・・・・・石手川にしても足立重信が重信川に注ぐよう改修するまでは千貫岩から北西に向って今の道後公園の南を通っていたことは道後地区の上水道水源地の豊富な地下水によっても知ることができるが、 |
松山城築城の前は今の二番町の辺りを流れていたというけれ共、往古の流域は洪水の度にその位置を変えるといってよい位のもので、ある時は城北を流れていたことも考えられる。 |
石手川の名称ができる前は宝川といったというが今の古町駅の北に宝泉というのがあって清らかな水が湧いていたというからこれが宝川の名残りではあるまいか。 |
又その近くに亀の子泉というのがあって今でも衣山、久万の台、西長戸の重要な水源地である。 |
(今にして思えば子供の頃、「時計池」と呼んでいた時計みたいな木枠から泉の様に湧き水が出る池がありました。) |
この附近を湯の山、伊台、道後、祝谷の水が流れていたとすれば洪水の時には多くの土砂を流して海を埋め、海潮のカと相待って陸地を形作ったことは容易に考えられるのである。 |
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