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「中豫の方言」も見てみてや
山門越しに見える昔の遊郭街松が枝町 稲荷信仰 2007.6.16 に移転 現状
色里や十歩はなれて秋の風  正岡子規 明治二十八年子規は漱石と共に道後に遊び、宝厳寺界隈で読んだ一句
門の向こうに元遊郭街の松が枝町が見えらい。
そのむこに、石灯籠に代わって湯月稲荷大明神があらい。 伊予鉄道後駅の温泉稲荷
松山の道後松ケ枝町の歴史は古いんぞな。
天保十二年(一八四一)ころは道後温泉本館を取り巻いていて十軒もの茶屋があって、これが遊廓松ケ枝町の前身よ。
嘉永6年(1853)13代将軍家定の時代に遊興廃止令がでてなー、いったんやめたんじゃがな、安政三年(一八五六)にその頃の代官さんで三浦庄左衛門てふ人が、も一回やらしていうて願い出てなー、裁可されて、また茶屋として店開きしたんよ。それがな、明治九年(一八七六)まで続いたんじゃが、明治十年(一八七七)一月一日に場所変えさせられて、四十軒が皆一緒に一遍上人の出た道後湯月町「宝厳寺」境内じゃった今の俗称「ネオン坂」に移つたんよ。
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郷土史に興味をもつある人はこういよらい。
「一遍上人の出た「宝厳寺」は日本の歴史上貴重なものです。
俳聖といわれる子規などこの比ではない。
他県から来た人を案内するのに元遊廓街跡(ネオン坂)を通らねばならのは非常につらい」
こんな声も出てくるけんど、観光地にはつきものじゃったんじゃけん、しかたがないわい。
けんど、汚いままじゃー如何云うて、綺麗にして文化遺産?にしたらてふ話もあるとか、ないとか、よーしらん。
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栄えてさびれ、さびれては栄えの繰り返しじゃったが、時代の波が松ケ枝町の歴史を一度に押し流してしまつた今も、石灯篭だけが、その名残りをとどめとらい。
石灯篭のあった処には「湯月稲荷大明神」が鎮座ましましています。石灯篭は数年前までは、道後駅前の「からくり時計」の辺りに移転していたらしいが、現在は所在不明です。昔から道後に住まわれている地元の方にお尋ねしたのですが、判りません。目下、調査中です
遂に発見しました。2004年11月9日市内道後某所にて。目下、復元場所も含めて健闘&交渉中。
傾城の燈篭のぞくや宝厳寺 子規
稲荷信仰
左の方に微かに見えるのが「宝厳寺」の山門じゃがな。
「なんでかなー」じゃが、話がながなるんで又にしょうわい。
昔、町の入り口にあった石灯篭

















むかし、「宝厳寺」石灯篭のあったとこじゃけんど、今はご覧の通り「湯月稲荷大明神」が鎮座ましましとるがな。
元の「松枝町」マツガエチョウ「遊郭街」で今は「ネオン坂」言うんよ。 伊予鉄道後駅の稲荷神社