仮説 むかし話を思いつくままに・・・
仮説 超個人的な話 年代雑記 秘密暴露 番外口伝集 伊代屋一族 岡田家一族
 伊代佐衛門尉は河野家に仕えていた武将であるが、その昔のそのまた昔、伊予の国を河野家が治めるまでは、豪族として伊台の地を治めていた。北面の武士で伊田井(いだい)と名乗る南朝方の武将の名が記録に見られるが、西暦790年頃(桓武天皇の頃)勅命を受けて伊台の地に西法寺を建立する時、京都からこの地に派遣された武将ではないだろうか。よってこの地を「いだい」と呼んでいたのではないか。昔は当て字をよく使ったので、地名を音で「いだい」と言っていたが、文字は「伊田井」から「伊代」に、後に「伊台」と変わったと思われる。地名が先ではなく、武将の名前から地名が付けられたと推測したい。「伊」は伊予国の伊、「代」は代官の代か?
 河野家の先祖は「越智」とされているが、「越智」はベトナムまたは現在の中国・福建省あたりから渡来したボートピープルではなかったかと謂う説がある。「越」を「おち」とあちらでは読むらしい。しかし、越智のその前の先祖に「浮穴四郎太夫」と言う名前が出てくるが、その祖が伊予国浮穴郡を治めていた「伊予王子」とし、何十代も続く家柄とするらしい。おまけに考霊天皇を祖とする説まであるが、これは麻耶かしであろう。昔は何が何でも天皇家の縁者にしたかったみたいである。歴史と言うか古い書物に出てくる話には自画自賛が多く、時の権力者に都合良く書かれているみたいだ。荒唐無稽な物語さえ、まかり通る世の中でござんす。
 東雲にある古書店「東雲書房」の御主人の西本氏によれば、あまりにも無理な話は別として、つまり「書き残したほうが勝ったようなもの」だそうです。また、伊予の歴史家の第一人者で伊予史談会の景浦勉氏(歴史家・景浦直孝(号 稚桃 ちとう)氏のご子息)も、河野家の古文書に主なものが三つある。即ち「予陽河野家譜」「河野家譜・築山本」「予章記」とあるが、三冊を読み合わせて物語を自分で組み立てて理解して欲しいと言われています。本当の事は今も昔も闇の中。
 湯月城を小早川隆景(毛利元就の三男で小早川家に養子、親に似て調略の名人、血を流さずに戦に勝てると称して度々用いたらしいが、古来の武人の戦法には無かったバサラ風な戦略)に騙し取られたとして、河野家三十二将の大野山城守直昌、得能備後守通慶らは秀吉が九州攻めのため西下の途中安芸国竹原に上陸して、秀吉が宿所の雲龍閣でこれを襲撃したが果たさず、全員戦死。待機中の部下は竹原湾上で自決、他は四散したというのであるが、佐衛門太郎はその謀反には加わって居なかったに違いない。謀議には参加したとあるが果たして事実かどうか疑念が残る。河野家が滅亡し、やっと自分の土地に戻ったようなものだから、もうこれ以上河野家に尽くすことは無益と思ったに違いない。豊臣時代には伊台の地を安堵してもらっている。
 徳川の世となり事態は一変し伊台の地を離れ松山の城下に離散して移り住んだ。その一つは東の出入り口一万(上一万)で、ここは伊台と一番近い所にある。西は藤原、南は橘(立花)、北は松前町など、すべて城下の出入り口に近い所である。よほど「徳川」を恐れていたと思われる。名前も伊代屋と変え、明治時代まで続いた。西法寺薄墨賢衛住職の話に依れば、密かに城下で暮らしたのではないかと言う。
 番外、岡田十五郎伝
 岡田十五郎翁の話は子供の頃から祖母に聞いていました。私財を投げ打ち、村のため池を造った人だと。昭和30年頃、八幡浜に勤務していましたが、毎日新聞の地方版に岡田十五郎翁の記事が載り、祖母の話が実に正確に記載されていました。が、古三津の儀光寺にお参りには行きませんでした。まだ若くてご先祖の事に関心が無かった様です。
 昭和60年頃再び岡田十五郎翁の記事が愛媛新聞に載りました。しかし、内容が少し事実と違っていました。そこで始めて儀光寺を訪ねました。そこには岡田十五郎翁の功績が立て札になって立っていました。まさに、祖母から聞いた話に合致していました。
 相前後してNHKの番組で「儀光寺」が取り上げられました。そこでは岡田十五郎翁の話題は出ませんでした。が寺との繋がりが出来ました。早速、役得を利用して住職に岡田十五郎翁の古文書記禄をコピーして頂きました。何とか解読してワープロに打ち直しました。子孫に引き継ぐ資料としてです。
 平成4年、話が急転直下して「岡田十五郎神社」が地元三津土地改良区の皆様の尽力で建立される事になりました。三津土地改良区の理事長乗松敏男さんの話では、先ほどの古文書から子孫探しを始めたそうです。中島に渡り、訪ね歩いてこの辺りと見当を付け、偶然ですが福田家のおばあさんに尋ねたそうです。「それは私ところです」でやっと子孫にたどり着いたそうです。
 中島家の「善次郎」は病床にありましたが「今更なんでお宮か」と愚痴ったそうです。その訳はこうです。私財を投げ打って新池を完成し、古三津は再び栄えました。が十五郎翁は事業に失敗し、赤貧のうちに中島の福田家(十五郎の孫が養子した先)に身を寄せ、亡くなりました。福田家は妻方の「小立家」を頼って中島にいました。中島には十五郎翁の子「岡玄碩」が居ましたし。
 大正時代県知事閣下の命で新池の辺に顕彰碑が建ちました。昭和になって市長の肝いりで儀光寺に立派なお墓が出来ました。しかし、善次郎さんにしてみれば、貧しくして亡くなった十五郎翁の事を思い、「今更」がでたのでしょう。中島で医業を営んでいた「岡玄碩」夫妻のお墓は中島にあり、福田順一が守っています。岡田十五郎翁夫妻の墓は古三津儀光寺にあり、地元の方の供える線香と蝋燭が、すこしオーバーかもしれませんが、絶えません。
ちなみに私は新聞を見て自分から名乗り出ました。それ以来、毎年8月7日、儀光寺で岡田十五郎翁の命日に地区の方々と共に、盆踊りを兼ねた祭礼に参加し、ご冥福をお祈りしています。三津土地改良区の理事長乗松敏男さんの話が供養の後ありますが、毎年のように十五郎翁の公共心について語られます。曰く、我が我がの時代ですが、もう一度振り返り、世のため人のために尽くす事を考えましょう、と。