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  富田 狸通  川柳界の大恩人 -前田伍健-  伍健さんと椿  野球拳の歌  伍健翁の「松山正統野球拳」

 前田伍健翁は、本名を久太郎といい、伍健院釈晃沢慈照居士の法号で、市内玉川町の明楽寺に眠ってい る。翁は昭和三十五年二月十一日逝去したが、その亨年を知っていたものはほとんどなかった。童顔のふ とり肉、それに明朗な性格だったので、年よりはずっと若くみえ、奥さんでさえ、戸籍抄本を見て、初め て七十一歳だったのかと驚いたという。

 翁の出生は高松市であるが、のち松山市へ転籍し、生涯伊予の方言をよくした幅の広い趣味人であった。(写真 伍健さんと)

 ことに川柳では、東京の窪田而笑子の高弟で、全国川柳界の七賢人に選ばれたほどで、大正末期から県下柳壇の大恩人であったことはいうまでもない。川柳を知らぬ私が翁と親しくなったのは伊予鉄時代で、年配もひとまわり先輩であり、仕事が違っていたので昭和二、三年ごろからのつきあいであった。翁は、いまの観光宣伝の方面で、四季折り折りの催しものや縁日を追って各駅頭に立てられる沿線の宣伝看板は、独特のアイディアを生かした翁の独壇場であった。なかでも今日ある梅津寺の発展と椿さんの隆盛は翁の軽妙な絵と文の力によるところが大である。

 会社を退いてからの翁の文化活動は、川柳の情趣を基礎とした豊かな趣味と人間性で、何でもこなし通すことができた。俳句は川柳より先に手をつけ、瞳歩・欣瞳居・晩春居と号し、また洒脱(しゃだつ)で風刺(ふうし)的な随筆は、三十尺坊の別号を用い、放送界では巧みな伊予なまりが「伍健節」の話術で親しまれたものである。NHKの川柳角力と川柳腕くらべは、毎週待ち遠しい人気番組であった。俳画は父君の北水より南画を学び、松山では手島石泉・藤田三友・矢野翠鳳らについて指導を受け、書とともに一流の伍健張りの筆致で、その作品は生前からすでに貴重なものであった。郷土史家の西園寺富水翁は、松山地方の五名人を選んで 「詩は小南(近藤)、俳句は極堂、和歌は義昌(矢野)、俳画の伍健、書道の平山(徳雄)」と言っている。

 また大正十三年の秋、高松の屋島グラウンドで近県実業団の野球が行なわれたとき、伊予鉄軍は高商クラブにゼロ敗し、その晩に催された両チームの懇親会の席で、野球の仇を余興で討とうと、副監督の五剣 (当時は伍健を五剣という)さんの即興で伊予鉄軍に踊らせたのが、のち全国的に流行した有名なお座敷芸の野球拳であるから翁はその宗家である。宴席での渋いのどと即席の舞踊は、しろうとばなれにあか抜けしていた。

 戦火をこうむった松山が、追い打ちの敗戦で市民はまったく笑いを失って息づまるような世相に、「考えを直せばフッと出る笑い」の名句を発表して人心をやわらげ、あるいは天衣無縫、奇想天外の趣向で「狸まつり」に力を貸して、きびしい生活に息抜きの潤いを持たせたり、また徳川夢声老が主宰する「ゆう・もあくらぶ」の松山支部が発足した時(昭和三二・一 〇・一六)には支部長に推され、会場に現われた徳川大老と前田翁はともに真っ赤な陣羽織りを着て、夢声老が「余は徳川でもニセ徳川で、久松知事とは無縁であるぞよ」というと「余もまた、加賀百万石ではござらぬ」と答えて握手した翁の名演技は、実 に奔放自在で明朗あふれる翁の性格躍如たるものがあって、いまなお眼底にはっきりと焼き付いている。

  あれを思い、これを思うとき、随所に現われた伍健翁の当意即妙の趣向は、豊かな趣味に育成された人 徳であり、あの丸い童顔の豊満な容姿が、接する人々の心を健康的に明るく指導した不思議なほど円満な文化人であった。

 絶句

 こんな世と知りつゝ無駄な腹をたて

 生きのびて今年も詣る椿祭
                              (「愛媛新聞」昭和四三、七、五)