第十一段 (2002.11.04) 一遍会会員から道後公園の「湯釜」についての詳細なご質問ありたること。
ご質問の内容は次の通りです。
@ 鎌倉時代、通有と一遍により造られた現物であり、その後戦国時代に通直により補修されたものですか。「湯釜」には「南無阿弥陀仏」が彫られているのですか。
A それとも「通有と一遍」の湯釜ではなく「通直」の手により新たに作られた湯釜ですか。
非常に立派な堂々とした石造物であり、外観の破損もあまりなく、これが本当に「鎌倉時代」に造られ明治に入るまで実際に使われてきたのか、不思議に感じるときがあります。明治に造られた湯釜が昭和には代替わりして、道後駅前に飾ってあったりするのを見ますと考えてしまいます。奈良時代の湯釜だという人もいますがそれはちょっと疑問です。
随分研究しておられる会員のご質問でありお答えになるかどうか案じて居ります。
【松山市史】第五巻記載の公式の発表を先ずは記載しましょう。
県指定(建造物) 石造 湯釜 松山市道後公園 松山市 昭和29年11月24日 指 定
直径166.7cm,高さ157.6pの円筒形,花崗岩の湯口で、天平勝宝年間(749〜757)に作られ、正応元(1288)年河野通有の依頼により一遍上人が湯釜の宝珠に南無阿弥陀仏の6字の名号を彫ったという。享禄4(1531)年河野道直が尾道の石工に命じ、胴まわり部に天徳寺徳応禅師撰文の温泉記を彫らせた。この湯口は現在の道後温泉本館ができるまで使われたもので、温泉史上貴重なものである。
(1)円筒形花崗岩の湯口製作が天平勝宝年間(749〜757)とすれば、大仏開眼(752)の時代で伊予国に国分寺が建立された時代です。ご質問@の鎌倉時代は13世紀ですから遡ること4〜500年ということになります。「奈良時代の湯釜」説の根拠は荒唐無稽ではないようです。
(2)正応1年は一遍の最後の帰郷した年に当たります。河野道有・一遍・湯釜の宝珠・南無阿弥陀仏を結びつけるとすれば逆に正応1年しかありえないことになります。郷土史の文献では「〜という」又は「〜と伝えられる」と記述したおり確証はありません。尚[湯釜]でなく宝珠に「南無阿弥陀仏」と彫られていますが、一遍筆の確証はありません。
(3)享禄4年の記述は1710年頃に編集された「予陽郡郷諺集」(伊予史談会叢書N)に基づくものです。ご質問Aには曖昧な回答になりましたが、郷土史の多くは由来や伝承を根拠にしておりますが、明確に「〜である」とは断言できません。
(4)明治以降使用された湯釜は神の湯、養生湯始め幾つか湯釜がありましたので、今後観光資源として活用することも考えてほしいものです。昭和49年刊行の「道後温泉」(松山市発行・編集委員長 和田茂樹)が最も信頼できる研究資料集でしょう。
尚、この「湯釜」ですが、今日では「湯釜薬師」と呼称しており、毎年8月1日を「湯釜薬師祭」として温泉の守護佛をお祭りし、この祭りを皮切りに「道後温泉まつり」がスタートします。当一遍会でもお供えし会員代表が参列しております。