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  富田 狸通   伊予ぶし

 古い歴史をもつ道後温泉の振鷺閣から打ち出す刻太鼓の音に明けくれる松山は、自然の環境にめぐまれて、詩のくに、歌どころといわれる静かな明るい城下町である。

 松山で唄われる古い民謡の「伊予ぶし」は、いつごろ、誰が、どこで作り、唄い出したのか明らかでない。元禄時代に伊予でできたともいい、また江戸のイヨという遊女が唄ったのが初めだという説もある。

 この伊予ぶしが江戸末期に江戸で流行したというから不思議である。この歌詞は「伊予の松山名物名所、三津の朝市、道後の湯、音に名高い五色素麺、十六日の初桜、吉田さし桃、小杜若(こかきつばた)、高井の里のていれぎや、紫井戸や片目鮒、薄墨桜や緋の蕪、チョイト伊予絣」という色気のないお国自慢の文句であったが、
 流行の全盛期の弘化、嘉永のころには替え歌が百数十種もできている。

  この名所づくしの伊予ぶしが江戸でヒットしたということについては、こんな事情も考えられる。というのは、当時幕府の参勤交替制度で、三年間を江戸詰めにされた伊予のサムライが、望郷の念から、見たい、喰いたいの一心で、ふる里の名物名所を詠みこんで無聊を慰めて唄い出したのではあるまいか・・・・・。

 松山人は、いまこの歌詞を「正調伊予ぶし」と称して稽古をするのであるが、まことにのんびりした、しぷい本調子で、いざ唄うとなるとなかなかむずかしい小節まわしで、文句は長いしおいそれとおぼえられるわけのものでない。地元の松山人でも、若いものにはいま流行のお座敷小唄のような具合にはいかぬ。花柳界でも、伊予ぶしの舞いはできても唄える若い妓は少ないと今年八十六歳になった老妓さんは嘆く。懐古的な伊予ぶしが三味線にのって唄えるまでには二年〜三年の年期がかかる。三味はなくとも、手拭を 頭にのせて湯釜の湯口に肩を打たせながら唄う伊予ぶしの情緒は、城下町道後温泉のコマーシャルともいえる。

 ところで、名所づくしも時代とともにご多分に洩れず、いまは当時を偲ぶことができぬものもある。吉田のさし桃は、挿桃神社がその遺跡を伝え、紫井戸は水が涸れてへこみを残すのみ、その近くの片目鮒が棲んでいたという小川は埋もれて所在もわからない。また珍しかった円型屋根の三津の朝市は味気ない鉄骨の建物となり、小杜若は乱掘されるし、十六日桜と薄墨桜は、三代目四代目の脇芽や分株で、いまわず かに花を付け始めた程度の小さな樹がようやくその命脈を保っている。そして今も昔も変わらず観光客の人気を呼んでいるのは、一枚看板の温泉と五色素麺、緋の蕪それに何といっても香り高い藍紺の伊予絣である。                            (「こうさい」一九六五、七)