第二十四段(2003.05.08) 寶厳寺境内の観音堂の脇にある句碑には説明文がないのですが由緒ある句碑かどうかの問い合わせありしこと。

寶厳寺境内の句碑は子規、茂吉など著名な句碑が多くありますが、観音堂脇の句碑は地元の方も観光客も見過ごしてしまわれている様に思います。
句碑の表面には『あとやさき百寿も露のいのち哉 静雲』、裏面には『願主 小原菁々子 柴田慎子 施主 阿部節子』と刻まれています。ホトトギス系の俳人の方であれば静雲と云えば「冬野」の主宰者河野静雲師を想起されるでしょう。

静雲師の句碑・・・・明治20年福岡の一行寺(浄土宗)に生まれ明治25年に称名寺(時宗)の河野智眼の養子となりました。藤沢の時宗宗立学林で学び総本山遊行寺の執事を務める。と書けばちゃきちゃきの時宗のお坊さんということになりましょう。俳誌「ホトトギス」(創刊は明治30年)への投句は明治38年遊行寺時代からと古く、大正12年に帰郷し俳句の道に入り、昭和24年には大宰府の観世音寺月山に「花鳥山仏心寺」(俳句寺)を創建開山する。恐らく一遍生誕寺である寶厳寺へも訪ねられたことがおありだったのでしょうか。(詳しくは「冬野」編集部に問い合わせています。)

ところで酒井黙禅の『子規忌過ぎ一遍忌過ぎ月は秋』なる句碑が境内にありますが、黙禅師は昭和初期の愛媛県下のホトトギス派の重鎮です。東大俳句会出身者を虚子が郷里松山に送り込んだ由ですが、寶厳寺で静雲師との出会いがあったのでしょうか。