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評価される思想と行実 一遍上人と伊予 河野 憲善 (島根大学教育学部教授) 昭和40年4月
 一遍上人は伊予の豪族河野家に生誕された。延応元年二月十五日、所は道後湯月舘(ーやかた)、今の宝厳寺の位置と伝える。河野通広の二男であり、松寿丸と名づけられた。祖父通信の祖父親清は八幡太郎義家の子、祖父伊予守頼義の養子として任地にあり、三島四郎とも河野冠者ともいった。河野親経(ツネ)の婿となり、河野家を継ぎ、子なく三島明神に祈り、妻妊(みごも)り男子誕生、その故に三島明神の申し子の伝があり、背高く膚に鱗(うろこ)があったというが、おそらく鮫(さめ)膚の人であったのであろう。この人が通清、その子が河野通信であり、源義経の招きに応じ、壇の浦の平家討伐の水軍を指揮した。もと源平二軍は水軍において平家は一日の長であったにもかかわらず、さらに玄人(くろうと)の河野家が源氏についていることは誤算の一つであった。後頼朝に従って義経なき後の平泉に遠征、承久の変には後鳥羽上皇の院宜を奉じて立ち、一敗地にまみれて奥州江刺郡に流された。その墳墓が愛媛史談会の方々に探索されること年久しうしたが、昭和四十年七月岩手県文化財委員司東真雄氏によって発見され、その事は早く私のもとに報告された。その年の十一月初旬愛媛大学学生祭 に招かれ講演した私の発言がその場に居合わせられた愛媛県史家の驚きと悦(よろこ)びを喚起し、その十二月には愛媛大学の重見教授は遠く陸奥の墳墓を調査された。予期しない伊予の史家の衝撃にむしろ私の方が驚いたのであった。鎌倉時代の河野通信はそれほどに伊予にとつては重要な歴史上の存在であつた。その事がわからないわけではないが、明治時代以降の郷土史家のご尽力は思いも及ばなかつた。
 通信に通俊、通政、通末、通久、通広の男子があり、通政と通久の母が北条時政の女であり、他は母を異にしている。通久のみが、承久の変に関東方につき字治川を渡って功を立てたことが伝えられているが、骨肉干戈の間に相見ゆることとなった。その結果は通信はさいはての地に流され、兄たちは信州に流されその場で斬(き)られた。通久が宗家を継いだものの昔日のおもかげは失われん一遍上人が誕生された時はまさに没落の直後だったのであり、父通広の動静は伝えられないが、病弱の故に家に留まったのではなかろうかと、推察されている。通久の子通時と孫通有は元寇の際、博多湾頭に奮戦したことは余りにも有名であり、ー遍上人在世の砌(みぎり)である。海音寺潮五郎氏は聖と通有が鎌倉の辻で会ったことを書いておられるが、史実としては実証されないが、一族熟知の間であった。
 松寿丸七歳の時、継教寺の縁教に就学、その三年後、母の死にあう。建長三年十三歳僧善人と相具して筑紫の聖達上人の室に入る。聖達上人は法然上人の弟子証空上人の門下、したがって浄土宗西山派の巨匠であった。しかし当時証空上人の門流を西山派といつたかどうかは疑問である。おそらく善導流の念仏門という意儀しか、一遍上人の全生涯を通じてもなかったと思われる。 聖達は同門の肥前の華台のもとに送り、名を智真と改める。翌春聖達のもとに帰り勉学し、延長三年父入道如仏の死により、伊予に帰る。一遍二十五歳の時である。それより在国八年、この間還俗したという説もあるが、すべて史料不十分であり、女性関係等ためにする妄説(もうー)が多い。興味本位な憶測こそ歴史を誤るものである。俗塵に交わるとあっても、それは結婚したという意味にはならない。遊行中、男女関係について峻厳(しゅんー)な態度をくずされなかつたことから推して、若い日に淫靡(いんぴ)な生活があつたなどとは考えられない。何か複雑な事情があったことは想像にかたくないが、放埓(ーらつ)ということにはならない。 文永八年信濃善光寺参詣、その後伊予の窪寺に出居、同十年上浮穴郡の岩屋に参るうす。そのおり末弟通定が随遂した。のちの聖戒その人である。文承十一年春伊予を立ち、夏熊野本宮に祈誓して念仏賦算の神告を受く。この時聖戒は伊予に残る。この年を建治二年とする読もある。その後郷国に帰り、二年九州旧師をたすね、それより南は薩隅のはてから北はみちのくまで、念仏弘通のため諸国行脚に寧日もなく、旅に出て死した。
 弘安元年にも故国伊予にあり、三年には遠く奥州江刺郡の祖父通信の墳墓をとむらっている。正応元年故国岩屋繁多寺を巡礼、大三島に詣(もう)で翌年八月兵庫の津にて旅のままに入寂。五十一歳。
 その使命とするところは諸国をかけめぐって本願念仏を弘通(くつう)する勇猛精進のみにあつた。その思想と行実は高く評価さるべきであるにもかかわらず、松山の人々にも余り知られていないのは遺憾とするほかはない。