新池 |
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新池は県立松山西高等学校の西側にあります。 |
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この池は、本村(古三津村)の岡田十五郎さんの働きによって、江戸時代末期の文政午年(1822年)松山藩の許可を受けて造られました。 |
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工事には1824年までの3年という長い年月が費やされて、古三津村の人々の窮状を救うものとなりました。 |
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その水源は萱町6丁目にある亀ノ甲泉で、そこから新地に水が引かれるようになったいきさつについて、次のよう、な伝説が残っています。 |
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岡田十五郎さんが苦心して造った新池は落成しましたが、その水源が見あたらず、村の人々からごうごうと非難されました。 |
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十五郎さんは苦しみ、悩んだすえ、三島神社に一週間断食してとじこもり、水源を教えて下さるようにと祈願しました。 |
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6日日の夜、夢の中で神のお告げがあり、「明朝東方、亀ノ甲泉から一羽の鷹が飛びたつから、 |
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その鷹のとまるところに関門をつくり掘り割lるべしとありました。 |
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翌朝、亀ノ甲泉に行ってみると、神のお告げのとおり、一羽の鷹が飛びたち、現在の久万ノ台公園の北のふもとに来てとまりました。 |
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そこで、十五郎さんはここに関門をつくり、水路をつくりました。 |
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それから冬期の亀ノ甲泉の水をここに通して池へ引き、満水させておくようにしたので、 |
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古三津村はどのようにきぴしい早ばつの年でも不作はなくなり、人々は大変喜んだということです。 |
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久万ノ台ゴルフセンターにある岡田十五郎さんの徳をしのんで建てられた記念碑には、一部次のように書かれています。 |
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碑文 |
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若シ此ノ人存シ存サ々レハ 本村ノ衷頽日二増シ月二増シ 農耕生活ノ道ヲ失ント欲ス |
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公田變シテ荒蕪ノ地迹を呈出ス 其惨情ヲ見ルニ忍ンヤ 今日ノ繁盛全ク難ルヘシ |
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(もし、この人がいなかったなら、水田は荒廃し、人々のみじめな生活は見るにしのびなかったであろう。 |
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また、村は日夜衰退の一途をたどり、農業で生活をたてることは困難で、今日の隆盛はむずかしかったであろう。) |
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「久枝点描による」 |
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うして、新池は古三津地区の田畑をうるおすため長年にわたって重要な役割を果たしてきました。 |
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けれども、宅地開発が進み、田畑は埋めたてられて住宅が建てられるようになったため、農業用水は必要とされなくなりました。 |
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その結果、昭和45年、新池はゴルフの練習用の池として利用されるようになりました。 |
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新池と共に「綛(かせ)池」と「長谷池」も古三津地区の田畑をうるおしてきました。 |
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しかし農業用水に利用されていただけでなく、景勝地としても有名で人々の心もうるおしてきました。 |
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久万ノ台公園からをがめる「@池・新池」の景観はすばらしく、久枝音頭(昭和6・7年頃作られる)の中にも、 |
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「春のうてなは桜の久万よ かせの池水かせの池水美しや」と歌われている程です。 |
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(*うてなー四方が望めるように造った高い台) |
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また、水利権のあった古三津と養魚権をもつ久万ノ台が、交代で3年に1回池ぎらいを行ない、 |
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うなぎ・こい・ふな等がたくさんあげられて、池ざらいを行なった人達に振るまわれました。 |
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このように古三津や久万ノ台の人々の生活と深く係わってきた「かせ池」は、 |
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農地の宅地化が進んでゆく中で埋めたてられ、あとには昭和49年に松山西高等学校が建設されました。 |
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長谷池も昭和41年に半分が、50年以降に残りも埋めたてられて、国道437号線用地や住宅地として、 |
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また不燃物等の捨場や公園に利用されています。 |
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農民を救った岡田十五郎 |
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「三津界隈はええとこぞなもし」 1996年10月20日発行 著者 山野 芳幸 編集 三津浜公民館館長 発行者 松谷 照男 |
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1994年(平成6年)は、松山地方が百年ぶりの異常渇水に見舞われた年であった。 |
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瀬戸内は、瀬戸内式気候といって、降水量が少なく、日照時間が多く、カンカン照りの干ばつになりやすい気候である。 |
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1820年ごろ、この松山地方は、カンカン照りの日が続き、川の水も枯れ、田に引く水もなく稲作もできず、 |
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古三津一帯の農民は、行商などに出て糊口をしのいでいた。 |
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当時、古三津には、30歳で組頭をしていた岡田十五郎という若者がいた。 |
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彼は、この窮状を打破するため、途方もないことを考えついた。 |
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「このままでは村は全滅する。池をつくつて田に水を入れることにしてはどうか」と村人に話した。「とんでもない。 |
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いまのままでも年貢の未払いがたまっているのに、そんなことは、できるわけがない」と猛烈な反対にあった。 |
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しかし、十五郎は、綿密な計画案を立て、家老の菅五郎左衛門に、何度もねばり強く説明し、実施するよう懇願した。 |
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十五郎の誠意が藩に通 じ、遂にゴーサインがおりた。 |
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請奉行、大川渡の直接指揮で、池づくりの大工事が始まった。 |
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1820年(文政3年)から1822年(文政5年)の3年間の工事で遂に完成した。 |
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「松山西高校前の新池」 |
「頌徳碑」 |
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三津土地改良区から出している「岡田十五郎翁伝記」によると、当時の苛酷な工事情況がうかがえる。 |
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「ーー−年令14歳以上の男女の論なく、亀の甲(約30キロの石の周囲に24本の綱をつけて土地を突き固めるもの) |
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16組(凡そ400人)外に時々1000人遣いとして、一日に1000人の人夫を使役す。1人役として玄米7合半(約1.2kg)を賃金として支給された。」 |
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米を支給されたので、家計は助かった。 |
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このようにして、池の底が約45メートル、高さが約9メートル、長さが約182メートルの池が竣工したのである。 |
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三年の辛苦の末、やっと池は完成したが、村民は、ほんとうの喜びには浸れなかった。 |
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「さてもさても池は出来たが、4年目は、工事の仕事もなく、米もすぐには収穫出来ないし、ほんに困ったことだ」と天を仰ぐばかりだった。 |
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なにより困りはてたのは、村の負債が、米1000俵以上となってしまったことである。 |
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村民の不満が日に日につのり、その不満のはけ口が、いつのまにか岡田十五郎の方に向かっていた。 |
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「十五郎さん、約束が違うじやないかな。池には水は入らないし、借金は増えるし、これじゃ生きていけんぞな。」と口々に非難するのであった。 |
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冷静、それでいて行動力の十五郎は、解決の目途が立たず八方ふさがりの状態だった。 |
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さしもの十五郎も、神仏の祈願にすがるのであった。 |
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久枝村の三島神社に七日間の断食をした。体力がすっかり弱って、まるで病人のようになってしまった十五郎が、ある夜、夢をみた。 |
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「明朝、未明、山越の亀の甲泉から、一羽の鷹が飛び立つ。その鷹の止まったところに水門を開け。きっと水が出るであろう」という神のお告げだった。 |
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翌朝、東の空から一羽の鷹が飛来し、綛(かせ)池(現在の西高)の東北隅の丘の上に止まった。 |
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それから再び農民を説得し、十五郎自身の私財を投じ、水門堀削の工事に取りかかった。 |
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岩盤突起し層厚く、堀下げ工事は難渋をきわめた。足立重信の岩堰付近の岩盤取り除き工事では「石屑1升に米1升」という記録があるが、 |
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十五郎の場合も「岩片一升米一升」を取りかえるという有様であった。 |
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困難をきわめた難工事も遂に完成する日が来た。 |
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亀の甲泉の通水路の久万川の水が、綛池を流れ、そして完成した池に水がとうとうと流れこみ、たちまち満水になったのである。 |
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「岡田十五郎神社」 |
「岡田十五郎翁之墓」 |
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農民の喜びは当然のことながら、藩の家老、菅五郎左衛門も、ことのほか喜び、 |
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十五郎の努力と功をたたえ「今後、万一亀の甲泉の水量が不足することがあれば、石手の岩堰の水を引いてもよい。 |
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加えて、今までの年貫は全て免除する」と寛大な処置と励ましの言葉をもらった。 |
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このあと、いかなる干ばつものり切り、村人たちの生活は豊かになっていった。 |
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いままでの不平不満は、喜びと感謝の声に変った。十五郎は神様のように、尊敬されたのでぁったが、1854年(安政元年)65歳で亡くなった。 |
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明治31年「頌徳碑」が儀光寺に建てられたが、大正10年(新池築造100年)を記念して、現在地に移しかえられた。 |
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儀光寺境内には、りつぱな岡田十五郎翁之墓がある。墓の横には、三津土地改良区が、その偉徳をたたえる説明板を建てている。 |
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「・・・村の窮状を救った翁の功績は今に語り継がれ、崇高な公共心は不滅の光を放っている」 |
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とあり、儀光寺では、毎年八月七日御霊を祀っての報恩供養が、ねんごろに営まれている。 |
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平成4年10月、久枝神社の境内に「岡田十五郎神社」を、三津土地改良区を中心に関係者の協力を得て建立された。 |
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三島神社と亀ノ甲泉跡 |
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国道437号線と県道和気衣山線が交さくする場所の南西角地に三島神社がある。車が轟音をたてながら疾走する。 |
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一歩、境内の神域に入ると、騒音はぴたりと止まり、さまぎまな小鳥が鳴き、別天地にきたような静けさである。 |
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それもそのはず、神社の入口に、鳥獣保護地区として松山市に指定されている。 |
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鎮守の森といった感じで、うっ蒼とおい茂った森が、小鳥たちの楽園となっているのであろう。 |
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岡田十五郎は、ここで7日間、断食をしなてが一心不乱に祈りつづけた。そして神のお告げがあった。 |
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お告げに勇気百倍の十五郎は、その予言通りに行動を開始し、見事、水を堀り当てることができた。 |
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神の使者の鷹が止まっていたところを綛池という。 |
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「亀の甲泉」も、普は十分水が出なかったが、前頁の三島神社に祈願することにより、こんこんと清水湧き出て、農民を驚かしたという。 |
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このおかげで、周囲の農村は、いつも満水の水で大豊作となり、「亀の甲泉」と愛稀で呼ばれるようになり今日に至っている。 |
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しかL、時代の推移とともに、住宅が密集L、水田耕作も少なくをり、その役目も機能Lなくなった。 |
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都市化の波の影響をもろに受け、埋没することとなった。 |
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神泉の由来を後世に残すため、地元土地改良区の方々により、「亀の甲跡」の碑が残された。 |
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岡田 重五郎 三津浜誌稿より 「重五郎」は間違いで 「十五郎」が正解 |
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古三津の百姓百姓に非ず、「古三津の旧家」、寛政2年呱々の声を上げ30歳で組頭に選ばれた。 |
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当時、古三津は養水不足で、年貢にも不足を生じ、年々借金がふえるばかりで、村民の窮状は筆舌 につくし得ぬ状態であつた。 |
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それで村民は農業のみでは生活でさないので、副業として塩の小売商いをしていた。 |
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この現状をながめた重五郎は、村民大衆のために用水池の築造を思い立ら、家老菅五郎左衛門の許しを得て、 |
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私財を投じ、苦労に苦労を重ねて、3年の後、ようやく、完成した。 |
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今日の旱天続きで近隣の田畑の作物が枯死する時でも、この古三津300町歩の田は、青々として水が溢れそうである。 |
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百姓から旱魃の害を救う!これ程偉大なる業績が他にあろうか。 |
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安政元年7月14日逝去。享年63歳 |
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古三津の百姓とあるが、この当時、百姓の身分で城代家老と話が出来るはずが無い。 |
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姉は城主の正室邦姫の乳母だった。 |
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百姓でも豪農あるいは武士の端くれ。 |
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娘「おしん」は松山藩士「梶原何某」(松山藩馬周り役「梶原平助」の末裔)に嫁いでいる。 |
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能、狂言を好み上級武士を招き能舞台を開いていたと言う。 |
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また、東雲神社に能衣装を寄贈したとも聞く。 |
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また、息子「玄碩」は藩医であったが故あって中島に移り岡家に養子、岡 玄碩と名乗り町医者を営む。 |
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子供はいなかった。 |
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岡田十五郎翁家系 |
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岡田十五郎翁の秘蔵していた過去帳に依るに、 |
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大永(1521)、寛永(1623)、 |
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元禄(1688)、正徳(1711)、 |
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享保(1716)、明和(1764)、 |
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天明(1780)、寛政(1789)、 |
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享和(1801)、文化(1803) |
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と年代順に祖先の記録あり、大永年間は戦国時代で今から約四百七十年前の昔である。 |
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この様に昔から歴然と続いているのは家系としても珍しい。 |
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