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伊台村誌 抜粋
@さて河野家の家臣はその分限録に詳しく載せられているが湯月殿直勤のお旗本和気郡衆十七人の内に伊代左衛門尉があるのである。
西法寺沿革史には彼が住んでいたのでこの地を伊代と称するとあるが、
恐らく地名を伊代というところに住んでいたから伊代左衛門尉の名が出たのだと思われる。
又口牌に伊代伊左衛門の蟹退治というのがあるがこれは伊代左衛門尉の間違いであると思われる。
その蟹退治というのはその昔実川から流れ出る川は屋敷から土居の溝、
小谷を経て本川に合流していて小谷の湿田の辺りは深い溝でその深さを知らずといわれ、
この淵に大きな蟹が住んでいて村人に危害を加えて仕方がなかったので郷士伊代伊左衛門(伊代左衛門)がこれを退治して吉藤の淵に捨てた。
この淵を蟹淵というのである。
その後山津波で小谷の淵は埋まり、川は清岡で合流するようになったというのである。字小谷や境の山崩れの跡は明らかに残っている。
(ご先祖が蟹退治をした話は、私が子供のころも、口伝として勝岡家に代々伝わっている。)
A小早川隆景の四国攻めの折り、湯月城の落城と引き換えに河野家の旧領維持を約束したがなかなか果たされず、
これを怨んだ河野家三十二将の大野山城守直昌、
得能備後守通慶らは秀吉が九州攻めのため西下の途中竹原に上陸して雲龍閣に入った時、これを襲撃したが果たさず、全員戦死し、
待機中の部下は竹原湾上で自決、他の侍は四散したというのである。
3その共同謀議に加わった侍の中に和気郡衆として伊代左衛門尉の名が残っているのであるが、彼は今いずこの土となっているのであろうか?
B讃岐の細川氏大軍を率いて攻め来たり、五十一代河野六郎通堯(こうの みちたか)(後の通直)が高縄城に立て篭もりし時河野一族に変心する者あって遂に敗北
身を以って上難波恵良の城恵良 えりょう 山)に逃れ、能島城主村上義弘等の意見を入れて南朝方に属して安芸国能美島に渡ったが、
その時お伴をした者は志津川六郎左衛門入道、同小川、浅海五郎左衛門尉、同大輔,、六郎三郎、正岡雅楽助、
伊田井左衛門太郎、越知掃部助、僧一人(哲上人という)の数名に過ぎなかったが、
伊田井左衛門太郎は明らかに伊台の住人である。
昔は当て字を使う事が多かったから、伊代左衛門尉も伊田井左衛門太郎も伊台の住人には違いないが、
この二人の間には二百年の開きがあるから血続的関係があるかどうかは分からないが
われらの先祖たる左衛門太郎が南朝方に組していた事は意を強ようするに足るであろう。
(わが勝岡家の先祖伊代左衛門尉は南朝方の武将 左衛門太郎の末裔といわれている)
松岡修一氏宅裏山の蟹退治で有名な「河野の太郎」塚
(松岡家で行き届いた管理がされている)
「河野の太郎」とは伊代(伊田井)太郎に間違いないと歴史家は語っている
南朝方の武将
後醍醐天皇の皇子で、南朝の征西大将軍 征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)懐良親王(かねながしんのう/かねよししんのう)
親王は五条頼元らに補佐されて四国伊予国忽那島(愛媛県松山市)へ渡り、
当地の宇都宮貞泰瀬戸内水軍衆 熊野水軍 (九鬼)などの援助を得て数年間滞在した。
塩出という方のメイルによれば、
懐良親王は1337年から1343年まで松山市旧中島町に居られました。わが四王天氏も親王をお助けするため伊勢からまいりました。