第五段 (2002.10.11) 宝巌寺にある斎藤茂吉の「あかあかと一本の道通りたり・・・・」は松山出身の愛人を訪ねた時・・・

(宝巌寺にある斉藤茂吉の「あかあかと一本の道通りたり 霊剋(たまきわ)るわが命なりけり」は松山出身の愛人を訪ねた時に詠んだ歌かとの問い合わせありたること)
アララギ派の歌人ではありませんので斎藤茂吉の歌に精通しておりませんが、愛人である松山出身の永井ふさ子を謳い上げた歌を先ずご紹介しておきましょう。

「あかあかと一本の道通りたり・・・
清らなるをとめと居れば悲しかりけり 青年のごとくわれは息づく
ほのぼのと清き眉根も嘆きつつ われに言問ふとはの言問
狼になりてねたましき咽笛を 噛み切らむとき心和むまむ

24歳のふさ子と53歳の茂吉の出会いは昭和9年(1934)9月、正岡子規の三十三回忌の歌会が向島百花園で開催された時である。妻輝子のスキャンダルで別居中の老大家と、茂吉に崇高な念を抱いていた美貌の女性との緊密な関係は急速に秘密裡に進んでいった。
ふさ子は茂吉との中途半端な関係を打ち切り、昭和11年(1936)暮れ、松山に帰省し見合いの上結婚を決意するが、茂吉が横槍を入れる。
昭和12年(1927)5月18日熟田津の踏査に名をかりてふさ子に逢いに来る。この時、茂吉を子規生家跡、正宗寺、松山城、一遍聖生誕寺宝厳寺に案内する。尚茂吉の実家,養家とも宗旨は時宗である。4日間の滞在で二人の関係は一層深まり、その結果一人の女性の運命を狂わせてしまった。
情熱の歌人額田王の「熟田津に舟乗りせむと月待てば 潮もかないぬ今は漕ぎ出でな」にまつわる茂吉とふさ子の悲劇の誕生と結末である。
「あかあかと一本の道通りたり 霊剋(たまきわ)るわが命なりけり」は、茂吉を代表する名歌であり、大正2年(1913)東京代々木での作品である。
現在宝厳寺に在る「斎藤茂吉埋髪歌碑」は平成3年(1991)一遍生誕会の日に除幕式があったが、愛媛県の代表的な歌人である山上次郎氏の寄進による。同氏が戦後茂吉から手渡された親筆である。ふさ子と一緒に境内を歩き,肩を寄せ話し合ったと思うが、その時の歌は残念ながら見出されていない。
一遍聖が文永8年(1271)の春信濃の善光寺を参詣した折二河白道の本尊を描き、伊予の窪寺で念仏三昧に入った閑居にこれを掲げたが、正に「一本の道通りたり」ではなかったか。
「あかあかと一本の道通りたり 霊剋(たまきわ)るわが命なりけり」の歌は、茂吉とふさ子の煩悩を昇華した次元で、この歌碑は宝厳寺の境内に相応しいし、山上次郎先生の慧眼に頭が下がる思いである。

(注) 永井ふさ子と実名を挙げましたが、ふさ子は茂吉と交わした愛の書簡を公表しておりますことを付記します。