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  富田 狸通  伍健翁の「松山正統野球拳」  野球拳の歌  川柳界の大恩人 -前田伍健-  伍健さんと椿

 さる二月十一日は昔の紀元節であり、またこの日は川柳人前田伍健翁が四年前「こんな世と知りつつ無駄な腹を立て」の絶句を残して逝ってから数えて第五回忌で、翁ゆかりの各所で追憶の行事や集まりの会が催された。

 そのうちの一つに翁を宗家としいま流行の野球拳に関する不思議な一コマがある。

 去年の十一月二十二日、大阪の毎日テレビ局から、松山市の観光課を通じて同局のテレビ番組の「私はナンバーワン」に登場させて全国に松山文化を紹介して誇るにたる題材の選定を依頼された時、三津の朝市風景をはじめ、四国へんろ、おたた、八ミリ映画発祥地、松山の高校生の人形文楽あるいは子規と漱石につながるものなどの他に、伍健翁の即興作詞作曲振り付けになる野球拳があげられて協議された。その後何の沙汰もなかったところ、先月の末ごろになって急に毎日テレビから電話があって、二月十日の午後七時から「松山の正統野球拳」を実演放送したいからその手配を頼むと言って来た。私はとりあえず野球拳を初めて踊った大正十三年組の伊予鉄電野球部の選手であった盛重信雄・後藤二郎・菅善次郎・片山源 一の諸君と話し合ってみると、松山観光文化のためならひと役買ってやろうと一決した。が何をいっても四十年前の紅顔はすでに還暦そちこちの連中ばかりで、当時の振り付けを思い出してもからだのこなしが意のままにならず、二回、三回の会合をもって練習を重ね、いろいろと苦労してやっと原形の調節ができた。そしてハヤシ方の太鼓は伍健翁から川柳の指導をうけ、その側近 のでしであった高市功君、他に川端清子さんの三味線、私の総監督で一行七人は、十日の朝、天保山に上陸して千里丘のスタジオへくりこんだのである。スタジオでは企画部の川辺君が「素面では気分が乗りにくいでしょう」と灘の白鹿を一本持ちこんで来て細かく気を配ってくれた。そして精神年齢二十五歳の四選手は松山商高のユニホームを着用して、調子が盛り上がって来たころいよいよ本番となり、市村ブーちゃんの司会で「松山の正統野球拳」とあわせて野球王国松山の自慢を電波にのせて全国に紹介したのである。

 思えばその日は奇しくも伍健翁の第五回忌日の前日であり、四十年前の当時の選手諸君によって、このテレビ放送が行なわれたということは仏縁も不思議というものである。一行がスタジオを出る時には、郷愁の紀元節の前夜らしく千里丘の空からも小雪がちらついていた。

 野球拳 こ う い う ぐ あ い に 若返えろ     伍 健

 ちなみに野球拳の歌詞がレコードに吹き込まれ、あるいは替え歌にまで歌われてお座敷芸となり最高調に流行した昭和二十八、九年ころ、野球拳の発祥地が高松だ、いや岡山の倉敷だとか、その本家争いが始まったので、故人浜住峰一君とともに私ら友人が相はかって、日本音楽著作権協会へその著作権の登録申請をしたときの申請書の一文に「創作の動機」と題して次のとおり書いてある。

  「大正十三年の秋だったと思う。高松屋島グラウンドで近県実業団野球が行なわれたことがある。三十年も前の話であるが、そのとき、たしか高商クラブと伊予電鉄が対戦して八対○の惨敗を喫し、稲穂のつづく屋島道を丸い大きなお月さんに見守られてすごすご引き揚げた印象が忘れられない。その晩、高松市の川六旅館で選手一行の懇親会が行なわれた。芸どころ高松のことであるから宴席の余興にも伊予鉄軍に敗色が見られた。その時、伊予鉄電野球部の副監督であった前田五剣(当時は伍健を五剣という)さんが伊予鉄チームを別室に集めて円陣を作った。

 野球をやるならこういうぐあいにやらしゃんせ、投げたらこう打って、打ったらこううけて、ランナになったらエッサッサ、アウトにセーフにヨョイのヨイ、ヨヨイのヨイ、へぽのけ、へぽのけ、おかわりこいと選手全員が向かいあって野球姿態さまざま、キャッチボール、打撃、応援、審判など思い思いの作をして、ランナになったらエッサッサは全員が走る格好で左回りで一巡する、アウトにセーフは審判のゼスチュアよろしくやる。拳に代わる一組が拳を始めると、他の一組は勝負のつくまで三拍子の拍手で応援するしごく簡単な打ち合わせでやった野球拳が、ユニホームのままの宴席てふんい気とマッチして非常な人気であった。松山へ帰ってからの伊予鉄軍は明治楼(当時の一流料亭)で残念会を開いて人気の野球拳をひろうした」

 次いで、著作権の登録を得たのは昭和三十年の四月であった。

 当初伍健翁の作曲は元禄花見おどりの曲をアレンジしたもので、振り付けはウオーミングアップから始まって、勝負がつくと「へぽのけ、へぽのけ、おかわりこい」で交代し、三スクミのキツネケンで勝負したものがいまはジャンケンに変わっているのも時代調というものであろう。いずれにしてもこの野球拳が全国的に流行をつづけていることは松山人のうれしい誇りである。                            (「愛媛新聞」昭和三八年二、二四」)

   前田伍健の本家野球拳U