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  富田 狸通  松山人の好みと流行

 世の中の人間は、男と女としか住んでいないので、男はきれいな女を、女は男に愛されたいということ になる道理である。愛情の条件は美醜ではないというけれども、男というものは勝手なもので、女の美には引きつけられる。そのためには、世の女は流行の衣装をまとうとか、髪の毛を染めたり、すばらしいアクセサリーをして世の男性を魅惑することを考えてくる。

 さて、きものに関する私の好みについてこんな古い話がある。いまごろはどうだか知らないが、大正の中期から昭和十年のころまで、秋口になると秩父の織り元から三人連れの商売人がその年の流行だという反物を売りに来ていた。角帯に前垂れをかけて、キチンとした風さいのセールスマンで、もちろんなじみの深い得意筋の家々では絶対信用を得ていた。私の母は、学生上がりの私のために毎年その本場秩父の銘仙を買ってくれていた。私の好みは若いころから地味で、昨年買ったのもことし買うのもほとんど同じ色合いのよく似た柄合いなので、毎年似たような着物や羽織ばかりがふえるため、母は少々機嫌が悪かった。

 当時私は、また頭の髪も人並みで時々花街にも出入りする機会もあった。ある時のこと、行きつけの料理屋の女将が「トーさんは若い人に似合わず、いつもツイなきものばっかり着ておいでる妙な人じゃ」というと「おカーさん、何をおいるのぞや、似とるようなけど、ように見るとみな違うとるきものぞな」と芸者が説明してくれたことがあった。といっても若い時から女性にもてなかったというわけではないことを付け加えておく。

 当時松山人の好みは、花街はともかくとして、大体が渋好みの地味であったと思う。それが今日は昔のような特定の花街風景がなくなって、くろうともしろうともないただ流行流行で暮れているようである。松山の銀天街・大街道を歩いていると、東京の新宿街よりも流行が早いように思われる。昔から新もの食いの飽きやすいとわれていた松山人の好みは、マスコミの勢いに乗っていよいよこのことがハッキリとしてきたといえる。

 女のきものの流行を知るには、元来がワピと静寂を楽しむ道場であるお茶席へ出席するとすぐわかるというくらい、松山のお茶人は流行に敏感のようである。

 きものについて不思議に思うのは伊予絣が地元の人から軽視されていることである。もっとも昔式の白黒ガスリでは、今日の普段着の好みにもならぬが、銘仙か大島かのように、上品なシマ柄に力を入れている今日の伊予ガスリが、相変わらず地元で需要が少ないということはおかしなことでもあり、残念である。皮肉なことは、この新ガラガスリが東京、関東方面の好みに合ってよく売れることである。四年前、徳川夢声老が松山へ来た時、伊予ガスリを賞讃して、「これはいける、このカスリをスカートにして東京で流行させてみせる」といって買って帰ったことがある(結果は聞いてもみないが)。落ちついた地味な伊予ガスリを、派手な帯で着こなしているのはなかなかイキであかぬけしたものである。決してリバイバルではなく前向きの流行である。

 最後に、女性のきものに対する私の柄にもない悪趣味といえば、そのスソ回しである。ことに女が階段を上がる時にチラチラ見せるスソ回しのうしろ姿はとても好ましく、つい前へ回って、その人の顔が見たくなるくらい魅力的である。

 いま一つ思うことは、身につけて飾るものは好むと好まざるにかかわらず積極的に流行を追う松山人ではあるが、食いものに関してはちょっと違っている。というのは、とかく他人の財布にあやかろうとする好みで、おごってもらえば食うが、自腹では我慢するというフトコロぐあいであるから、松山では名物食堂の流行が遅れるのではあるまいか。        (「愛媛新聞アド・ニュース」一九六二、五)