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 ・・・・・石手川にしても足立重信が重信川に注ぐよう改修するまでは千貫岩から北西に向って今の道後公園の南を通っていたことは道後地区の上水道水源地の豊富な地下水によっても知ることができるが、
松山城築城の前は今の二番町の辺りを流れていたというけれ共、往古の流域は洪水の度にその位置を変えるといってよい位のもので、ある時は城北を流れていたことも考えられる。
 石手川の名称ができる前は宝川といったというが今の古町駅の北に宝泉というのがあって清らかな水が湧いていたというからこれが宝川の名残りではあるまいか。
又その近くに亀の子泉というのがあって今でも衣山、久万の台、西長戸の重要な水源地である。
(今にして思えば子供の頃、「時計池」と呼んでいた時計みたいな木枠から泉の様に湧き水が出る池がありました。)
この附近を湯の山、伊台、道後、祝谷の水が流れていたとすれば洪水の時には多くの土砂を流して海を埋め、海潮のカと相待って陸地を形作ったことは容易に考えられるのである。
 
往昔旱魃の年あり久万の台三島神社に雨を祈祷す
社東方八町の泉辺に吾を遷すべし旱魃の憂を救わん との神宣あり
農民泉辺に仮小屋を建て神霊を遷し神楽を奏す
社司八尺瓊の術水の秘術を行えば両泉より一甲宛雌雄一番の大亀姿を現わす
忽ちにして二甲羅の間よりこんこんと清水湧き出で農民驚喜す
田面悉く満水し大豊作となるよって亀の甲泉と愛称す
爾来久万の台六百拾弐石の田地及び西長戸、古三津の田畑を潤す
明治十四年山越村よりこの泉を譲り受ける
昭和四十四年古三津及び西長戸は水利権を放棄せしが久万の台改良区民が中心となり泉を守る
しかるに時代の推移と共に住宅が密集し神泉も遂にその任を終え空しく都市文明の陰に埋没するに至る。
よってここに神泉の由来を後世に伝え祖先の遺徳を顕彰せんため碑文を撰しこの碑を建立す
昭和五十七年十月吉日
渡辺泌尿器科・内科の駐車場にあります
地図でご案内 松山市山越町445-1
 
背面の碑文は遊園地の鉄柵ぎりぎりで見え難い
歴代区長    久万の台改良区
中村 正春 区長  山内 通
白石 光清 副区長 得居 成功
星野 正一 書記長 芳居 大祐
白石 義時 出納長 白方 弘幸
白石 正文 土木主任 白方 義晴
白石 桂 土木主任 白石 友好
白方 知一
白方 一
白方 義視
白方 里尋