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年代雑記 秘密暴露 番外口伝集 伊代屋一族 岡田家一族
我が家の愛犬「十五郎」は秋田犬のハーフです。実は「十五郎」は捨て子なのです。(十五郎には話していません)市役所の野犬保護係で見付けました。相部屋の檻の中ではなく、ダンボールの箱の中で兄弟4人?が寒そうに抱き合っていました。後一時間で全員天国行きと聞き、昼休みでしたが、急遽休み時間を延長してもらい、其の中の一匹を選んでもらい(柴犬と思って)、我が家に連れ帰りました。未だ目も十分に見えない生後10日くらいの赤ちゃんでした。「すりこみ」をしたのが私逹でしたから、親代わりの私達によく甘えます。
アルバイトで映画館の映写技師をしていた頃、映画の宣伝もしました。普段は「びら配り」でしたが、正月興行のスペシャルと言う事で、「サンドイッチマン」をやりました。松山では初めてだと言うので地元新聞に掲載されました。そのときの写真です。場所は市駅前から港町を見た方向。(昭和24年頃)「マルクス3兄弟」の宣伝です。左が私で、右が岡田君です。この時はふたりですが、もう一人久永君が居まして「3兄弟」と云うことです。馬鹿馬鹿しいドタバタ喜劇でしたが、娯楽に飢えた日本国民は挙って映画館に通いました。立錐の余地もないほど客席は人の海でした。写真手前の子供達の服装を見てください。正月でこれです。着るものがあれば良いほうです。左に見ますのは、あの有名な闇市です。闇と言うのに公然と商売していました。金さえあればと云うことです。進駐軍の横流し?物資も沢山出回っていました。50余年の歳月をつくずく感じます。
孫たちが書いた「私」です。「Art School Dabbler 2.0J」で書きました。ずいぶん若く書けてます。輪郭を書くとき、若干私が手伝いました。こんな絵を見せて親ばかでなくてジジイ馬鹿ですね。男3兄弟ですが、みんなで少しずつ書いた合作?です。
ひげ面の私です。髪も短いし、白髪交じりだし、で不評を買いました。ひげ面が似合うと言う人もいるのですが。トップページの「姓は勝岡、名は昭」で普通になってます。
アマチュア無線活動を活発にやっていた頃の写真です。横峰山に435のレピーターが出来た時の記念写真です。一緒にいた人が分かればいれば良いのですが。支部長の松本純一さん(胸に赤いリボン)と自分(中断の右から二人目)以外わかりません。ツーコールの宇和島の枇杷田さん、EEKの仙波さん、支部長のZI松田さん、NTTの田房さん・・・皆さんお元気ですか。
終戦直後にとって貰った貴重な写真です。この当時、写真機など持ってるのはかなり写真に凝ってるか、かなり金持ちだったのでしょう。疎開先の鴨川近くの「安田」さん宅の庭先です。ご主人の安田礼三郎さんは石垣島で終戦を迎え暫くして復員されました。お子さんは守一(もりさん)、光子(みっちゃん)の二人でした。前の川で鰻を釣ったのもこの頃です。
テレビジョン学会で縁あってキャリフォルニア大のポール博士と夕食をした時の写真です。博士は終戦当時日本に駐留していて大変な日本通でした。日本食が珍しいと思って「すし屋」にご案内したのですが、奥さんが「なま物」は全くだめでした。ステーキにはレア―があるのに魚は別、「タタキ」ならいいのかな?。仕方なく「イタリア料理」店に「はしご」しました。アメリカ人が日本に来てイタリア料理で満足していました。「カラオケ」で私が「テネシーワルツ」など「あちらもの」を歌うと大喜びで、盛んに二人でダンスをされました。「東大」と「京大」でも歓迎されたそうですが、「今夜が゙一番」とおっしゃいました。
年甲斐もなくバイクが好きな私です。黒の皮パンツに黒のジャンバー、「勝岡八幡神社」のお守りが目印です。車は「HONDA」のレブルです。250CCですが、これ以上だと引き回せません。高齢者には頃合です。親父の感化で、娘も学生時分に長い髪を風になびかせてツーリングを楽しんでいましたし、息子も学生時分の冬休みに東京から、寒い雪の降る中「KAWASAKI GPZ400」を唸らせて帰ってきたことがありました。二人とも今はバイクから離れています。