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伊予能島水軍 頭領 村上 武吉
世後期における海上の武装集団「水軍」  瀬戸内水軍史  今治・大島地図  宮窪町地図
長谷川等意「合戦図屏風」  愛媛県北部、越智郡(おちぐん)の町 宮窪町  宮窪町
慶長五(1600)年の「刈屋畑の合戦」


鶴姫の鎧
村上武吉 (むらかみ たけよし) 1532 天文元年~1604 慶長9年
戦国期、能島海賊衆(水軍)の頭領、現宮窪町に本拠地を置き、西日本一帯の海域を支配し、
海賊大将軍と称された。
別名は少輔太郎・掃部頭・安房守・大和守(従五位)を称す。
父は来島・因島の村上氏(義弘)の惣領家の血筋に当たる村上掃部頭かもんの かみ 義忠、
母は平岡左近将監さ こんの しょうげん の娘、正室は(来島)村上道康の長女、後室は同次女。 (北畠正統系図)
平岡左近将監の末裔が松山市荏原の福田家を起こす(我が家の親戚筋 荏原の福田)
村上 義弘 菩提寺 高龍寺
愛媛県越智郡吉海町名2916-2 Tel 0897-84-2129 Fax 0897-84-4495
源氏 伊予村上 能島村上
経基 満仲 頼信 頼清 ・・・仲宗 顕清 定国 清長 頼冬 頼久 頼泰 頼貞 義弘 ・・・義顕 雅房 隆勝 義忠 武吉 元吉 元武 (図書家)
来島村上
・・・顕忠 吉元 康元 通康 通総 康親 通春
因島村上
・・・顕長 吉資 吉充 吉直 尚吉 吉充 吉亮
yor
大山祇神社の鶴姫の像
女性の (鶴姫の) 鎧
紺絲 (こんいと)
(すそ) 素懸 (すがけ) (おどし)
胴丸 (どうまる)
胸の部分がふっくらとして、
ウエストがひき締まり、
女性らしい優美な形をしている。
鶴姫 とは
鶴姫 辞世の句
わが恋は 三島の浦の  うつせ貝
むなしくなりて 名をぞ わづらふ   
        
現在する日本唯一の女性用鎧。
鶴姫の鎧
大山祇神社 所蔵 
大祝  鶴姫 (おおほうり  つるひめ)
小早船 (こばや ぶね)
関船 (せき ぶね)
安宅船 (あたけ ぶね
しょう‐げん【将監】シヤウ 近衛府の判官ジヨウ。
【掃部頭】かもん‐の‐かみ掃部寮カモンリヨウの長官。かにもりのかみ。
かもん‐りょう【掃部寮】 レウ平安時代、宮内省に属し、
宮中の諸行事の設営や清掃のことをつかさどった役所。
かにもりのつかさ。かもりのつかさ。かんもりのつかさ。
平岡左近将監(さこんのしょうげん) 伊予河野家流族十八家の一つ、荏原城城主
お城 いろいろ
荏原城跡 曲輪(くるわ)
平岡左近将監の末裔(ルイ)を頭主とし 荏原に福田家を起す (福田 ルイ)
荏原の福田家 は 我が勝岡家とは親戚
 
我がご先祖、伊代佐衛門尉も伊予河野家流族十八家の一つ。
すえ‐はるかた【陶晴賢】スエ 室町末期の武将。大内義隆の家臣。
初名、隆房。義隆に叛して自殺させ、大友宗麟の弟晴英(大内義長)を主君とした。
毛利元就との厳島の戦いで敗死。(1521~1555)
おおとも‐そうりん【大友宗麟】オホ戦国時代の武将。名は義鎮ヨシシゲ。
豊後の府内におり、九州のうち6ヵ国守護となる。
キリシタンに帰依して、南蛮貿易を盛んにした。(1530~1587)
こばや‐ぶね【小早船】 中世末以後用いられた小形の関船セキブネ。
艪ロ40梃立て以下の船。小早。小関。
江戸時代の小形の廻船。能島の小早船こばや‐ぶね 【小早船】
大祝安房の戦死後、大祝(おおほうり)安舎に替わって、
大三島水軍の陣代となったのが大祝(おおほうり)鶴姫であった。
鶴姫18歳(天文12年=1545兄越智安成の弔い合戦を陶晴賢に挑み敗死)
家紋 折敷の内三の字
天文十二年(1543)六月、大内義隆は陶晴賢の軍勢をもって、三度目の大三島攻撃を敢行した。
過去二回の合戦に敗れている大内軍はあらゆる兵力を結集して三島水軍を攻めた。
この戦いで鶴姫の右腕で恋人ともいわれる越智安成は秘術をつくして戦い、最後の手段として早船に乗り、敵の将船をめがけて突っ込んだ。
そして安成は戦死した。 
鶴姫は、三島城に帰って軍将を集め、もう一度最後の攻撃を敢行することを告げた。
そして、鶴姫は残った早船を引き連れて、台の浜を出撃した。
大内軍の不意を突いた攻撃は見事に決まり、敵船は沈むもの、逃げるもの散々の態であった。
しかし、三島水軍の損害も大きかった。
すでに敵を追撃する余力もなかった。
しかし、三島社は守り抜いたのであった。
 戦いの後、鶴姫は安成の後を追って、身を投げて死んだという。
いまも、大三島神社に日本唯一の女性用鎧が伝わっており、それは鶴姫が着用したものだという。
(1530年代) 天文初頃 従兄弟宮内少輔義益と家督を争い、叔父隆重の助けに得;て、能島村上家の当主となる。 (能島騒動)
(1555年) 弘治元年 毛利元就に味方し、能島水軍を率いて陶晴賢と戦い勇名を馳せる。
(1560年代) 永禄元年 外祖母の弟に当たる乃美宗勝の強い要請があったために、
毛利元就に味方して豊前沿岸に出動し、豊後の大友宗麟と戦う。 (厳島合戦 )
(1571年) 元亀2年 大友内通により、小早川・来島氏に攻められ降伏。 (能島合戦)
(1576年) 天正4年 織田水軍を破り、兵糧を石山本願寺に入れる。 (木津川合戦)
(1582年) 天正10年 来島通総は毛利・河野氏に背き、織田信長に走る。
これより先、武吉もまた信長に通じた模様、家督を元吉に譲って隠居。 (沖家騒動)
(1585年) 天正13年 小早川隆景の命により、務司・中途下城、代わりに屋代島・能美島を与えられる。
宣教師のルイス・フロイスは、武吉を「日本最大の海賊」と評しました。
(1587年) 天正15年 海賊禁止令違反で元吉は秀吉の糾問を受ける。
(1588年) 天正16年 武吉・元吉父子は筑前加布里に移される。
(1592年) 文禄元年 文禄元年の朝鮮出兵では、隆景に従い朝鮮に渡海しました。
(1597年) 慶長2年 隆景の死に伴い、武吉父子は毛利家に帰参、竹原に住む。
(1600年) 慶長5年 関ヶ原の戦いにおいては西軍方として水軍を率いて伊予松前の加藤嘉明を攻め、
嫡子・元吉を戦死させてしまいました。
「刈屋畑の合戦」(三津浜合戦)石田三成に応じた毛利氏の兵が伊予三津浜に陣し加藤嘉明を攻めるが、
嘉明の将佃十成の夜襲を受け敗れる。
伊予の関が原の合戦の舞台 三津・宮前地区 参考 「三津の歴史」 岡田義晴氏提供
宮前地区は、古三津と祓川を中心に会津町、内浜町、中須賀、三杉町などの町から成り立っています。
地区内にはJR三津浜駅、伊予鉄三津駅の二つの交通の要衝がありま、非常に賑やかで活気に満ちています。
また、虎退治で有名な「虎舞」の芸能でも知られています。
 一帯は古くから開けており、政治や経済、運輸の中心として栄えてきました。
現在も、地区内にはかっての繁栄を物語る数々の文化遺跡が残されています。
特に気が付くのは、住宅街にたくさんの祠があることです。
これは、伊予の関が原の合戦と呼ばれる「刈屋畑の合戦」の名残です。
 「刈屋畑の合戦」は慶長五(1600)年、数百艘の兵船を率いた毛利軍が伊予三津浜に上陸、
伊予正木城の加藤義明に城の明渡しを迫ったことに端を発します。
折しも義明軍の主力は関が原に出向いており、留守を守っていたのは家老・佃十成以下わずかな兵力だけでした。
一計を案じた佃は、夜の闇に紛れて各地に火を放つという奇襲を仕掛けます。
結局、これにより毛利勢は破れ、この時に毛利方であった村上水軍の村上元吉らが壮絶な死を遂げました。
町内の祠は、心優しき地元の人が、この時亡くなった兵士たちの霊を慰めるために建立したものです。
戦いから四百年経た今も、地元の人は祠うを「お塚さん」と呼び手厚くまつっています。
(財)松山市生涯学習振興財団 発行 らいふ・ろんぐ 1999年秋号 より
(1604年) 慶長9年8月22日 死去 享年7 2歳 大仙寺殿覚甫元正居士、武吉夫妻の墓所は東和町(周防大島) 元正寺内にある。

水軍
I プロローグ
 水軍 すいぐん 中世後期における海上の武装集団。水軍というのは現代語で、
当時は海賊衆や警固衆とよばれているが、水軍という場合は
戦国大名らに編成された海の軍事力の意味が強くなる。
Ⅱ 海賊の成長
 平安時代以来、北九州、瀬戸内海、紀伊水道、
速吸瀬戸などを中心に海賊が成長し、鎌倉後期には、
倭寇も横行するようになった。こうした海賊に対して、
鎌倉幕府の取り締まりはほとんど効果をあげず、
室町幕府も初めはとりしまる方針をとっていたが、やがて、
海賊の海上権益を黙認し、
遣明船の警護などにも利用するようになった。
彼らが海賊衆、警固衆とよばれるのは、おもにこれ以降である。
その結果、海の支配は海賊衆(警固衆)にゆだねられ、
なかでも強大な者は、海の大名へと成長した。
Ⅲ 戦国大名と水軍
 海賊衆の中には、守護大名と主従関係をむすぶ者もあったが、
本格的な水軍の創出は戦国期になってからである。
各地の戦国大名は、領国沿海の海賊衆をあつめ、あるいは、
海賊衆の成長していない地域では他国からまねいて、水軍の編成をはかった。
多くの場合、彼らの既得権をみとめるほかに、
新たに給地をあたえるなどしたが、
ときには配下の陸の武士団を水軍として育成することもあった。
安芸(あき)の毛利氏は、はやくから小早川水軍などを
みずからの軍事力に編成したほか、
因島(いんのしま)、能島(のしま)、来島(くるしま)の三島村上氏とも連携を強め、
村上水軍の基地をつくっている。
ほかに、豊後(ぶんご)の大友氏、相模の後北条氏なども
それぞれに水軍を編成、育成しており、甲斐の武田氏も、
今川氏をほろぼして駿河(するが)を手中にすると、
さっそく伊勢の海賊衆、小浜氏らをまねいて水軍を編成した。
織田信長は熊野海賊衆の九鬼(くき)氏を支配下においたほか、
滝川一益にも水軍を育成させ、
豊臣秀吉も子飼いの藤堂氏、脇坂氏、加藤氏らに水軍を編成させている。
IV 海賊衆の消滅
 このような動きに対し、たとえば、能島村上氏のように、
複数の大名領国にまたがって通行税徴収の港湾をもつ海賊衆の場合、
いずれの大名とも等距離の独立的な位置をたもとうとすることはあった。
しかし、豊臣秀吉が天下を統一すると、海の支配と統制がすすみ、
海賊衆への圧迫も強まった。
豊臣政権は海賊衆の独立と既得権を否定し、
彼らを大名の配下に編成させる方針をとった。
その政策は、刀狩令(→ 刀狩)と同時にだされた海賊禁止令と、
文禄・慶長の役によって強力にすすめられ、
その結果、海賊衆はすべて各地の大名に属して、
その水軍に編成されるようになる。
V 近世の水軍
 大名権力のもとに編成された水軍は、江戸時代には、
船手(ふなて)組、船手方、船手衆などとよばれ、
大名の参勤交代などの際に、船の操縦や警護をおこなったほか、
領国内の海上船舶の掌握などの業務についた。
また、水軍の大将の中には、摂津国三田(さんだ)藩主の九鬼氏、
豊後国森藩主の久留島(くるしま)氏のように、
織豊政権をへて近世大名になった者もある。
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近世の水軍 各地の戦国大名は、海上の軍事力をもつために
海賊衆を組織化するなどして水軍を編成した。
しかし、統一政権が誕生すると活動は衰微し、
大名の水上での警護や領国内の船舶を管轄するようになった。
徳川家康は大坂冬の陣(1614)で九鬼氏の水軍をつかい、
大坂城の櫓(やぐら)のひとつを堀から大火矢をうって破壊したという。
長谷川等意「合戦図屏風(びょうぶ)」より。
出光美術館
1614年11月、約20万の諸大名軍が大坂城を包囲して冬の陣がはじまる。
豊臣氏に諸大名の応援はなかったが、
それでも10万近い兵力を確保して堅城で名高い大坂城を頼りに
籠城(ろうじょう)戦にでた。
大規模な戦闘がおきないうち、
12月に城の堀をうめることを条件に和平が成立。
豊臣氏はこれを外堀だけの埋め立てと解釈したが、
幕府は内堀もうめたてた。
豊臣氏が抗議し内堀などをふたたびほると、
2度目の激突はさけられなくなった。翌15年4月、
再度の大坂攻めで夏の陣がはじまった。
大坂城の防御力をうしなった豊臣方は野戦をえらび、
大和・和泉両国などを襲撃した。
しかしこの緒戦でも戦果はあがらず、5月7日、
命運をかけて勝負にでた茶臼山・岡山付近の大激戦で、
一時は真田幸村が家康の本陣にきりこんで
家康を危機におとしいれる場面もあったが、
豊臣方の主力は壊滅した。
翌8日、大坂城が落城。秀頼らは自害し、豊臣氏はほろんだ。

宮窪町 みやくぼちょう 愛媛県北部、越智郡(おちぐん)の町今治・大島地図 宮窪町地図
瀬戸内海の芸予諸島の大島東部および、能島(のしま)、鵜島(うしま)、見近島(みちかじま)、
九十九島(つくもじま)など周辺の島と、南東方10kmの燧灘(ひうちなだ)にある四阪島からなる。
三方を海でかこまれた町域の大部分は、吉海町との町境にそびえる念仏山(ねんぶつやま。
382m)につらなる山地で占められ、海岸線にそって集落が開ける。
東の伯方島(はかたじま)とは見近島を経由して本州四国連絡橋の伯方大島大橋でむすばれている。
1952年(昭和27)町制施行。面積は18.38km2。人口は3839人(2001年)。
おもな産業は農業と漁業。農業ではミカン、ハッサク、イヨカン、レモンなどの柑橘類の栽培が中心。
漁業では天然資源の減少から、近年はアワビ、ヒラメ、タイなどの栽培漁業に力がいれられている。
そのほか、地場産業として400年以上の歴史をもつ石材業がある。
北部は「大島石」とよばれる良質の御影石(みかげいし:→ 花崗岩)の産地で、念仏山付近に採石場が多くもうけられている。
四阪島には1905年(明治38)以降、別子銅山の銅を精錬する住友金属鉱山の銅製錬所がおかれ、1976年まで操業がつづけられた。
平安末期以降、京都の醍醐寺領の荘園(大島荘)となり、当町はその甘原方に相当した。
戦国時代、東方沖合の能島は村上水軍(→ 水軍)の本拠地となった。
能島村上氏の居城であった能島城は、能島に本丸、二の丸、三の丸、出丸が、属島の鯛崎島(たいざきじま)には出丸と見張り場をもつ、
水軍城砦としては大規模なもので、その城跡は国の史跡となっている。
宮窪地区の能島村上水軍資料館には朝鮮出兵時の戦利品である鎧兜(よろいかぶと)、村上武吉(たけよし)が着用した陣羽織、
水軍戦法の研究書、海外貿易でえたギヤマンなどが展示されている。
友浦(ともうら)の善福寺(ぜんぷくじ)境内に鎌倉時代の刻銘をもつ宝篋印塔(ほうきょういんとう)がのこり、国の重要文化財に指定されている。
大島では文化年間(1804~18)から四国八十八カ所を模した島四国八十八カ所が開設されており、宮窪町にはそのうち19の札所がある。
九十九島、明神島(みょうじんしま)などが瀬戸内海国立公園の一部にふくまれる。
瀬戸内水軍史
著者
愛媛県越智郡上浦町井口里三三七五番地
松岡 進
振替口座 徳島 七三六六
電話 0八九七ー八七-二三一九
発行者
愛媛県越智郡上浦町井口里三三七五番地
瀬戸内海文化研究所
印刷者
愛媛県今治市通町二丁目
マルキ高速印刷株式会社

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