道後水利組合 |
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平成十年十月吉日
道後部落
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うそくにも関係があるかも知れない。 |
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谷に嫁いで来た。
こうして考えると大洲藩の名産ろ |
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次は與居島の人である。
中村勘助の娘るりは大洲新 |
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菅谷半之丞は伊予郡松前の生まれであり、
杉野十平 |
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となっていたが、
今はこの木のみとなった。
因みに |
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山の四季を彩り、
赤穂義士の快挙への思いのよすが |
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えた。
春は鮮やかな新緑で、
秋は辰砂色の紅葉で松 |
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松山藩ではこれを石手川の堤防と
この堀の堤に植 |
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の記念として、
松山に送り届けてきた。 |
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た播州赤穂の人
々は、
赤穂の特産の櫨の苗木を感謝 |
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の鑑として丁重にあつかった。
後にこのことを知っ |
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時の松山藩主
松平隠岐守定直は義士たちを武人 |
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○大高源吾忠雄
三十二歳
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○貝賀弥左衛門友信
五十五歳
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○菅谷半之丞政利
四十四歳
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○岡野金右衛門秀包
二十四歳
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○木村岡右衛門貞行
四十六歳
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○千馬三郎兵衛光忠
五十一歳
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○不破数右衛門正種
三十四歳
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○中村勘助正辰
四十八歳
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○堀部安兵衛武康
三十四歳
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○大石主税良金
十六歳
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十士の氏名
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は江戸三田の松山藩邸に於いて、
幕命により切腹した |
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元禄十六年二月四日松山藩預かりの赤穂浪士十名 |
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この木の由来
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