成った次第)
湯祈祷 温泉が地震で埋没して湧出しなくなったとき、温泉の守護神を祀った湯神社で神楽が奏せられ、温泉の再湧出祈願が繰り返されたり、温泉の復興を感謝するための湯祈祷が挙行された。現在では温泉まつり(毎年3月19日~21日)と改称され行事化されている。
初子祭(はつねさい) 毎年11月の子(ね)の日に行われる。(現在は 1月15,16日に実施)大己貴命が鼠に救われたという古事記の古伝説からいつしか鼠を十二支の子と結び付けたのが起源であるといわれる。江戸時代中期から始まった初子祭は、もともと旧暦の11月の初めの亥と子の日に「亥の子祭」として行われてきた。縁起開運の神様として知られ、商売繁盛、家内安全を願う大勢の参詣者で賑わう。
餅まき [湯神社境内]撒餅(=もちまき)することで、今年の豊作を感謝し、来年の豊作を祈願するというものであった。
お献茶祭 [湯神社拝殿]
神事 [湯神社境内]
神符焼上祭 [湯神社境内]古いお札やお飾りを祈祷して焼上する。
合格祈願祭 [湯神社境内]
抹茶会 [ホテルニュー宝荘]
出雲崗神社 元々冠山にあった。湯神社が衰微したとき、出雲崗神社本殿に合祀され、いつしか本殿が湯神社となった。江戸時代初期に湯神社の境内の1小祠に移されて祭られるようになった。『予陽郡郷俚諺集』によると、最初は大禅寺の側に有り、社殿廃絶・再興不可となったため、湯神社に合祀されたとなっている。
祭神:須佐之男命、奇稲田姫命(素戔嗚命の妃、大己貴命の母)
クスノキ 松山市保存樹木 指定番号 32号(昭和 53年4月27日指定)推定樹齢:300年
「祝谷」の地名の由来 ①冠山に斎の宮として移したので「祝谷」
②湯涌谷
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2002年(平成14年)12月に、道後温泉駅前にな、新らしい名所が出来たんよ。
老いも若きも健康ブームじゃがな・・・今話題の足湯三昧(道後温泉駅前 放生園 ホウジョウエン )
広辞苑を見たんじゃけんど  あし‐ゆ【足湯・脚湯】 きゃく‐とう【脚湯】 タウ 【フット バス】 とはな・・・
手や足を洗うための湯。脚を湯に浸して温める、まあ言うたら一種の温浴療法よ。
全国の足湯 YAHOO WEB検索  温浴療法=風邪と疲労回復に「足湯」(あしゆ) 道後温泉 足湯・手湯巡り
大阪から来やはった明くて可愛いお嬢さん(2004年11月4日、11:17:08) 春風や ふね伊豫によりて 道後の湯   柳原極堂
道後放生園「足湯」
明治24年から昭和29年まで道後温泉で使用されていた湯釜から流れるこのお湯には、その昔一羽の白鷺が足を癒したという伝説があります。
足は第二の心臓と言われております。「足湯」には、血行を良くし、疲れを癒すなど健康増進の効果があります。ゆっくりと足を温泉につけ、俳句など捻ってはいかがでしょうか。
昔の放生池(園)
吹き上げる真中のっ島の噴水が綺麗だった
作り物の鶴が居たと思いますが・・・
噴水の水しぶきが辺りに害を成し
池は埋め立てられたと聞き及んでおります
3 0 0 0年の歴史をもつとる道後温泉はな、日本最古の名湯ぞな。
古今の著名な文人、墨客が遊訪しておってな、ここら辺の豊かな歴史、文化を育んできたんっぞな。
道後温泉のシンボル言うたら道後温泉本館よ。10 0年前に建てられたんじゃが、今でも現役の浴場として皆に絶大な人気を集めとるんよ。
木造三層楼の建物は国の重要文化財に指定されて、自慢の種よ。
交通はな :JR松山駅から路面電車(ちんちん電車)で道後温泉で降りてや。
新名所の足湯が出来たけんな。はよ来て足湯巡りして心も身も癒してや。
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「宝巌寺」への道順を教えよわい 伊予道「道後温泉駅」(終点)で降りて、歩いて約15分。全部上り坂で、ちょっとしんどいぞな。「道後温泉駅」を出てな「からくり時計」を左に見もって、まっすぐ歩いて、途中で、「ふなや」旅館を右手に見もってまだまだ真っ直ぐ歩いて、正面の「伊佐爾波神社」登り口石段前(三叉路)を左に曲がって、次の三叉路(湯月稲荷大明神)を右に曲がって、坂を登り詰めたら、そこが「宝巌寺」山門じゃがな。
fudoki
道後温泉本館左横奥の「玉の石」全景 「玉の石」アップ(大きさは二抱え以上)
【玉の石神話】風土記逸文 伊予国風土記逸文に見える伝説の石。
伊豫の湯の  汀に立てる  玉の石  これぞ神代の  志留しなりけ里   古歌
玉の石 御湯かけ 祈願
玉の石は大国主命(おおくにぬしのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の逸話に
ありますように、道後温泉の霊妙不可思議な
効力の象徴であります。
道後温泉の御湯をかけながら、「病気平癒」
「縁結び」「商売繁盛」等の願い事を唱え、
二礼二拍手一礼の礼拝をされることにより、
必ずや神様にその意が通じるものと存じます。
道後温泉本館












必ずや神様にその意が通じるものと存じます 二礼

二拍手

一礼

の礼拝をされることにより
縁結び

商売繁盛

等の願い事を唱え
道後温泉の御湯をかけながら

病気平癒
効力の象徴であります ありますように

道後温泉の

霊妙不可思議な
玉の石は

大国主命



少彦名命

の逸話に
玉の石


御湯かけ

祈願



伊予の国の風土記 新考 京都市 古賀達也 LINK
伊豫の国の風土記に曰はく、湯の郡。
いよのくにの ふどき にいはく ゆのこほり
大穴持命見て悔い恥じて、
おおなもちのみこと みてくいはじて
宿奈毘古那命 を活かさまく欲して、
すくなひこなのみこと をいかさまおもはして
大分の速水の湯を
おおきだ(おおきざ?)の はやみのゆ
下樋 より持ち渡り来て、
したびよりもちわたりきて
宿奈毘古那命を漬し浴ししかば、
すくなひこなのみこと をひたし あむししかば
暫が間に活起りまして、
しましがほどに いきかへりまして
居然しく詠して、
おだひしく ながめごとして
「ましまし、いねつるかも」 とのりたまひて
「眞暫、寝ねつるかも」と曰りたまひて、
踏み健びましし跡處、
ふみたけびまししあとところ
今も湯の中の石の上にあり
いまも ゆのなかの いしのうへにあり
伊豫国風土記
いよのくにふどき
大穴持命 大穴牟遅/神 【オホナムヂ/神】=大国主神【オホクニヌシ神】
宿奈毘古那命=少彦名命(スクナヒコナノミコト)
大刻 昔、大分は「大刻」と書いて「オオキダ」(おおきざ?)と呼んだ。
いつの間にか「おおいた」と呼ばれるようになり、字も、刻んで分けるで「大分」になった。
速水の湯 今の別府温泉
した‐び【下樋】 地中に設けた樋トイ。うずみひ。うめどい。
古事記下「山高み―を走ワシせ」 箏などの腹部、すなわち甲と裏板との間の空洞の部分。
万葉集7「琴とればなげき先立つけだしくも琴の―につまやこもれる」
大穴持命(大国主神)が、気絶した宿奈毘古那命(少彦命)を生き返らせようとして、
速見の湯(今の別府温泉)を豊予海峡の下に樋を通して伊予の道後に引き、
その湯に漬け浴させたら生き返ったのです。
「昼寝をしていた様だ」と云われた。
その時、足を掛けた跡が、今も湯の中の石に残っている。と書いてあるのではないか?と思います。
愛媛県大洲市菅田町大竹甲2583番地 少彦名神社 (すくなひこな じんじゃ)
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温泉マークの発祥
その1.群馬県磯部温泉
1661年(万治4)の古地図の磯部温泉のところに2カ所温泉マークが記されていることに由来するもの。
温泉会館の横の公園には「日本最古の温泉記号の碑」があります。
その2.陸軍部測量局
1879年(明治12)に陸軍部測量局が作成した地図に初めて使用され、2年後に正式採用になったというもの。
その3.大分県別府
1931年(昭和6)、別府の旅館主である油屋熊八(あぶらやくまはち)が創業20周年記念企画で全国から大きな掌をもつ人の手形を集めたところ、
完全には映ってないものがあり、その形が3本の湯けむりがあがっているように見えたらしい。
そこでそれを温泉マークにして温泉PRに利用し全国へ広めたという話。
ボトム
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