JA5DLGの宿貸しマウス・ホームページ

  富田 狸通  伍健さんと椿  川柳界の大恩人 -前田伍健-  野球拳の歌  伍健翁の「松山正統野球拳」

  法華経に咲く花あらぱ赤椿   東洋城    天国を無と説く時の椿かを   余子

 と椿を宗教的に詠んだ句はたくさんあるが、日本ではポタリコロリと落花する椿を脆(もろい)い花とし、ことに日本の武士道では、首が落ちる、散りぎわが見苦しいと言って縁起を忌み嫌ったものであります。ところが中華では椿を長寿の樹と言い、椿の咲く国を寿国と言って縁起のよい花としています。

 さて、伍健さんはこの椿の花を愛して屋敷の庭には椿の苗木がたくさん植わっています。伍健さんと椿の ことについて、大正十二年の春、未亡人とのお見合いの日が丁度椿まつりの前日であったことから、私は 伍健さんと椿の不思議な因縁を思うのであります。

  昭和二十八年、道後温泉の旧西湯が改造されて今のネオンに飾られた近代的建物になった時、何という名前にするかについて、温泉事務所は景浦稚桃・柳原多美雄両史家と古茂田公雄画伯・前田伍健さんとそれに私も共に招かれて相談にのったものでした。伊予の湯、にぎたつ湯、伊佐庭温泉等々いろいろの名前が挙げられたが、景浦さんの発議で「椿温泉」というのはどうじゃろうということになって、一番に賛成 したのが伍健さんであった。法興六年(中華の年号)に飽多津(にぎたつ)の丘に建立された日本最古の碑である聖徳太子の温泉碑の文中に「椿樹相蔭而穹窪実相五百之張蓋」とあって、石湯の湧く古への飽田津(にぎたつ)の丘は椿が生い茂った寿国であったという古事から因縁をとったもので、衆議一決して今の「椿温泉」の名が生まれたのであります。また、伍健さんが伊予鉄の運輸課に在職当時は、全国の各界名士が来松するたびに伍健さんがガイドの役割を受け持って、市内および近郷の名所旧蹟を説明案内したり、あるいは得意の川柳と軽妙な絵筆が乗客の誘致宣伝に力をいたしたものでした。中でも今に巷の語り草になっているのは椿まつりのことであります。椿の好きな伍健さんは 、椿まつりの行事については長曽我部宮司に次いでの熱心な協力者であった、ということは、従来椿まつりの縁日は旧正月八日の一日であったのを、運賃を稼ぐ伊予鉄の仕事といえばそれまでだが、一日の縁日を現在の三日に延ばして神社に賽客に露店商人に御利益を振りまいたのは伍健さんの発案だと聞いています。この福の伍健さんが、今年の椿まつりの二日目に参詣して社殿造営基金の銅版に「生きのびて今年も詣る椿祭」の即吟一句を残してその翌朝脳溢血で仆れたと云うことも、奇しき椿の因縁というべきでありましょう。大体脳溢血の症状は、大きなショックや転倒した拍子にところかまわず発病して絶対安静を要するもので、往々にしてそのまま不帰となるのが多いのであるが、伍健さんの場合は寝床の中で発病し、遂に意識不明のままにしろ一週間の生命に耐えて心残りなく近親縁者の看護をうけ、友人知己弟子共にも充分名残りを惜しませて静かに昇天されたことは、椿さんの不思議な御加護御利益の定命だと思うのであります。ところで、伍健さんの絶句が「こんな世と知りつゝ無駄な腹を立て」「アルバイトさびしくくれる裸銭」ということになっていますが、これは通夜の席で明日の葬儀を控え 、とも角も伍健さんの絶句を決めねばならんと、松山川柳界の人たちが伍健さんの句帳を調べてその中から最後に記されてあった二句を選んだのがこの句であったが、私は伍健さんが椿詣りの時銅版に書き残した「生きのびて今年も詣る椿祭」の句が時間的にも精神的にも真の絶句であり、絶句とせねばならんと信じ、辞世句ともいうべきであると思うのであります。

 思えば伍健さんの吐く句はなべて明朗瓢逸諷致的のものが多いのに、今年の年賀状の句に「生きのびて仰ぐ空あり日の光り」と詠んであったことと、「生きのびて今年も詣る椿祭」と無意識の中に偶然にも 「生きのびて」の上五を使用していることは、あとで考えると不思議にも死を予言して現われた五字ではないかと思われて、ひしひしとせまる世の無情と恐ろしい寂寥(せきりょう)を感じるものであります。こんなことを偲び伍健さんを語る時、伍健さんの一生は、大正十二年の椿まつり前日に奥さんとのお見合いから始まって昭和三十五年の椿まつりの絶句に終わったことなり、新たにできる季題「伍健忌」は「椿忌」にも通ずるものであると思うのであります。

  椿落つ時春のたゞれ逝く  狸通
                         (「柿」 ー 六一号、昭和三十五年、七)