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| 道後温泉駅・操車場横の山城伏見(やましろ ふしみ)稲荷神社に参拝しよう |
| 道後温泉のシンボル・マークは元々宝珠(ほうじゅ)であった。 |
| 何故なら、神代の昔、大国主命(おおくにぬしのみこと)が少彦名命(すくなひこなのみこと)を蘇らせ給うた神の湯だからです。 |
| よって、神の湯・霊(玉)の湯がある訳です。決して「湯玉」ではなく、「宝珠」(玉)だと思います。 |
| それが証拠に戦前の温泉本館玄関に掛かる暖簾には、はっきりと「宝珠」のマークがあったそうです。 |
| ・・・その証拠写真を目下探索中です・・・ |
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| 湯月稲荷大明神は 道後駅横の伏見稲荷 (道後稲荷)神社に 合祀 されました | |||||||
| 台座の道後温泉のマークに注意 「温泉稲荷」と私が名付けた理由は以下の如し。 |
| 山城伏見稲荷神社と伊予道後温泉のシンボルマークに注意 |
| 山城とは旧国名で今の京都府の南部 |
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| お狐さんが咥えているアイテムには「玉(宝珠)」「鍵」「巻物」「稲」「子キツネ」・・など色々あり、「玉(宝珠)」は霊の力、「鍵」はその霊力を引出すカギ、「巻物」は神様からのお言葉、「稲」は富、子キツネは「子宝」などを象徴しているようです。しかし圧倒的に多いのは、「玉(宝珠)」と「鍵」の組み合わせです。 | ||||||||||||||||||
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| tama |
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| 湯釜の蓋にもなっている道後温泉のシンボルマーク宝珠(ほう‐しゅ)文の周囲に炎を伴い三つ重なったものが稲荷神社のシンボルとされており、何か生命的なものを象徴していると考えられます。それがいつごろ、なぜ道後温泉のシンボルとなったかについてはよくわかりません。 |
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| 温泉稲荷 | 玉泉堂 | ハイカラ通り | 道後温泉本館 |
| 道後湯の町界隈の道後温泉のシンボルマーク「宝珠(ほう‐しゅ)文」いろいろ |
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| 温泉稲荷 | 円満寺 | 一泉堂は無くなりました | 道後温泉本館 |
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| 戦前の温泉祭り風景 アーチの真中に「宝珠」のマーク | 道後温泉の看板が掛かった戦後、マークが変わった |
| 本館の東(玄関の反対側)に皇族専用浴室の又新殿がある。 |
| 銅板屋根(もとは桧皮葺き)破風造で、 |
| 内部に最高の建材と調度品をそろえた二階建八〇平方メートルの優雅な姿をとどめている。 |
| 皇室用浴室が設けられたのは、 |
| 神代のむかしから皇室と関係のふかい“伊予の湯" を印象づける配慮があったようだ。 |
| 道後温泉は、一羽の白鷺が傷をいやしたことで発見されたという白鷺伝説がある。 |
| また「伊予風土記逸文」には、大国主命が重病に苦しむ少彦名命を |
| 手のひらにのせてわき出る湯にあたためて平癒させたという伝説がある。 |
| 二神を温泉の守護神としてまつった湯神社は、本館南側に面した冠山頂上にある。 |
| このほか景行天皇・仲哀天皇.神功皇后来浴の伝説があり、 |
| ついで聖徳太子・舒明天皇・斉明天皇・中大兄皇子(天智天皇)・大海人皇子(天武天皇)などが来られた。 |
| なかでも聖徳太子は伊佐爾波岡(現在の道後公園)にのぼり、温泉と景色をたたえた碑を建てたことが |
| 「伊予風土記逸文」に碑文とともにのせてある。 |
| 与謝野晶子も好んだ一泉堂の玉饅頭 昭和のはじめ、記録によると昭和6年11月2日、 |
| 与謝野鉄幹(1873-1935)と晶子(1878〜1942)夫妻が 面河渓谷探勝の旅に際して道後温泉を訪れたとき、 |
| 当店(一泉堂)の店頭で玉饅頭を買い求められたと伝え聞きます。 |
| 道後温泉のシンボルマークは? |
| 道後温泉のシンボルマークは「湯玉」なのか「宝珠」なのか? |
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| 何故か・・・ 此処で・・・ (玉椿)煎餅 | ![]() |
いよ道後 手焼きぞなもし たまつばき |
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| 伏見稲荷神社 |
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| 赤い鳥居の右奥が「手焼き煎餅ぞなもし たまつばき」 | 山城伏見稲荷の河内瓢箪山勧請の石柱 |
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| 宝珠を咥えた・・・お稲荷さん | この右手奥が「手焼き煎餅ぞなもし たまつばき」 |
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