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岡田十五郎さんの略歴

岡田十五郎さんのお父さんは岡田利衛(としえ)と言い、十五郎さんが25歳の時、文化(ぶんか)十二年(1815)九月十一日六十八才で亡くなられました。

お母さんは岡田おしげと言いいましたが、

文化四年(1807)三月二十七日、十五郎さんが17歳の時四十五才で亡くなられました。

岡田十五郎さんは、昔の古三津村、で寛政(かんせい)2年(1790)生まれました。

お父さんが43歳、お母さんが28歳の時でした。岡田家は家柄もよく(400年続く家系図があった)、

また十五郎さんも村人からの人望が厚く、三十才の若さで組頭(くみがしら)に選ばれました。

十五郎さんは村の発展のため一生懸命働きました。

注 くみ‐がしら【組頭】

江戸幕府や藩の軍事組織としての、組の長。徒組(カチグミ)・弓組・鉄砲組などの長。

江戸時代、名主(ナヌシ)をたすけて村の事務を取り扱った者。筆頭。年寄。長(オサ)百姓。

五人組・町火消の長。

そのころの古三津村は百数十町歩(100ヘクタール)の田圃(たんぼ)に對して長谷池(はせいけ)、

綛池(しのぶいけ)の二つだけだったので水不足が続いていました。

この池は慶長(けいちょう)年間(1596-1614)松山藩主 加藤嘉明(かとう よしあき)公が造ったと言われています。

池が二つしかないため毎年田植の時期になると水が足りなくなり、収穫全部を年貢(ねんぐう、今で言う税金)に納めてもまだ足りず、村の借金は年々増えるばかりで、

村人は食べるモノさえなくなり、益々貧乏になりました。その苦しみ様は口に出しては言えぬほどでした。村人は農業だけでは生活が安定しないため、

副業として塩の小売商(こうりしょう)(俗に言う一荷篭商 いっかかごあきない<背中に籠を背負って売り歩く=行商>)をするものが多くなりました。

今でもこの村に行商人が多いのは、この為ではないかと言われています。

注 ヘクタール【hectare フランス】

面積の単位。一アールの一○○倍、すなわち一万平方メートル。約一・○○八三町。記号 ha

十五郎さんは、このままでは古三津村が滅んでしまい村が無くなるのではないかと思いました。

それを救うには「養水池を造るしかない」「急いで池を造ろう」と村人を説得しました。

しかし、村人は「確かに池さえあればこの苦しみから逃れられる」しかし「どこに池を造る費用があるのか」などと言い反対しました。

十五郎さんは皆の反対を押しきって池を造る計画を練り、姉(邦姫さま(久松氏の祖母)の乳母として菅家に奉公していた菅の婆様)の力添えで、

家老(かろう)の菅五郎左衛門(三千五百石)にお願いしました。

この計画は直ちに聞きいれられ、普請奉行(ふしんぶぎょう)大川渡(おおかわ わたる)の指揮のもと工事が始まりました。

注 か‐ろう【家老】‥ラウ

江戸時代、大名の重臣で、家中の武士を統率し、家務を総轄した職。一藩に数名以上居り、普通は世襲。この名は鎌倉時代からあった。年寄。宿老。

注 ぶ‐ぎょう【奉行】‥ギヤウ

上命を奉じて事を執行すること。徒然草「庭の儀を―する人」

武家の職名。政務を分掌して一部局を担当する者。鎌倉・室町時代では評定衆・引付衆の称、

安土桃山時代では大老の下の参政の職、江戸時代では勘定奉行・寺社奉行・町奉行など。

宮中歌会始にその事務を担当する人。

注 1822 仁孝  文政  5 壬午

1823 仁孝  文政  6 癸未

1824 仁孝  文政  7 甲申

文政 五年(1822)(壬午 じんご みずのえうま)から七年(1824)(甲申 こうしん きのえさる)まで3年間、

春毎に旧和気郡二十三ヶ村のお百姓が加勢役として応援に来ました。

古三津村でも年齢十四才以上は男女の別なく「亀の甲」(重さ7〜8貫目<約30kg>くらいの石の周囲に24〜5本の綱をつけて「えーんやこーら…」と掛け声を掛けながら

地面を突き固める地固め)が十六組(約四百人)の外に、時々千人の人を雇って工事を進めました。

賃金は一人一日玄米七合(この当時はお金とお米は価値が同じだった)でした。この工事のお陰で家中が働けるようになり家々の生活は豊かになりました。

三年後、池の堤は完成しました。底の幅二十五間(約45m)高さ5間(約9m)幅五間(約9m)長さ百間(約180m)の大池堤の完成です。

しかし、村人には「この後どうして食べたら良いか」という心配のほうが先立ちました。其の位この工事は村人の生活を助け、感謝されました。

こく【石】

(慣用音。漢音はセキ)

体積の単位。主として米穀をはかるのに用い、一石は一○斗、約一八○リツトル。斛。

和船の積量で、一○立方尺。

材木などで、一○立方尺の実積の称。約○・二八立方メートル。

鮭・鱒などを数える語。鮭は四○尾、鱒は六○尾を一石とする。

大名・武士などの知行高(チギヨウダカ)を表す単位。「―高」

ひょう【俵】ヘウ

わら縄で作り、穀物・炭などを入れるもの。たわら。「四斗―」「土―」

たわらに入ったものを数える単位。米は普通四斗を一俵とする。

さて、池は出来たにはできたけれど、池に満たす水が思ったほど流れ込まず、その水源池に困りました。
村の借金は増えるばかりで千俵(せんびょう)(=4000斗=400石)にもなりました。

注 今、米1升(1.4kg)700円として1斗が7000円になる。4000斗=2800万円

豊かになった生活が逆戻りした為か、我慢出来なくなった農民から不平不満の声が湧き起こりました。

やれ「笊池(ざるいけ)」つまり、水が入ってもすぐ漏れて溜まらない。「こりゃたまらん」などと。

さすがの十五郎さんもこれには困り果てました。色々考えますが良い知恵が湧きません。困り果てた末に神様におすがりしようと、

久枝村久万の氏神さま三島神社(現在の衣山)に七日間の断食祈願をすることにしました。

その時の様子は顔色も褪せ、まるで病人のような姿になっていました。

しかし、神様は十五郎さんを見放しませんでした。そして夢の中でお告げがありました。

「明朝未明、山越亀の甲泉から鷹飛び来たり止まりたる所に水門を開けよ」

つまり、明日の朝、山越の亀の甲泉から鷹が飛んで来る。その鷹が止まった所に水門を開きなさい。

と言うのです。目が覚めた時の喜びようはこの上も無いものでした。

お告げのとおり、翌朝空を見上げると、果して一羽の鷹が飛んで来て綛池の東北隅の丘の上に止まるのが見えました。

十五郎さんは直ちに工事に着手しました。

しかし岩石(がんせき)が多く、長さ約100間(180m)、深さ一丈(じょう)五尺(4.5m)の水路工事は容易な事ではありませんでした。

工事をした農民に払う賃金は「岩片一升米一升」といわれ、砕いた岩片を一升運ぶと米が一升貰えた位つらい工事でした。

じょう【丈】ヂヤウ

長さの単位。尺の一○倍。約三メートル。「方―」「―六仏」

つえ(杖)。

長さ。たけ。「―尺」

強くしっかりしていること。「―夫」「頑―」

検地。丈量。

年長者への敬称。「岳―」

(「尉」「掾」「丞」等が起源で、江戸中期以後「丈」の字を当てた) 歌舞伎俳優の芸名の下に

添える敬称。明和・安永ごろより慣行。「市川団十郎―」

十五郎さんは自分の財産のほとんどをこの水路工事の為に使い果たしました。

そうして、やっと思いが達せられ、遂に水路は完成しました。またたくまに流れ込んだ水で池は

満たされました。

家老の菅五郎左衛門も岡田十五郎さんの功績を褒め称えました。

そして「もし亀の甲泉の水量だけで足らなかったら「寺井の水」(石手岩堰からくる水路)から水を引いても良い」とまで言われました。

おまけに古三津村の借金は横山代官に命じて郡の処理として全部免除されました。

だい‐かん【代官】‥クワン

主君にかわって官職を代行する者。中世、守護代は守護の代官、目代は知行主の代官。

大名が年貢収納など蔵入地の支配に当らせた者。

江戸幕府の役人で、幕府直轄地を支配し年貢収納その他民政をつかさどったもの。

これで、どんな日照りが来ても大丈夫になり、村の負債は免除となり、生活も楽になったのか、

正直なもので以前の不平の声も喜びの声に変わりました。

そして十五郎さんを誉めない者はいませんでした。

この偉大な村の功労者岡田十五郎さんも、安政元年(1854)七月十四日(今を去る六十七年前)ついに亡くなられました。

六十三才でした。村人みんなが悲んだと言われています。

明治三十一年(1898)古三津村の有志が相談して賞徳記念碑(しょうとく きねんひ)を儀光寺に建設しました。

その後、大正十年に新池築造百年に当たるというので天長節(てんちょうせつ=今の天皇誕生日)の日に記念碑を久万の台の新池池堤に移転しました。

恩人「岡田十五郎翁」の功績を永遠に表彰し、またその恩に報ゆる為に。

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