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年代雑記 秘密暴露 番外口伝集 伊代屋一族 岡田家一族
年代雑記 前説
まえがき もしも、本当に「もしも」です。
ここに出てくる人たち、色々な意味でお世話になった人たちの「おかげさま」で今日の私が生きている訳です。
もしも、そう言えばそんな奴が昔いたな、ああ「あいつか」、まだ元気でいたのか?親父からそんな話をそう言えば聞いた事がある・・・かもしれない。
それだけの話です。
50〜60年前の昔話です。年寄りの繰り言です。
むしろ私の友人、知人に宛てた回顧録???です。
庭を眺めながらふっと思い出し、愛犬「十五郎」と遊びながら「あっ、そうそう」と思い出すままに、勝手気ままに追加改定します。
あしからず。(追加改定  H13年10月31日
@ 誕生 西暦 1932年 昭和 7年 0歳
私が呱々の声をあげたのは松山市松前町です。
(とされていますが、訳あって、本当は九州大分の別府鶴見・明礬かも・・・。
何故なら、祖母の再婚した主人の里が鶴見・明礬だから)親戚一同が集まって、思い思いの名前を紙に書き、高い所から撒いて、最後に落ちた紙が「昭」だったのでそう命名したそうです。その後すぐ、明礬(みょうばん)温泉で有名な九州は大分県別府市鶴見・明礬に移り住みました。
勿論、毎日、明礬温泉のお湯をつかいました。
(と言って聞かされました)湯の中で「おんぎゃー!おんぎゃー!」ではなく「良い湯だ!いい湯だな!」といったかどうか?記憶にはございません。
その為か、今でもお風呂が大好きで一日3回、いや5回入る時もあります。
もの心がついてからの記憶ですが、松山から別府に行く時乗った船は「こがね丸」だったと思います。高浜の北桟橋からでした。
見上げるよな大きい船でした。
まだ小さい頃、小学生にはなってない頃、別府から叔父さんが松山に私の成長ぶりを見にきたました。
丁度折あしく「腸カタル」(一時は生死の間をさ迷った)で病院から退院したばかりでしたので、結果的には病気見舞いになった訳ですが、1円( 紙幣)小遣いを呉れました。
その当時、子供の知っている金額は1銭とか、5厘(りん)でしたので、思わぬ大金が入ったので、病気も忘れて小躍りして喜んだ事をいまだに覚えています。
叔父さんの名前は忘れました。
「坊主地獄」も何となく覚えています。明礬の「遠藤」と言うのが義理のお爺さんになります。
なんでも、昔は庄屋さんをしていたとか聞きました。
「遠藤」のお爺さんのお墓参りが(宗旨は真言宗)私の課題です。お寺が分からないので、それを探す事から始めなければいけないのです。
「はる」ばあさんの分骨も課題です。親不孝ではなく、祖父母不孝で申し訳なく思っています。
A 幼年期 西暦 1933年 昭和 8年 1歳
御幼少?のみぎり「広島」にいました。記憶を辿ると比治山公園、猿猴(えんこ)橋(猿の彫刻がしてある欄干があった)稲荷町、電車、東京音頭(向かいにレコード店があってこの曲が掛かると床の間の掛け軸の陰から踊りながら出てきておどけていたそうです。何故かこの年になっても東京音頭はカラオケで歌えます。記憶にはございませんが)「しもひがし」(下東?)というお酒やさん(酒造業)のお兄ちゃんに「比治山公園」に遊びに連れていってもらってました。宮島にもよく連れていってもらいました。寄せ木細工の「おもちゃ」(組み立てるのが大変だったように思います)、ガラス細工の可愛らしい「鹿」、そうです「鹿に餌をやってはいけない」と言われたような記憶があります。終戦直後、「ピカドン」の怖さも分からないまま、おふくろが広島に行きました。どこがどこだか全く分からないほどの焼け野が原だったと言っていました。「しもひがし」さんは新潟の人だと聞いていました。今一族の方はどこにいらっしゃるのでしょうか?疎開していて無事だったら良いのですが。義理になるお爺さん(遠藤)がいました。西洋蝋燭の研究をしていました。アメリカ人の 技師と一緒に和蝋の黒さを消す研究だったそうです。そのアメリカ人の技師から「猫」の飾りの付いた時計を帰国する時貰ったそうです。戦災で焼けてしまいましたが、小さい時は「恐いにゃんこの時計」でした。「松山」から「広島」に船で行くと時、石崎汽船の「第11相生丸」に乗ったと思います。「音頭の瀬戸」を過ぎると船の回りに「簾(っすだれ)」がおりました。呉の軍港のそばを通るからです。スパイに見せない為だそうです。宇品に着くと電車に乗りました。比治山か稲荷町でおりました。何時も大歓迎されました。親戚だと思っていました。「しもひがし」さんとどんな関係か今ではまったく分かりません。
B 少年期 西暦 1938年 昭和13年 6歳
本籍地の松山で保育園に入園しました。阿沼美神社横の小さい小さい保育園でした。その当時、保育園に行く子はあまりいなかったと思います。入り口が花(バラ?)のアーチになっていました。垣根にも花がいっぱい咲いていました。隣が女優の三木(旧姓安永)弘子の家でした。姉が私と同い年だったとおもいます。その後、神社の境内にある常盤幼稚園に入園しました。初恋はその時の「伊藤」先生でした。今、当時の写真を見ると面長な日本風の美人先生です。雇っていた「ばあや」のミスで「大腸かたる」に罹り、生死の間をさまよったのもこの頃です。付属小学校に入学しました。入学試験がありまして、その時のエピソードですが、先生に「これは何ですか?」と人参を出された時、はじめ大根と答えたそうですが間違っていると言われても頑固にも「赤いい大根」だと言い張ったそうです。いまだに頑固です。その時の連中とは、毎年同窓会をやってます。昭和18年度卒業です。数年前、卒業して50年と言う事で卒業式に来賓として列席しました。可愛い孫くらいの生徒と一緒に「仰げば尊し」を歌いました。感無量でした。子供の頃の友達の名前を今ごろになって懐かしく思 い出しています。時計屋の浅井の「いっちゃん」電気屋(いなずま堂)の蔵本の「のぶちゃん」はぎれ屋の「しずかさん」洋服屋の野間の「きみちゃん」ふとん屋の荒井の「けんちゃん」お菓子屋さん(松国堂)の松崎の「たみちゃん」「ふさちゃん」薬屋(健康堂)の渡部の「じゅんちゃん」メリヤス屋の杉山の「としちゃん」などなど。子供は遊びの天才です。ごみ箱、軒先に置いてある大八車・代八車 (だいはち‐ぐるま(八人分の仕事の代りをする意) 荷物運搬用の大きな二輪車で、二〜三人でひくもの。江戸前期から使用された。)何でもかんでもそこらに有るもの全てが遊び道具でした。そして悪さをして近所の「おいさん・おばさん」によく叱られました。古町にあった変電所の近くの「時計」池(池の形が時計に似ていたのでそう呼んでいた)に釣りに行きました。釣った魚(ふな)は防火用水(セメントで出来た水溜)に入れました。「ぼうふら」を食べるからです。この頃「岡田十五郎翁」の話をよく「はる」お祖母さんから聞きました。娘の頃に久万の台の新池で「十五郎」さんの記念碑ができて式典に列席したというう話です。また、「十五郎」さんの姉さんが家老の「菅五郎衛門」に仕えていたので「菅の」ばあさんと呼ばれていた事など聞きました。御維新の後は、御殿を下がって「福田家」で暮らしていた事(邦姫さまの乳母だった)、欄間に大長刀が置いてあった事、決して布団に入って寝なかったことなど(松山城の二の丸にいてお姫様の警護役だそうです)今や伝説です。その故か、親戚に長刀の名手・師範(竹内光子・東京在住)がいて、今でも靖国神社の例祭の奉納試合に出ているそうです。ちなみにご主人(故人)は松山藩家 老の末裔で剣道の名手でした。
C 戦争中 西暦 1941年 昭和 16年 9歳
中学2年生の時、少年航空兵を志願してもないのに、強制的にグライダーの訓練をさせられました。敵(アメリカ)が高知に上陸した時、落下傘部隊をグライダーに載せて、四国山地を越えて音もなく攻撃する仕組みだったそうです。そう言えば連合軍がヨーロッパに巻き返し攻撃をした時、映画で見ましたがパラシュート部隊がフランスの町に降下していました。考える事は皆同じだったのでしょうか。今にして思えば良い経験でした。むしろ、この年でグライダーの経験が有る事を自慢しています。当時、第2級の資格だったと思います。戦災に遭い「東長戸」の「安田」さんのお宅で暫くお世話になりました。「銀シャリ」(白米のご飯)を食べさせてもらいました。自転車で遊んでいて川に転落し、前歯をかぎました。「金歯」を入れましたが、今尚、健在で<にっこり笑う>とピカット光ります。私の「シンボルマーク」です。鰻をさっきの川で釣りました。石垣の隙間に泥鰌(どじょう)の餌を付けて釣るのですが、釣ると言うより引っかけるのですが、掛かった時の重さと言うか鰻の引っ張る力の物凄さは今でも覚えています。釣った、いや、引っかけた鰻はさほど大きくなかっ たのですが、蒲焼きにして10人位が一切れずつ食べました。食べ物のない頃ですからご馳走もご馳走、友達みんなに言いふらしました。中学2年生の時です。
D 終戦後 西暦 1945年 昭和 20年 13歳
映画館でアルバイトをしていました。1年の夏休み実習が縁で、3年の2学期まで2年半の間です。実習中の映写技師としての働き振りが気に入られ、アルバイトしないかと誘われ担任の先生に相談して働くことに決めました。当時、学生のアルバイトは珍しかったと思います。いろいろ、社会勉強をさせてもらいました。また、業界用語も覚えました。この社会、芸能界にも通じるのですが、最初会った時の挨拶は、朝でも夜でも「おはよう御座います」です。お別れは必ず「お疲れさん」です。NHKでもテレビが始まった頃から使われ始めたような記憶があります。映画関係の人が入社したからだと思います。「もぎ」または「もぎり」は入り口で切符を取る人のこと。入場券の半券を「もぎる」「ちぎる」からだと思います。「てけつ」は切符売り場のこと。チケットから転じてテケッツ、短くして「てけつ」だと思います。映画のフイルムは35ミリフイルムですが、画面の大きさは24X16ミリで、普通の写真の36X24ミリとは縦横の比率は同じでも面積が小さいのです。保管はマガジン(雑誌ではなく火薬庫)、つまりブリキで出来た丸い平べったい「かんかん」の中です。1巻 の映写時間は約12分ほどです。当時、映画は2時間が平均でしたから10巻で映画1本分でした。フイルムはリールには巻かれていないので、映写機に掛けたり、はずしたりが大変要領のいる仕事でした。映写した後、フイルムを巻き戻す作業、これがまた大変でした。リールなしで巻かれたフイルムを崩さないように、緩まないように巻き戻さなければいきません。力もかなり必要です。巻きもどす機械は、上に映写済みのフイルム掛け、下に巻き込むためのハンドルのついた円盤(その円盤に沿って枠なしで巻く)ただそれだけマシーン?です。右手でハンドルを勢い良く回しながら、左手で映写済みのフイルムにブレーキを要領よく掛ける、1分少々で巻き取るその早業、今思い出して懐かしさで一杯です。大将が河原さん、彼女といつも待ち合わせしていた佐伯さん、いろいろ面倒をかけた飯田さん(かわいい妹さんが一緒に働いていました)、同い年くらいの八束さん、テケツの矢野さん・・・。モギの渡邊さん(色の白い可愛いお姉さん)、元気者の坂田さん、三津の清水さん、先ほど話した飯田さん(同い年くらいでした)。清水さんの兄さんは看板書きの武智さんの弟子でした。その武智さんの 娘さんがNHK松山で美術の化粧さんをしていた時お会いしました。偶然とはいえ不思議な縁を感じます。支配人は多賀さんで、陸軍中野学校出の元軍人いやスパイでした。マレーシア方面にいたそうです。戦争中の話をたくさん聞きました。現地人に為りきるため、裸足で訓練したそうです。現地人は足の指が開いているそうです。顔の洗い方から、トイレの使い方、あれのやりかたまで一切の訓練を受けるそうです。スパイは映画でしか知りませんでしたが、なかなか大変だったようです。事務員の中村さんは、兄さんが同じ映画館の看板の仕事をしていました。映画館と言いましたが、この映画館は何処にでもある映画館とはちょっと違った映画館です。市役所の三階にある、市議会を開くホールなのです。「市庁ホール」といいました。市議会のある時は休みです。夜は必ず映画館を開けます。昼間、時々休館するだけです。従って、窓には黒い遮光用のカーテンがしてありました。ずしーんと重い、片面黒、片面赤のビロードみたいなやつでした。場所によっては板戸でした。3階の窓の外に板戸がありました。この板戸で危なく命を落としかけました。風の強い日でした。板戸が一枚はずれて光が漏れ、 室内(ホール)に一条の光の筋ができました。すぐ直さなければなりません。壊れた板戸を直すには何枚か余計にはずしてホールの中から外にでるか、ちょっと離れたといっても雨樋に手を掛ければ渡れる位ですが、廊下の窓から外にでて直すかしか方法はありません。最初の方法は観客に大迷惑です。廊下の窓から、危険を冒して直すしかありません。左右に開閉する窓です。ガラスが片側割れていました。窓から出て雨樋に手を掛けたとき手が滑り、あっと思った瞬間、ジャンバーを着ていて良かったと思いました。ガラスが割れていて良かったと思いました。高いなあと思いました。下には人がいましたが、たれも上を見ていませんでした。左手が、ジャンバーを着ていた左手が、割れたガラス窓の枠をしっかり抱えて、ぶら下がっていました。後はあまり記憶にありませんが、壊れた板戸は直しました。何事も無かった様に、映写室に戻り映画を映していました。興奮していて、誰にもさっき起きた事、命拾いした事を話せませんでした。今思えば、神様、仏様、ご先祖様・・・のおかげと感謝しています。
E 就職(松山T) 西暦 1950年 昭和 25年 18歳
就職難時代でした。「放送局」、「日本電信電話公社」、「郵政省電波管理局」の三つに願書を出しました。最初に一次試験があったのが「放送局」でした。一応、合格して二次試験を待つばかりでした。「日本電信電話公社」、「郵政省電波管理局」の試験が始まりましたが、先生から受験を止められました。「放送局」が合格しているから、ほかの者にまわしなさいと言う事で、訳も無く「放送局」に入りました。子供のころから工作、特に電気もののモーターとかラジオが好きでした。鉱石ラジオを聞きながら、声の大きくなる方に歩いていったら、放送局まで来ていた位ですから。電気技師になりたかったので、喜んで入社しました。昔は、「技師」、「技手」、「技手補」と技術者には三段階ありました。国家試験を受験して入社1年で「技手」ではなく、改正された「第二級無線技術士」となりました。「第一級無線技術士」を受験しても合格していた筈ですが、と言うのは当時法律が改正されたばかりで技師の数が少なく業務に支障が出るほどでしたので、受ければ通る時代でした。五年後に「第一級無線技術士」を受験しましたが、難しくて歯が立ちませんでした。四国で年間 数人しか通らなくなっていました。苦節二年、やっと合格しました。とにかく勉強になりました。その事は「八幡浜時代」で再出します。「NHK」と呼ばれるようになったのは、それから間もなくでした。放送法が成立し民間放送が出来ました。
F 八幡浜 西暦 1955年 昭和 30年 23歳
小学生の頃、52銀行(今の伊予銀行)に勤めていた母に連れられて、会社のお姉さん達と一緒に、野球の試合を見に来たことがありました。八幡浜商業(今の八幡浜高校)のグラウンドで黄色い声で応援した記憶があります。帰り道、長浜の開閉橋を見ました。大きい橋が上がると船が通って行きました。(小学生の作文風ですね)1955年5月4日朝、愛宕山山頂のNHK八幡浜放送局(ラジオ送信所)に着任しました。女子事務員の泉さんに「こわかったでしょう。何処から上がって来られました?」と問われて、「八幡神社からです。怖いことはなかったです」と言うと「?」顔で「疲れたでしょう。しんどかったでしょう」と言い直してくれました。八幡浜弁で「こわい」とは「つかれる」ことでした。最初の八幡浜弁との遭遇は駅前から乗ったバスの中でした。漱石の「坊ちゃん」よろしく、マッチ箱ほどではないけれど、運良く目の前に居たバスに乗り込み「神社前は何処ですか?」と聞くと、間もないくらいに「ここです」と言われ、驚いて降りようとした時「こん人が降りなはると」と言われ、なんと丁寧な言葉ずかいだなと関心しました。後で分かった事ですが、バスはひと 停留所乗っただけでした。八幡浜での一番の出来事は「結婚」です。縁は異なものと言いますが、私の家は戦前に化粧品屋をやっていましたが、女房も化粧品屋で働いていました。宗派が臨済宗で、私の寺の伊藤住職の娘さんが嫁入りした八幡浜の「万松寺」(ばんしょうじ)が菩提寺です。八幡浜での二番目は、第一級無線技術者国家試験に合格したことです。二年掛かりました。若いころは勉強家だったみたいです。自慢話になりますが、その頃一年に一人しか合格しなかった位の難関でした。三番目と四番目がなくて五番目は大学の通信教育が頓挫したことです。スクーリングのための一年間休職を申し出たところ言下に断られ、上司と喧嘩したことを覚えています。放送業界ではテレビ時代の夜明け到来でした。進駐軍に顔の利く先輩(池田さん:故人:付属小学校の同級生の兄さんで可愛がられました)から送られてくる「ラジオ アンド テレビジョン ニュース」と言う雑誌を読んで勉強しました。アメリカではこの時すでにカラーテレビ時代でした。原書でしか勉強できない位アメリカが進んでいました。
G 高知(T) 西暦 1958年 昭和 33年 26歳
昭和33年11月23日、高知に始めてテレビの電波が発射されました。「竹林寺」と「牧野植物園」で有名な「五台山」の鉄塔から、大相撲中継を試験放送した訳です。相撲好きの高知市民は熱狂しました。記念番組で「20の扉」が生中継されました。ペギー葉山が武政英作の採譜、編曲した「南国土佐を後にして」を歌い大ヒットしました。その当時、町のクラブ歌手で「ペギー山」と言うのがいて笑わせました。その位この歌でペギー葉山は有名になりました。武政英作さんと言えば、先生作曲の「交響曲」の録音テープを頂いて今でも大事に保管しています。2トラック ステレオ 19.5センチオープンリールです。内容は1.交響詩”四国路にて”49.4.30 於 渋谷公会堂 東京交響楽団 第一章 春雷(冬-春) 第二楽章 稲雀(夏ー秋) 第三楽章 秋祭り(秋ー冬) 2.交響詩”珊瑚”48.4.11 於 日比谷公会堂 東京交響楽団 第一楽章 白鳳の地震 第二楽章 珊瑚 第三楽章 祭りの夜 第四楽章 土佐の海 3. 絵金の絵 ”夏祭りのおどろ絵に依る幻想曲” 46.7.19 於 京都大映撮影所 京都交響楽団 武政英作 作曲・指揮 (先生直筆の説明文より)以上、私の貴重な先 生とのお付き合いの記しであり、宝です。高知時代で忘れられない事は母親の死です。小柄ですが元気そうな体格が災いしたのか、掛かり付けの診療所でも、良い医者と聞いて掛かった医者も「大丈夫です。この薬で治ります。」薬はただの胃薬でした。英会話の塾?で知り合った市民病院の堀江先生に診察して頂いたときは、手遅れでした。もっと早かったらなどと思いますが、寿命と諦めるしか仕方がありません。生きていれば91歳です。いとこは長崎で、寝たきりですが健在?です。おめでたい話では、娘と息子が生まれたことです。また、自動車の免許を取得しました。自家用車は仲間と共同でダットサン1000の中古を購入し、ドライブしました。正に、ドライブで兎にも角にも車で走ることが楽しくて、また自慢だった時代です。車の運転?は中学生のころ、今で言う部活でアメリカ製ビュイックを改造した木炭車(炭から出るガスで走る自動車)をほんの10メートルほど乗った事があります。すぐエンストしましたが。先生からエンジンの講義を聞いた後は、毎日毎日、車を磨いていました。今のして思えば良い経験をしたものです。
H 新居浜 西暦 1964年 昭和 39年 32歳
90歳の祖母が亡くなりました。枯れ木が折れるように静かに息をひきとりました。名家の生まれでしたが、明治・大正・昭和3代を生き抜きました。御維新さえなければ、大戦さえなければなどと言っていました。岡田十御郎翁の孫の孫です。あの年で小学校(寺子屋?)に通い、読み書き算盤が出来るのが自慢のようでした。新居浜での思い出はゴルフを始めた事です。昔、塩田だった所を開拓して9ホールのミニ・ゴルフ・コースが新居浜市郊外にあり、練習場も付属していたので暇さえあれば練習に出かけました。また、小松町に元飛行場だった場所に、やはり9ホールのゴルフ・コースがありました。いずれもセルフサービスでカートを自分で引きました。新居浜の福屋運動具店で美津濃のマスターフラッグ・ハーフセットを買い込み一流?のプチブル気分でコースに通いました。車はスバルのあの懐かしいビートル・スタイルのスバル360でした。車を持ってる人はまだまだ少なかった頃です。息子がまだ幼稚園に通う前でしたので、よく連れて行きました。息子に聞くと覚えて無いそうです。缶ジュースをよく買ってやりましたが。東京オリンピックの開催に合わせて、全国のNHKテレビ局を カラー放送が出来るように改修工事に励みました。この時我が家も三菱キドカラーを買いました。それまではキットを組み立てた3Q製のモノクロでした。自動車を三菱コルト1000に買い替えました。メタリック塗装の濃紺カラーで銀が混ざっていたので銀メタと呼んでいました。かなり自動車の整備に凝っていて、三菱電機製のウルトライグナイター(トランジスター点火装置)を通販で買ったり、プラグをアメリカ製の特殊なものに換えたり、エンジンのオイル交換不要というフイルターを取り付けたりしていました。そのほか色々やりましたが、今思うと、あれこれやったから車の性能が飛び切り良くなった訳でもなく、趣味と言うほかありません。今は、ガソリンスタンドとディーラー任せです。性懲りも無くパソコンの性能アップであれこれやっていますが、これまた似たようなものです。
I 松山(U) 西暦 1967年 昭和 42年 35歳
9年ぶりに松山に帰ってきました。でも転勤につぐ転勤で家族が大変でした。長女は二つ目の小学校です。長男を良い幼稚園に入れるため、ワイフは仮のクリスチャンというか、教会に通って息子の入園のために頑張りました。わたしも職種が180度変わり、一からのやり直しです。ポストは少しあがりましたが、仕事も大変でした。この頃から番組のタイトルに技術・勝岡 昭が出るようになり、全国放送だったりすると早速に知人から電話があったり、手紙が来たりしました。テレビの宣伝力は大した物です。この頃アマチュア無線を始めました。アイコムの携帯型50MHZ(機種は忘れましたが、VFOが不安定で苦労した覚えがあります)で頑張りました。JARLの四国大会や全国大会でNHKの技術陣が活躍したものです。私はJARL四国支部長JA5ZI松田 要さんの手下でしたが、実質は幹事長的存在でした。幹事には笹田無線さんもいました。今も喜与町で商売をやっています。NTTの田房さんの事もも思い出します。今は東京在住ですが、当時、NHK高知勤務の廣越アナウンサーの司会が素晴らしかった事を覚えています。懐かしい限りです。全国大会ではJA3が揉めそうになって、議事進行中にスタッフ がステージに飛び出してこれを止めたりしました。警察を呼ぶ呼ばないで理事者側で混乱したとき、私の一喝?で、無事警察沙汰にはならず、事が収まりました。当時のスタッフの方々の一糸乱れぬ団結に今更ながら感謝しております。団結とか、結束とか、共同体とか強い絆で結ばれた組織だったと思います。ただし、これらの事件は議事録には一切載っておりません。その頃、アマチュア衛星オスカーのことを聞きました。でも、交信するには至りませんでした。オスカー10で交信するのは8年あとです。
J 高知(U) 西暦 1969年 昭和 44年 37歳
二度目の高知勤務です。階級ですが名前が変わってチーフから係長に昇進しました。給料はかわりません。番組制作が仕事ですから、色々な方と知り合いになりました。
松平 定知。俗称「まっちゃん」。決まりの挨拶が抱き合って靴を踏み合うことです。徳川一門の名士です。良く太鼓を叩いて酒を飲みました。ひとつも名門を気取らない良い人です。荒川 修。俗称「あらさん」。語りの荒川と言われた名アナウンサーです。
K 松山(V) 西暦 1975年 昭和 50年 43歳
中学以来の友達の奥村 忠志がガンで死にました。大変ショックを受けました。
L 東京 西暦 1979年 昭和 54年 47歳
始めての東京勤務でした。その頃の私の出で立ちはと言えば、流行のサハリルックにロン毛つまり長髪でした。初出勤で自分の名前の付いた机に座っていると、「何かご用ですか」と問われた位、場違いな人間に見えたそうです。その夜の歓迎会では、この事で持ち切りでした。意外なくらい地方出身の人が多いので安心したものでした。
M 松山(W) 西暦 1984年 昭和 59年 52歳
定年のための転勤です。がこの時期が大切でした。形振り構わず、初心に帰って思いっきり仕事が出来ました。テレビジョン学会の幹事を仰せ付かったのもこの頃です。大勢の学者先生と知り合えました。民間放送(この言葉は、こだわるようですが嫌いです。商業放送が正解と思います。)の方々とも知り合えました。県の防災無線の仕事にも関わりあい、この方面の方とも知り合えました。NHKの中だけの蛙が、少しだけ世間を知りました。貴重な5年でした。ただし、後が無い5年でした。
N 定年(再就職) 西暦 1988年 平成元年 56歳
「NHK」を定年ではなく転籍して、「NHKサービスセンター」に再就職しました。仕事は「NHK」の「視聴者センター」出向です。ここでは視聴者の皆様からのNHKについての「苦情・質問」をお伺いする仕事をしていました。いままでのキャリアを生かせる?仕事です。一般的にいって、視聴者の皆様方は「NHKは国営だ」くらいしかNHKを理解していらっしゃらないようです。大橋巨泉など一部民放タレントが「某国営放送局」などと蛮勇を振るって発言していましたから・・・。蛮勇とは「おれはNHKの悪口を言うことなど平気なんだ。NHKなどに出演しなくても、有名なんだ」と公言して憚らない事を言います。「おれは受信料など払ってない」と言いながらちゃーんと払っていることを指します。払わないことは法律違反ですから。(但し罰則がありません。罰則は御自身の良心の呵責です。)ここで気分転換して愉快な話をひとつ、ふたつ紹介します。視聴者の方からの問い合わせで「マック・ハリーのコンサートの放送は何時ですか」若い学生サンの声でした。「マック・ハリー」はグループの名前ですか?と問い返したところ「はい、友達に聞いた話です」では調べましょ うと返事はしたもののデターベースにありません。グループの名前が出てきません。千葉県の幕張から別のグループの放送がある事が分かりました。正解は「幕張」を外国人風に発音して「マック・ハリー」の事でした。
O ご隠居 西暦 1995年 平成 7年 63歳
「毎日が日曜日」になりました。「毎日、何をしているんですか?」とよく聞かれます。「毎日、好きなことをしています」と答えることにしています。「いいですねー。うらやましいですねー」「勝岡さんは趣味が多いから」「私も早く、そんな身分になりたいものですねー」などと言われます。しかし、現実はそんなに甘くはありません。「何をしても良い」と言われると「何をしていいかわからなくなる」ものです。目標の定まらない飛行船みたいなもので、ふわふわと浮いているだけの状態です。せいぜい、日課を作って「けじめ」を付けています。朝夕の犬の散歩、週一回の熱帯魚の世話、月水金の町歩きなどなど、当たり前な事ですが欠かさぬように心がけています。毎朝夕、愛犬と会話しながら裏山を20〜30分歩きます。犬は知恵があり、感情があり、生身の生き物です。人間には足りなくなった動物の本能が生き生きとしています。色々と教えられる事もあります。犬は興味深く周囲を観察しながら歩きます。毎日が未知との遭遇かも知れません。途中、近所の人とも出会い挨拶したり、立ち話もします。出会いと、会話の大切さを知りました。老人が「オタク」になってしまい、寂し がる気持ちが良く分かります。
P 再々就職 西暦 2000年 平成12年 68歳
準備中
Q 再びご隠居 西暦 2001年 平成13年 69歳
準備中
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