(1530年代) |
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天文初頃 |
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従兄弟宮内少輔義益と家督を争い、叔父隆重の助けに得;て、能島村上家の当主となる。 (能島騒動) |
(1555年) |
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弘治元年 |
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毛利元就に味方し、能島水軍を率いて陶晴賢と戦い勇名を馳せる。 |
(1560年代) |
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永禄元年 |
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外祖母の弟に当たる乃美宗勝の強い要請があったために、 |
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毛利元就に味方して豊前沿岸に出動し、豊後の大友宗麟と戦う。 (厳島合戦
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(1571年) |
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元亀2年 |
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大友内通により、小早川・来島氏に攻められ降伏。 (能島合戦) |
(1576年) |
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天正4年 |
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織田水軍を破り、兵糧を石山本願寺に入れる。 (木津川合戦) |
(1582年) |
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天正10年 |
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来島通総は毛利・河野氏に背き、織田信長に走る。 |
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これより先、武吉もまた信長に通じた模様、家督を元吉に譲って隠居。 (沖家騒動) |
(1585年) |
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天正13年 |
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小早川隆景の命により、務司・中途下城、代わりに屋代島・能美島を与えられる。 |
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宣教師のルイス・フロイスは、武吉を「日本最大の海賊」と評しました。 |
(1587年) |
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天正15年 |
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海賊禁止令違反で元吉は秀吉の糾問を受ける。 |
(1588年) |
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天正16年 |
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武吉・元吉父子は筑前加布里に移される。 |
(1592年) |
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文禄元年 |
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文禄元年の朝鮮出兵では、隆景に従い朝鮮に渡海しました。 |
(1597年) |
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慶長2年 |
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隆景の死に伴い、武吉父子は毛利家に帰参、竹原に住む。 |
(1600年) |
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慶長5年 |
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関ヶ原の戦いにおいては西軍方として水軍を率いて伊予松前の加藤嘉明を攻め、 |
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嫡子・元吉を戦死させてしまいました。 |
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「刈屋畑の合戦」(三津浜合戦)石田三成に応じた毛利氏の兵が伊予三津浜に陣し加藤嘉明を攻めるが、 |
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嘉明の将佃十成の夜襲を受け敗れる。 |
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伊予の関が原の合戦の舞台 三津・宮前地区 参考 「三津の歴史」 岡田義晴氏提供 |
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宮前地区は、古三津と祓川を中心に会津町、内浜町、中須賀、三杉町などの町から成り立っています。 |
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地区内にはJR三津浜駅、伊予鉄三津駅の二つの交通の要衝がありま、非常に賑やかで活気に満ちています。 |
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また、虎退治で有名な「虎舞」の芸能でも知られています。 |
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一帯は古くから開けており、政治や経済、運輸の中心として栄えてきました。 |
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現在も、地区内にはかっての繁栄を物語る数々の文化遺跡が残されています。 |
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特に気が付くのは、住宅街にたくさんの祠があることです。 |
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これは、伊予の関が原の合戦と呼ばれる「刈屋畑の合戦」の名残です。 |
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「刈屋畑の合戦」は慶長五(1600)年、数百艘の兵船を率いた毛利軍が伊予三津浜に上陸、 |
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伊予正木城の加藤義明に城の明渡しを迫ったことに端を発します。 |
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折しも義明軍の主力は関が原に出向いており、留守を守っていたのは家老・佃十成以下わずかな兵力だけでした。 |
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一計を案じた佃は、夜の闇に紛れて各地に火を放つという奇襲を仕掛けます。 |
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結局、これにより毛利勢は破れ、この時に毛利方であった村上水軍の村上元吉らが壮絶な死を遂げました。 |
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町内の祠は、心優しき地元の人が、この時亡くなった兵士たちの霊を慰めるために建立したものです。 |
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戦いから四百年経た今も、地元の人は祠うを「お塚さん」と呼び手厚くまつっています。 |
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(財)松山市生涯学習振興財団 発行 らいふ・ろんぐ 1999年秋号 より |