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岡田十五郎翁が水源を求めて七日間断食祈願をした衣山の三島神社
三 島 神 社
祭神 大山積命、高寵命、雷命 古事記の中の 神々の系譜
さしも剛謄なる十五郎氏も苦心惨憺粉骨砕身研究した。しかし力及ばず百方計つきて久枝村久万の氏神三島神社に七日間断食の祈願をかく。顔色消衰恰も病者の様であった。一夜神殿に霊夢を見る。「明朝未明山越亀の甲泉から鷹飛び来たり止まりたる所に水門を開けよ」と覺めて欣喜措くところを知らず。翌朝未明天を凝視すれば果して一羽の鷹飛び来たり綛池の東北隅の丘上に止まる。直ちに水門の開鑿工事を起こした。
岡田十五郎翁 の伝記参照  地図でご案内
正面の石段を上るとすぐ本殿
鳥居越しに見える本殿
立派な本殿の天井(左右に絵馬)
由緒
当三島神社は、聖武天皇の神亀五年八月二十三日(西暦七百二十八年)大三島宮より伊豫の国、百三郷に大三島大明神を勧請した、越智玉純の建立で三島宮と称した。往古より西の古宮山俗に柴山に鎮座し里人の崇敬を、受けていたが、延羽六年七月(西暦千六百六十七年)元御旅所であった当地久保ヶ谷に奉遷した。
以前は河野氏、久枝氏等の崇敬あり、殊に河野小太郎行恒は氏神社として常に崇敬があった故に、本社はもとより、末社十六王子社に至るまで、殿宇は壮大にして社領も数多くあったが豊臣秀吉の四国征討の際没収せられたと伝えられており、明治三十九年勅令第九十六号により明治四十年七月四日愛媛縣告示第三百十六号を以って神饌幣帛料を供進することを得べき神社に指定せられ、昭和二十年まで久枝村長が参向供進していた。
平成五年四月吉日 三島神社建設委員会撰文       
愛媛県護国神社宮司   波爾 荘 謹書
鳥居手前の手洗い場
軍人の服装で想像すると
日清日露の戦いの図?
東部ニューギニア上陸作戦
第45回慰霊祭記念(H6.10)
古い絵馬で内容は解らない
新田義貞公が七里ガ浜で
海を静めるの図?